長年関わってきたチェルノブイリ救援活動。もうそろそろ若者とバトンタッチをしようと思いつつあっという間に月日は経過。さらなる困難な状況の中、退くのもためらわれ今しばらく関わらざるを得ないか、とハラを決めたところに認知症の母と同居することに。私個人の二大関心事をテーマに日々のできごとを綴りたい。
2008年12月30日火曜日
2008年12月29日月曜日
チャリティオペラコンサートに
主催のフェニックス証券にはなにかとチェルノブイリ救援活動を
応援してもらっている。
社長の丹羽さんは七転び八起きというブログをもっており、
FX業に関して、また金融界についてほぼ毎日更新中だ。
社長業の合間にどうやってオペラの練習をするのか不思議に思っていた。
が、やはりあまり練習するヒマはなかったらしい。丹羽さんの歌は
ご本人も言われているようにいま一つのでき。
しかし、ほかの出演者はすばらしかった。
水船桂太郎さん(テノール)、田村佳子さん(ソプラノ)、豊島雄一さん
(バリトン)、堂々たるプロの歌手たちの歌いぶりはオペラをあまり
知らない私のようなものの心にも響いてくる。
おまけにヴァイオリニストの印田千裕さんが特別出演。
ピアノ伴奏の矢持真希子さんもすばらしかった。
社長の丹羽さんの企画・演出力もよかった。
2時間強の演奏会、堪能した。
おマケが生きテク(自殺解決マニュアル)というサイトを作って、自殺者を
減らす運動をしている人を舞台にあげて紹介。
このサイトを多くの人に知ってもらいたいと語っていた。
今年1年間で6000人がこのサイトを見て自殺するのを止めたということだ。
丹羽さんは子どものころ両親から
「戦争でも自然災害でも景気後退でも、不幸になるのは、いつの世でも
貧しい人達だ」と繰り返し教えられてきたという。
「自分のブログの“軸”もそこにあり、今日の演奏会の魂も同じ」と
プログラムに記していた。
折しもイスラエルがパレスチナのガザ地区空爆のニュース。
かつてない最大規模の空爆ということだ。
今後も空爆の継続または地上戦もありうるとイスラエル。
またしても弱い市民が被害にあう・・・
2008年12月24日水曜日
どうしたのかな?
クリスマス会に娘が行ったときは元気だったという。
と言っても大勢いるところはいやだと言って
なんとしても部屋をでたがらなかったので
クリスマス会の料理もおやつも自分の部屋で食べていたということだ。
娘のことは、はっきり認識したようだ。
会話も少ししたという。
きのう、私がのぞいたとき、ちょうど夕飯の時間だったのだが食堂にいなかった。
職員の方が食堂に行きましょうと声をかけても私が声をかけても
ふとんをかぶったままビクとも動かない。
聞いているらしいことは気配でわかる。
数日前、友達の母親が亡くなった。
92歳だから大往生と言えるだろうが骨折で入院して、食事をとらなくなった、
と心配していた矢先だった。
母も食事をとりたがらないということは・・・
今日は行けなかったので、心配になってホームに電話をしてみた。
そうしたら、4日間入浴も拒否していたが今日は入ったという。
また、おやつも食事も部屋に運んだらきれいに食べたそう。
何か思うことがあるのか?
2008年12月20日土曜日
クリスマス会
ときどき、あの愛くるしい声を思い出す。
日々の暮らしに追われ、次第に悲しみも薄らいでいく。
家族や毎日のように見舞いに行っていた近所の友達はそうはいかないだろう。
でも、それも月日をかけて克服していくしかない。
今日は、母が入居しているグループホームのクリスマス会の日。
私は今年最後の「基金ニュース」発送のため出席できない。
先週、ホームで運営会議なるものがあり、それに出席した。
そのときに今日は参加できない旨を伝えた。
みなさんいらっしゃるから・・・・ お孫さんは?
そうか、娘に聞いてみるか。
彼と助産院さんに行く日で、午後は空いているという。
彼も一緒にのぞいてくれるという。
そうだ、母が唯一の孫と呼んでいる○○○ちゃんにも聞いてみよう。
4月の入居の時に来てくれてその後は夏に一度来て、確かそれ以来だと思う。
メールを入れたら、
「行けたら行きます。たぶん行けます。」
といううれしい返事がきた。
さて、孫たちをみて母はどんな反応か?
乞うご期待だ!
2008年12月9日火曜日
友のこと
「これから原発に依存しない地域づくりに私たちも具体的に何か出来そうな可能性が出てきたところでした。彼女もおそらく故郷の将来を心配しつつ逝ってしまわれたのだと思います」とのメールが届いた。
2008年12月8日月曜日
「東電と共に脱原発をめざす会」の窓口を担っていた友
さぁ、外にでて、公園の周りなどにチラシを貼ってこよう、と思って
起き出したところに、電話が。
ガンで闘病中だった友人が亡くなったという。
10日ほど前に見舞いに行ったが、バザーが終わった月曜日に
また見舞いに行こうと、計画していた。
間に合わなかった。残念無念・・・
7年前に大腸がんの手術をして順調に経過していた時期もあった。
でも今年の春ごろから、あちこちに転移して悪化の一途をたどっていた。
きつい副作用も覚悟の上で、医師の言う通り抗がん剤治療を続けていたのだが。
妹のように治療を全面的に受け入れらない経済的事情もなく、
恵まれていた環境にいたと思うが、世の中はままならないものだ。
最後の1週間は薬のせいだろうか、ほとんど眠っているときが多かったようだ。
東京電力と市民グループとの交渉窓口として、私たち市民側はもとより
東電側からも 全幅の信頼を寄せられていた。
こんなに東電との付き合いが長くなるとは、始めたときは夢にも思わなかった、
早くこんなこととはさよならしたい、と語っていた。
脱原発がもっと早い時期に実現の可能性があるなら、あるいは友の病気も
悪化しなかったかも知れない。
享年58歳。冥福をこころから祈りたい。
2008年12月5日金曜日
娘の結婚と荷物の山
なにはともあれめでたい。
今は仮住まいの身で、急きょ荷物を整理することになり、
衣装箱にして6箱、しばらくの間預かってくれと、我が家に届いた。
しばらくというのはいつのことなのか? それは本人もわからない。
預かる荷物のほかに、バザーに出してというのも届いた。
バザーは明後日。ここ1週間、家に帰ると提供品がドアの前に置いてある。
チェルノブイリ救援のためのバザー、年に2回開催しているが、今年で10年目だ。
提供品は増えこそすれ減らないように思う。
少しでも役立てたいという気持ちの表われだろう。
あるいはチェルノブイリ被害者を助けたいという強い気持ち。
また、希望的観測としては日本の原発もなくすために協力したい?
また、近年、ムダなものを置かない風潮。
そして、この地域の住民全体が高年齢化してきているので元気なうちに片づけたい?
ま、理由はさまざまだろう。
とにかくそんなわけで我が家は荷物の山である。
2008年12月1日月曜日
イベント日和だった30日
六ヶ所村の核燃料再処理工場の稼働をストップさせるためのライブ&トーク&パレード&ライブ。
仙台、福島、名古屋などから来ていた知り合いの顔も見えた。
上野をパレードするのは初めてだったので、期待して参加した。
もちろん、チェルノブイリカレンダーを売るのも目的だったので、こちらも期待した。
ところが、カレンダーの手持ちがそんなになかった。
11部と見本と昨年タミさんから譲り受けた子ども基金のバナーを、キャスター付きのバッグに入れて運んだ。カレンダーがもう10部ぐらいあったらな~、と思ったが手遅れ。
出店ブースは実行委員会からビッグイシューと机を半分ずつ、と割り当てられていた。
ブース代も3000円の半分だから、スペース的にも経費的にもちょうどよかった。
ビッグイシューさんは売れた売れた。
50部以上は売れたのではないか。
この日のイベントに合わせた内容のバックナンバーが揃えてあり、今まで結構買っていると思ったが、買ってないのもだいぶあるのがわかった。4冊買い求めた。
同じように複数冊買って行く人が結構多かった。
ビッグイシューの販売員さんは見覚えのある顔だった。お茶の水聖橋付近で立っている人で、そういえば、買うときに会っていたのと、数号前のビッグイシューのコーナーにその人が載っていたのを思い出した。
ボランティアの方とお昼交代されたので、何食べたの? と聞いたらカップラーメン、という答え。
会場内にはおにぎりやカレー、ラーメンなども売っていたのだが、外に出て、コンビニでカップラーメンを買ったらしい。当然、中で買って食べたと思って聞いたのだが、値段が違うから当然か。
自分の甘さを再認識。
私はおにぎりとパンを家から持ってきていたが、おにぎりは食べてしまった。3時頃、残っていたパンとポットのお茶を差し上げたら喜んでもらってくれた。
パレードには彼は参加しなかった。売れた?と聞いたら、パレード中は1冊だけと少し気落ちしていた。
でも、みんなが戻り、またライブが始まったころ、ビッグイシューの前には人が集まってきて売れ始めていた。
最後まではいられなかったが、販売員さんと友達になれたのがうれしかった。
そうそう、カレンダーは完売。予約も2人受けた。
明日あたり、ビッグイシューの販売員さんを写した写真を、神楽坂事務局だよりにアップする。
パレードの様子、会場内などの写真もそちらに載せたい。
2008年11月29日土曜日
上野水上音楽堂で六ヶ所村再処理反対イベント
集まってイベントを行う。
昨年も参加したが、今年もチェルノブイリ救援カレンダーを売ったり
ライブを楽しんだり、パレードにも参加したいと思う。
昨日の大雨がウソのように、関東は晴れている。
明日も晴れに違いない。
以下、実行委員からのメールを転載。
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東京・上野で11月30日に「反再処理集会」
NO NUKES MORE HEARTS 長年首都圏で反核や反再処理工場の活動を
してきた方々とワカモノたちが一緒になり、 昨年11月よりサイトを立ち上げ、
イベントを開催してきました。 4回目となる11月30日には上野水上音楽堂にて
入場料Freeイベントを開催いたします。
再処理工場は15回目の延期が報道されました。
デーリー東北
東奥日報
昨年につづき、今年は1月、7月、そして全国で集会やデモパレードなど、 一般
市民の手で、 各地で再処理工場に反対するイベントが展開されてきました。
また、市民の手で青森、岩手、東京と意見広告が出されました。
いつまでも、おいしい青森の魚や野菜やお米を食べて暮らして生きていきたい!
今回はタイトルにもあるように 秋の収穫祭ということで、フードブースやワーク
ショップブースも用意し、どなたにも気軽に来て楽しんでいただきながら、
真剣に伝えて持続可能なエネルギー循環社会を考えていくきっかけとなる
ようなトークやライブを企画準備しています。
56基目の原発建設計画で今まさに揺れている 山口県祝島の写真展なども開催致します。
今まで賛同いただきましたアーティストの方々と、さらなるつながりと展開を期待
するアーティストや 青森現地からもゲストをお呼びします。
当日起こしいただけない坂本龍一さん、辰巳芳子さんたちからはメッセージを頂きました。
フライヤー表:
フライヤー裏:
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明日予定のない人、参加のご検討を。
2008年11月27日木曜日
おだやかな1日
2008年11月24日月曜日
何歳ですか?
午前中、母のところに行ったとき、ちょうど散歩を、という時間になり眠っていた母を
無理やり起こして、一緒に散歩した。
母を含めて比較的足取りもしっかりしている女性ばかり4人。
職員の方と近くの神社まで歩いた。途中、畑があり、菊の花が満開。
香りも最高で3人のお仲間は見事さに歓声をあげていた。
母一人、ただ無心に歩いていた。
ベンチに座っても落ち着かず、早く帰ろうと言う。
もう少し座って休もうと言われて、仕方なく座っていた。
それでも拒否しないだけましだ。
腕をつないでまたゆっくりと施設に戻った。
きのう行ったときは、ベッドに入っていたが珍しく眼はあいていた。
相変わらず、言葉はないが、爪を切るよ、というとこっくんとうなずく。
ダメなときは首を振る。
3時のおやつの時間だったのでみんなのいるテーブルに連れて行った。
お茶をのみお煎餅を食べて、みんなの話は聞こえてはいないが結構長い時間座っていた。
母とはほとんど会話はないが、同じテーブルの2人とよもやま話に花が咲く・・・
行くたびにお母さん何歳ですか? と聞かれる。
今、86歳ですよ。
じゃ私は何歳?
あなたは母より2歳上の88歳でしょ。
あなたは何年生まれだから82歳ですね。
一番若いですね。
同じ会話を毎回する。
だから、話のネタに困ることはない。
2008年11月20日木曜日
老齢年金
自分自身のことだ。
今日初めて自分のことで地域の社会保険事務所に行った。
入口で案内されて用紙をもらって年金給付の請求書を書くように言われた。
そこでまず、給付の種類があり、(老齢、障害、遺族の)3項目のどれかに丸をつけるようになっている。
ん? 障害でも遺族でもなければ、老齢しかない。
厚生年金と一口に呼んでいるが、老齢厚生年金なんだ、と当り前のことが、何だかショックだった。
昨年、めでたくもない60歳になった。年金の一部をもらえると言われていたが、何も通知がこない。
自分から言わない限りはもらえないのよ。とご近所さん。
連れはもう年金世代だが、どうだったかな? 忘れたという。
金額が少ないとわかっていたから手続きに積極的になれなかった。
若いころ、一時金というのをもらって厚生年金は一度脱退している。
結婚後、国民年金に入り、また厚生年金のある企業に勤めたのは2年足らず。
その後は、元祖フリーター(?)として、パート、アルバイト、自宅作業の仕事などをしてきた。
その間、連れの配偶者として国民年金に入っていた。
事務所は空いていて、事前に必要なものを調べて用意もしていったこともあり、案外と簡単に済んだ。
手続きが終わったのち、係りの人がどのぐらいもらえるか知っているか?と聞いてきた。
いいえ、少ないだろうとは思うけど、と私。
では、調べてきましょうと奥に行って内訳書を打ち出してきた。
それによると、60~61歳までは25600円。月額ではない、年額だ。
61~65歳までは年額6万円弱。
65歳以上で初めて満額をもらえる。連れの分からの振り替え加算額というのがあって、それも足して年額72万円ほど。
かけた額に比例するのだから文句も言えない。
もらえるだけでもありがたいが、内訳書の下欄には「実際の年金額はこの試算結果と異なることがあります」と書かれている。
そしてまだ我々の年代ではこのぐらいの年齢でもらえるが、70歳にならないともらえなくなる人たちが出てくる。
早く年をとったほうが得?
もらえる年齢はさらにもっとあがる可能性もあり、先行きはまったく不透明だ。
2008年11月13日木曜日
チェルノブイリ救援バザー危うし?
11月中ごろに開くのがここ数年のこと。
今年も中旬の土日で会場を抑えようとしたのだが、あいにくとふさがっていた。
その次に選んだのが12月の初めの土曜日。
もうこれでしょうがないか、と決めたとたんに、実はその日も会場がふさがっていたのを見逃していました、と施設側から連絡が入った。
二転三転の末、12月7日(日)に決まった。
ところが、わがグループの若手2人にアクシデントが起きた。
一人は散歩中に足の小指を骨折。
埋立地によくあることだが、道路の下の草や木の根がときどき地上にまで影響を及ぼす。
無理やり閉じ込めて埋め立てて家を建てたり道路を造ったりしたわけで、本来の居住権(?)は彼ら植物にある。逆襲されても仕方ない面もあると思ったりもするが・・・
友達は道路が下からの逆襲により、うねっていた所につまづいた、ということらしい。
小指と言えど、家の中でもギプスをはめて松葉杖で動いていた。
全治3週間とかで、何とか7日までは治りそうでホッとした。
もう一人の若手はゴルフの練習所で隣の人が打ったクラブが頭にあたった?
これは結構大変。
事実すぐにタンコブができて、病院に。
検査の結果、打たれたところは何でもない。
しかし、何かできているらしい、と。
さらに詳しい検査の結果、できていた嚢胞は今のところすぐに手術とかの心配はない、との診断。
でも慎重に経過を見守る必要はある。
とりあえず、7日は手伝える、ということになり、こちらもホッとした。
高齢化の著しいわがグループ。
気をつけよう、と言ったところで嚢胞などは予防のしようもないらしい。
みつからないだけで誰でも持っている可能性もあるとか。
だからと言ってまったく安全なもの、というわけでもないから困ったものだ。
とりあえず、バザーは12月7日に開く。
地域内に告知するのはまだこれからだが、都内の知人からすでにバザーに、と提供品が届いた。
ありがたい限りだ。
提供する人がいて買う人がいる。これでバザーは成り立っている。
まだまだ先だが主催者としても、バザー、楽しみにしている。
2008年11月10日月曜日
母と散歩に
行く時、母のところにも寄ってくれた。
車だから、ちょっとぐらいの寄り道は簡単だ。
ちょうどお昼時にぶつかり、母も席に座っていた。
席替えがあったらしく、今までは長いテーブルにしてみんな一緒に座っていたのが、ちょうどよく女性2人に男性1人という具合に、3テーブルにわかれていた。
自分のテーブルの前には名前が貼ってあるのだが、一生懸命剥がしている男性がいて、そばの女性が貼り直してあげたりしていた。
母は、私に「腰かけたら」と珍しく口をきいた。最近はほとんどしゃべらない。
しかし、すぐに食事が運ばれてきたので、また来るからね、と早々にして出てきた。
今日は午前中時間があったため、昨日の分もと、10時の時間に合わせて自転車で出かけた。
みんなテーブルについてお茶を飲んでいるのに、母だけ自室できのう持っていったお煎餅を食べていた。
みんなのところに行こうか、と促したが、
「白い靴を履いた男の人が何人も次から次に来るから行かない」
男性は3人だけなのだが。
どうやら席替えになり、自分の周りは女性だけだったのが目の前に大きな体格の男性が1人見えるようになったため、怖いと感じているらしい。
目の前の男性はいたっておだやかな人だ。
いつも紙と鉛筆を持って字を書いている。ときに歌も出る。
母は田舎でディサービスに行っているときも、男の人がいるから行かない、とか、よく言っていた。
夫(つまり私の父)から暴力を受けていたころのことを思い出すのだろうか?
私の妹夫婦と暮らしていたが、妹の連れ合いのことをひどく嫌っていた。
それも男だったからかも知れない。
ま、そんなわけで部屋で煎餅を食べ、持って行ったリンゴを食べてやや落ち着いたところで散歩に連れ出してみた。
以前なら嫌だ、というところだが、今はおとなしい。
施設の周りを1周してベンチに腰かけて一休み。
そのあと、テーブルのところに連れていったら、おとなしく今度は座った。
目の前の男性は相変わらず、文字を書いていたが、あまり気にしていなかった。
お昼だから帰るね、と言うと、「食べていけばいいのに」と。
きょうは3つほどしごくまっとうにしゃべった。
2008年11月9日日曜日
2008年11月3日月曜日
お風呂上りの時間だった
職員のかたには、あいにく・・・と言われたがこれ幸いとタンスの中を調べる。
以前は、母の前でタンスの中を調べたりしていると、何しているの! と怒られた。 かまうな、何も持って行くな、と言われる。
もっとも今は、薬のせいか、ほとんどボーッとしているのであまり怒りの声もださない、というかほとんど会話がない。
入浴後、お茶の時間になり、一緒にお茶をいただいた。
飲むのには飲むのだが、お茶を口に運ぼうとした手が、口の一歩手前で止まったままになっている。
はい、お茶飲んでいいよ、と促してやっと飲みだす、という具合だ。
統合失調症の人が飲むのと同じ薬らしいが、1日1錠でもとてもよく効いている、
としか思えない。
私の家にいたとき、薬は飲まない、と言ったらガンとして飲まなかった。
グループホームで薬を飲みだした直後は、おかずに混ぜたり、ヤクルトと一緒に飲ませたり、職員の方がとても苦労していた・・・ 。今はなんなく飲ませることができているらしい。
お医者さんは効いているときは半錠でもいいし、飲まない日があってもいいんですよ、サジ加減が大事です、と言われた。そしてそれも伝えてある。
いえ、飲ませたほうが落ち着いて、ご本人にもよいと思います、と減らす気持ちはホーム側ではないらしい。
それは安定していたほうが何かと都合がよいだろうが自発的な意思まで奪っていいのだろうか、
ホームに委託している身としては複雑の思いだ。
27日のホームの会議のあと、1日、今日と続けて母のところを訪問。つべこべ言う前に、 また前のように通ってみようと思っている今日この頃である。
新人(女性)が続けて入所。これで9人の定員が揃った。
2008年10月27日月曜日
サーファー人口200万人
土曜日は反原子力の日にちなんだ集会に出席。
チェルノブイリ救援カレンダーが完成したので宣伝・販売という目的もあった。
今、日本の原発は55基もある。
どう考えてもこの狭い日本にそんなにあるのは異常としか思えない。
今ある原発は老朽化の問題が深刻。その上、どの原発も活断層の上に
建っていることが明らかになってきている。
昨年、中越沖地震で止まった柏崎刈羽原発。
東海大地震が目前か! と言われているのにそのそばに建っている
浜岡原発。
山口県が新規建設予定のための埋め立許可を出した上関原発。
さらに、高速増殖炉「もんじゅ」の運転再開が目前!
青森県六ケ所村の再処理工場の本格稼働も目前!
問題があり過ぎる日本の核事情を反映して、講演会も多彩な
内容となった。
出席者は約90名。見知っている顔も多いが若い人たちの顔も。
講演会後、原宿、渋谷界隈をパレード。
参加人数も少ないので街宣車は先導の1台。
沿道はいつもの土曜日と同じくたいへんなにぎわい。
ウグイスを少しだけ担当したので途中から、初めて車に乗った。
Iさんのアナウンスが、呼びかけ方に心がこもっていて
耳に心地よい。
私も心をこめたつもりだが、慣れていないのでどうしても
原稿の棒読み状態。自分でもすぐにわかったので
Iさんにまた交代した。
でも、そのまま車に乗っていたので楽なパレードを体験した。
「柏崎刈羽原発は動かさないで」などの大きな垂れ幕が車には
飾ってあり、人目をひいているのが車の中からだとよくわかった。
携帯で写真を撮っている人たち。
先導者の警察の車も珍しいのだろう、ついでに写真を撮っていた。
帰ったらテレビのニュースで柏崎方面に津波があったことを報じていて
ドキッとした。今回は地震ではなかったらしいが
パレードを見た大勢の人たちの中にもドキッとした人が
いたのではないか。
あの手この手を使って、原発推進、再処理工場推進の宣伝を
しているのだから、こちらもできるだけの訴えをしていかなければ
あちら側の思い通りになってしまう。
カレンダーも7部持参したうち6部は売れた。
残った1部はプロのサーフィン協会会長 デイヴッド・木下さんに差し上げた。
演者の一人でもあり、六ヶ所村の再処理工場について話をされた。
体格もたくましかったが、精神もなかなかにたくましい方のようだ。
「サーファー人口200万人(ちなみにダーツ人口600万人とか?)。
もちろんどのぐらいの人が核に関心を持ち、行動しているかはわからない。
自分も昨年まではほとんど関心がなかった。
でももし、事故がどこかで起きたとき、自分たちは実験台だ」
という話には説得力があった。
「コマーシャルで電力会社と持ちつ持たれつの関係にあるメディアには
期待できない。自分たちが動くしかない。
自然と接しているサーファーはやわな精神力ではない」
と言い切った。
頼もしい。
昨日の日曜日は子ども基金主催の「報告会&ビデオ上映会」
朝日と毎日のインフォメーション欄に載ったため、新しい顔ぶれも
見える。
こちらの報告は子ども基金のHPに追って掲載の予定。
◇神楽坂事務局だより
http://blog.goo.ne.jp/cherno1986jimukyoku/
そして、今日の月曜日は仕事が休みで、電車に乗って出かける用事もない。
11時~1時まで、ご近所との井戸端会議も終了。
これも実りある会議だった。
夕方、母のところで「運営会議」なるものがある。
過去2回共、家族は2,3人しか出席してないのに今日を入れて3回共出席する、
というのも少し面映ゆい。
用があれば、もちろん出席できないのだが、たまたま都合をつけられるので
出ている。
会議のあと、母に煮物でも食べさせようかと、といま、作成中だ。
2008年10月25日土曜日
反原子力の日に関連した集会などのお知らせ
いろんなところに流していたのに自分のブログに書くのを忘れた。
今日の今日ではこれを見て行く人はいないだろうが
お知らせまで。明日はいるかもしれない、と希望的観測。
1, 反原子力の日東京集会
http://www.cnic.jp/modules/piCal/
国が決めた原子力の日は10・26です。
それに対抗して毎年「反原子力の日」として集会を開いている。
10月25日(土) 開場 1時15分 / 開始 1時30分
パレード 出発4時30分 資料代 800円千駄ヶ谷区民館 http://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kmkaikan/km_sendagaya.html
JR原宿駅・地下鉄千代田線神宮前駅下車7分
どうなっているの?柏崎刈羽原発
山口 幸夫さん(柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会)
高速増殖炉 もんじゅ 大島 茂士朗さん(大阪より/ストップ・ザ・もんじゅ)
六ヶ所再処理工場 澤井 正子さん(原子力資料情報室)
◎上関原発 山口泰子さん(ふぇみん婦人民主クラブ)
◎浜岡原発 浜岡原発訴訟団より
主催 原発とめよう!東京ネットワーク
2, ビデオ鑑賞会&チェルノブイリ最新報告会http://homepage2.nifty.com/chernobyl_children/index.html
10月26日(日)午後1:30~3:30
東京ボランティア市民活動センター(飯田橋駅ビル セントラルプラザ10F)
資料代 300円
ビデオ:『ザ・サクリファイス』(25分)
チェルノブイリ事故処理作業にあたった人たちのドキュメント
(ビデオ制作 スイス)
報告会:子ども基金スタッフとボランティアによるスライド報告
甲状腺ガンの手術後の子どもたちやほかの腫瘍病の
子どもたちの夏の保養について
日本から支援を受けている里子の家族訪問などについて
[主催]チェルノブイリ子ども基金 Tel/Fax 03-5228-2680
3, 小林晃写真展「軍艦の見える街--横須賀」
25日(土)が最終日です。
会場 東京YWCA会館 「御茶ノ水駅」より徒歩4分
時間 9:30~18:30
http://rd.yahoo.co.jp/egroups/050616info/3.html
一応、全部参加のつもり。
お天気はなんとかもちそうでよかった。
2008年10月17日金曜日
芸術の秋&谷中霊園
銀座の個展に足を運んだ。
娘の友達の木版画展。明日が最終日。
石川丘子さん。
場所は銀座松坂屋の裏通り。
ガレリア・グラフィカbisというギャラリー。
部屋の雰囲気と作品と全体に静謐感が漂っていた。
受付も誰もいなかった。人がいたら作品の雰囲気が損なわれるからと
無人にしたのかな。
作品の解説もなく壁面と作品のみ。
石川さんの作品には動物も登場するが、小さな彫刻(?)が何点か
そっと置いてあった。
一緒に行った友人は油絵を描いている。年に数回グループ展に出展
している。
油絵は大作が多いからか、こういう雰囲気の展覧会はほっとするね、と言っていた。
銀座界隈は高いので地下鉄の改札近くの回転寿司で遅い昼食をとった。
結構おいしかった。そのあと、お茶をして、友人は介護の仕事に向かった。
介護の仕事について、いろいろ愚痴も聞いた。また別の機会に書きたい。
私はひとりで、千駄木に。
知り合いのイラストレーターが芸工展2008にタイアップして参加企画。
吉田稔美・仕掛け絵本的のぞきカラクリ(ピープショー)展 in イリアス
穴からのぞくと立体に見える不思議なピープショー。
この機会にあなたも体験されたら。
いわゆる谷根千は1,2度しか歩いたことがない。
イリアスのある通りは初めてのところ。
行きは地下鉄の千駄木駅からお店に向かったが、帰りは日暮里駅をめざした。
とおりのお店を眺めながら、谷中霊園に。
ここが有名な谷中か。
桜の季節は特によいらしいが、この時期、あまり人通りもなかった。
徳川慶喜の墓や、市川団蔵など
著名人の墓が多いことで有名な谷中霊園。
お彼岸も過ぎたのに、あちこちのお墓に花があがっている。
霊園入口の花屋さんは明治3年、開業と書いてあった。
ネコもあちこちに。なかなか堂々としたネコたち。
お花と一緒にお供物も豊富にあがっているのだろう。
大審院初代院長の碑というのもあった。
今度は桜の季節にまた訪れたい。
2008年10月12日日曜日
脱原発東電株主運動の例会
チェルノブイリ子ども基金は3か月に一度の季刊誌。やはり、印刷・発送はぼらせんで行う。
株主運動のほうは、前にも書いたが東電総会だけは欠かさず出席しているがそれ以外はあまり参加できていない。
子ども基金のほうは、ボランティアを募る立場だから、印刷・発送は率先してやらなければならない。
運動のスタートはどちらが早いかという株主運動のほうだ。私が関わったのも株主運動のほうが先だった。
12日に開かれた株主運動の例会には珍しく参加することができた。
いつものメンバー、なかなか揃うことも難しいが、この日は9人が参加。株主運動としては盛況だった。
子ども基金は毎回2500~3000通の発送を行う。
ボランティアを募って15人ぐらい集める。1日がかりだ。
株主運動の方は350通。あっという間に終わった。
今回、都合をつけて参加したのには理由があった。
前号において子ども基金の緊急募金のチラシをニュースに同封させてもらった。
その反響が意外によく、・・・こう書くと株主運動の会員の方には失礼かもしれないが、集会でチラシをまいても、ミニコミ誌に同封させてもらっても、当節は大きな反響というのは難しい。それでも少しでも募金につながれば、と思い働きかけは止めることはできない。
私が最初に市民運動らしきものに関わったのは、長男が誕生してまもないころの生協活動だった。
そのとき、組合員にいろいろ教えてくれた、生協の職員の言葉は忘れられない。
「組織というのは働きかけて働きかけてやっと維持できる。止めたら終わりだ」と。
生協活動も30年前と今では大違い。生協の職員の言葉を新鮮な気持ちで受け止めて実行する、なんていうのは時代遅れだ。班はなくなる一方で個配全盛の今、班での共同購入をを続けている私たちのグループは稀有な存在となっている。
話はそれたが、そんなわけで反響がとてもよく、さらに今月号でもカレンダーチラシを同封させてもらうので、何がなんでも参加したい、という気持ちだった。
カレンダーのほうもたくさんの方から申し込みがあるといいな、と願っている。
どの運動も毎回の地道な作業があってこそ続いている。
2008年10月10日金曜日
血圧、体温、まったく異常なし
おやつは埼玉県・東松山産の梨を持参。品種はたぶん豊水だと思う。
これがなかなかおいしい。東松山にこんなおいしい梨があるとは知らなかった。
7人分に切り分けて爪楊枝をつけてタッパーに入れた。
ちょうど着いたらお茶の時間だった。ヘルパーさんに確認後、みなさんに渡した。
おいしそうに食べてくれた。
母は一人だけ、ごはんを食べていた。
前日、1日ハイの日だったらしい。
お隣の方が、ずいぶんいろいろ話してくれましたよ、私に。いつもお母さんはおとなしいですね、耳が遠いだけでほんとはよくしゃべるんですが。というのが私との会話だったから、話をしてくれたということがうれしかったらしい。
騙されて財産をなくされたんですって、大変でしたね。 は~、と私。
夜になって、眠れないからと睡眠薬を自分から要求されました、とヘルパーさん。
で、朝はぐっすり寝ていて起きなかったので10時の朝食となった次第らしい。
顔色もよく、おだやかな表情だった。午後から定期健診がある日で食後、体温と血圧を測ることに。母のそれはまったく正常。
あれだけよく寝ていたら、エネルギーをたくわえてまだまだ長生きするだろう。
ガン闘病中の友人。経済的事情で仕事を止められない妹のガンの再発・・・。
今、大変な状況にいる2人のことを思い出してつい比較してしまう。
でも、まあ、母の体が元気なだけでも救いか。
2008年10月8日水曜日
池袋「新文芸坐」
でも、入ったことはなかった。
この間、初めて入ってみた。
きれいな映画館だった。ロビーも広い。同じ名画座でも飯田橋のギンレイとは雰囲気がずいぶん違う。
どちらも2本立てというのは同じ。
客層は全然違う。
ギンレイは平均した客層、どちらかと言うと若い人、女性がやや多いか?
たまたま7,8年前に飯田橋に市民運動の共同事務所を借りることになって、ギンレイとのつきあいが始まった。ギンレイシネマ券(1年単位)、それも団体券というのを購入し、10人ぐらいで共有して格安で見ることができた。
2本立てとは言え、2本いっぺんに見ることはなかなかできないが、2週間は同じ映画だったから時間の都合がつけば、シネマ券があるので2週間の間に見ても費用は別には発生しない。
みんなで団体券の費用を割り勘して購入したのは3年か4年だったか、続いた。
次第にそれぞれ映画館に入る時間がなくなり(何でだろう?)、みんなで買うのは止めた。
それから、ほとんどギンレイには行くことがなかった。
昨年、思いがけず、基金の事務局が飯田橋に移り、また行ける! と期待したがまだ2回ぐらいしか行ってない。
せっかくすぐ近くを毎日通っているのだから、行かなければ。
新文芸坐のほう、こちらの客層は断然男性、それもかなり高い年齢層。
まだ1回行っただけで判断するのはおこがましいが。
映画館が1種の社交場のような雰囲気だった。別にお互い会話しているわけではない。
いかにも同好の士の集まり、そんな感じ。
また、映画の組み立て方がギンレイとは全然違う。
たとえば、***特集、と名付けたら、毎日違う映画を1週間とか。
つまり同じ客を毎日でも映画館に通わせる方針らしい・・・
いや、これも1日入っただけで、判断するのはおこがましい。
文芸坐は一度閉館になったが、その後在日の篤志家が資金を出し、今の新文芸坐が復活したのだそうだ。
まだ行ったことのない人は行く価値のある映画館だと思う。
私がまったく偶然に見た映画は「運命じゃない人」
これが、なかなかおもしろい映画だった。
映画の次は芝居のことを少し。
風煉ダンス公演「快速船」
http://www.furen-dance.com/
これに娘が出ることになった。明日から始まる。
風煉ダンスというのはグループ名で、ダンスの公演ではない。お芝居だ。
以前、1度だけ娘の芝居を見に行ったことがある。それが風煉ダンス公演だった。
そのときは泥子という名前の役で全身泥を塗っていた。
今回は安部公房原作だという。何の役か聞くのを忘れている。
生バンドつき。舞台美術も一見の価値あり。
肝心の芝居は? それは見てのお楽しみ。
2008年10月2日木曜日
チェルノブイリ救援カレンダーに日本の原発も
3か月に一度の子ども基金ニュース発行と年一度の大イベントであるカレンダー作成、 両方が重なり、いつにもまして、忙しい日々だった。
チェルノブイリ事故23周年・救援カレンダーは申し込み受付中。
http://homepage2.nifty.com/chernobyl_children/index.html
広河隆一さんの写真を使って、1996年版より作り始めて来年で13作目。
2009年版で初めて日本の原発もとりあげている。
救援活動をしながら、日本の私たちが原発事故にあったら、たまったものではない。
しかし、原発大国日本。その恐れは十分にある。
地震は今の科学では止められないが、原発は人間が止めることはできるのだ。
自分たちには関係ない、と思わないでほしい。
できあがるのは10月下旬になる。出来上がったら画像も順次基金のwebにアップの予定。
さて、これが終わったら、これが済んだら、家の中のあれを片づけて、これを片づけて、と、計画はあるのだが、時間切れで何も変わらないまま、というのがここ何十年(?)ものパターンだ。
若いときは引っ越しも何回も経験して、そのときは大変でもそれなりに思い切りがつく。片づけざるを得ない羽目に陥れば、人間なんでもできる。
娘が生まれた年に、ここに引っ越して、早26年か27年。娘は何歳だ?
自分が生まれ育ったところより、どこよりも一番長く今の住居にいるわけだ。
何十年も箱にしまったものもある。
リサイクルグループ「カリーナ」としてよそ様には、品物の提供を呼び掛けて、
チェルノブイリ救援のためのバザーを年に2回開いている。
そろそろ、自分自身も出品するほうに参加しようか。
ちなみに買うほうはいつも率先して参加している。
だから、品物が増えるわけだ!
2008年9月22日月曜日
看板に偽りあり?
4月の救援イベントの際、1枚でもチケットを売ることに、つながれば、という狙いもあって始めたのだった。
「みえない雲上映会&池田香代子講演会」は成功のうちに終わることができ、ひとまずほっとしたら、
結局そのまま救援活動の日々(を書くこと)は後退したままとなった。
救援活動は停滞していたわけではなく、その証拠に(?)、チェルノブイリ子ども基金の「事務局だより」も8月から始めた。こちらはスタッフ交替で、週2回ぐらいの割できっちり更新している。
http://blog.goo.ne.jp/cherno1986jimukyoku/
そちらを読んでもらえばわかるのだが、来年のカレンダー制作と年4回発行の「基金ニュース」の編集が重なり、結構忙しい。
でも、モノを作っていく過程というのは大変だけれど楽しい。
ほかの人の助けも借りての協同作業。
ニュース編集は山場を超えた。
後はカレンダーだ。
ところで、昨日は久しぶりに会う娘と母のところで待ち合わせをした。
たまには外食に連れ出そうと前日に考えつき、ご近所を誘い、断られ、誰かいないかな、と思い出したのが娘だ。つまり孫なのだ。何かと忙しい娘はどうせ空いてないだろうが、と声をかけたら空いていた。
娘がおばあちゃんのところに行くのは2か月ぶりぐらいか?
でも、顔を見るなり、**ちゃん、ずいぶん背が伸びたね、とすぐにわかった。もう背が伸びる年ではないのだが・・・ しばらく会わなかったのでそう思ったのだろう。
私だとぶっちょう面をしているのだが、孫の顔を見るのはうれしいらしい。
お昼もみんなきれいに食べた。
雨が降ってきたので近所の人が車を出してくれた。
送迎つきで、レストランから母の部屋に戻り、しばらくゆっくりして帰ってきた。
もう帰るの?と娘に。私には、お前も帰るのか?
今度いつ来るの?
おどろき! 初めての言葉だった。
この日は「○○ちゃんをいじめないで」という言葉も出なかった。
2008年9月14日日曜日
「12人の怒れる男」を見た
あまりおもしろくもない新聞だが、映画批評欄はなかなかのものだ、とかねてから思っている。
1,2週間前にみた映画評に5つ星のマークがついていた。
これはあまりない。
大きな紙面にとりあげるのだから悪いのはもちろん載せない。
大体が4つだ。
前にA新聞の批評を読んで見に行ったら、すごくおもしろくない映画だったことがある。
それ以来、額面通りには受け取らないことにしている。書く人もいろいろ事情もあるのだろう。
しかし、日経に載ったので、はずれたことはない。と、書くと映画通のようだがまったく違う。
田舎には映画館はなかった。
子どものころ、父親に背負われて公民館でやっていた映画を見た記憶がある。
中村錦之助のチャンバラとかだった。
何で背負われていたかというと、小学生以下は無料だったのでそう見せるためだった?
たぶん、どんな映画を見たか覚えているので小学生の1,2年のころだと思う。
そのほかは学校の体育館で映画を見た。
「にあんちゃん」「荷車の歌」など文部省推薦のまじめな映画だった。
小中学校のときは学校で映画の話題もなかった。
高校のとき、ウェストサイドストーリーを従兄の大学生が連れて行ってくれた。
夏休みで母の実家があった長岡へ遊びに行っていた。
母の実家は庄屋もやった古い家だったが、母の兄が農業技術員で転勤が多く田舎の古い家は処分して長岡に住んでいた。
だから、母が家というときにまず、田舎の生家を思い、長岡の家を思い、そのあと、婚家(私たちと住んだ家)を思い、妹と暮らした上越の家を思う。
この埼玉の次女(私だ)の家の近くのグループホームにいることが、腑に落ちなくとも尤もな話だ。
話を映画に戻すと、高校までの映画歴はそんなものだ。
映画館のたくさんある大都会に住むようになっても数えるほどしか映画は見ていない。
近年、やっと自由な時間を手に入れ、映画を楽しめるようになった。
シニアになったら何でも1000円で見られるなんて、とシニアになるのが待ち遠しくてならなかったが、なんてことはない。1000円になっても時間がないとみられないのだ。
世間は3連休の人も多いと思うが、2連休。今日は映画に行こう、と決めていた。
どんなにおもしろいか書こうとしたのだが、時間切れ。
http://www.12-movie.com/
いやいや、最初の話とつながらなくなった。
5つ星がついていたのは「イントゥザワールド」という映画だった。
評判がよいから見たい、と思ったものの題名もろくに覚えていなかった。
シャンテシネだけは覚えていたのでそこに行ったのだが、
どれかな、12人の怒れる男?これではない。
もう一つのもそうではない。じゃ、これか「イントゥザワールド」だ。
しかし、時間が合わなかった。
で、12人の怒れる男、これにするか、ということで決めた。
それでも始まるまで時間がある。
喫茶店で時間をつぶし、20分前に行ったら長蛇の列。
なんと、まえ3列しか空いてないという。
老眼だから、後ろでないとまずいのに・・・
しょうがない、3列目に座った。頭を座席にもたらせて見るようになっている。
まずい、下手をすると眠るのでは? 不安がよぎった。
心配無用。眠気はまったく襲わなかった。
始まってすぐ、ガスパジン・・・という声。 ん? これはロシア語?
有名なアメリカ映画のリメイク版というの看板を見てわかったのだが、どこの映画かも知らないで入ったのだ。
2008年9月11日木曜日
すでに9月も半ば
今日は9・11。政府はイラクに派遣している空自を撤退させると発表した。
この日をあえて選んだのはなぜかわからないが、うれしい発表だ。
今日はまた北海道の十勝沖で地震があった。岩手、青森でも別の地震があったという。
たまたま北海道にいる友人に電話したら、とても暑い。31度もあると言っていた。
地球は怒っている。戦争どころではない。
さて、母もまだ怒っている。
私の顔をみてもニコリともしない。
仕事が休みだったので10時のお茶の時間に合わせて行った。
この前の土日は仕事と会議で母のところには行けなかったのでちょっと久し振りだった。
母の仲間の人たちはおやつを持っていくと喜んでくれる。今日は梨。
これまでに私が持っていったのは、トウモロコシ、枝豆、メロンなど。
みなさん、幸いにお腹も大丈夫の人たちばかりなので、あげてもいいと職員のお墨付き。
大体、ゆでたママのトウモロコシや枝豆など、ふつう、施設では出ない。
でも子供のころから食べているものだから、喜んで食べるのも当たり前だ。
梨もみなさん喜んで食べた。母も食べた。
そのあと、背中がかゆいから掻けという。
そう言えばこの前行ったときも背中を掻かされた。
職員には言いにくいのか。それともせめて背中ぐらいは搔け、ということなのか。
帰る時、いつものフレーズ。
○○ちゃんをいじめないでよ! いじめてないね!
2008年8月30日土曜日
涼しい中での納涼祭
それからさらに日にちが経ってしまった。
暑くはなったのだが、豪雨と雷雨がすごい。
日本全国でゲリラ的な豪雨となっている。ここ埼玉でもかつてないほどの雷だった。丸1日ネットもつながらなかった。
ところで納涼祭はあいにくの雨で、建物の外でどじょうすくいの踊りをみたりスイカ割りなどを楽しむ予定だったが中でのお祭りに余儀なくされた。
参加費500円で家族にもお弁当と缶ビールが振舞われた。施設側も予期してなかったほど家族も集まった。それでも家族の参加がない人もいて、ちょっと同情した。
新潟から姉も来た。
納涼祭に先立った行われた家族会にも出席した。
父が荷物をまとめているのですが、どう対処したらよいでしょう?と家族の方が職員に聞いていた。いずこも同じだ。
施設長は、「この仕事をしていて一番嫌なのはウソをつかなくてはならないことですが、ウソによって、入所者が納得しておだやかになれるのならそれもしょうがないことなのです。だから、上手にウソを言って(具体的に教えていた)ください」と教えていた。
母はこの日、ほとんど言葉を発しなかった。
食事も食べたが時間がずいぶんかかった。
どじょう救い愛好会の方々による踊りにもにこりともしないで見ていた。
たぶん、医者からもらっている薬が効いているのだと思う。
夜中も前のような興奮状態はなくなったらしいが、薬が効けば効いたで心配だ。
母の人格を奪っているような気がする。
医師が年寄りは突然よく効いたりすることもありますから「サジ加減」してください、と言ってたっけ。
場合によってはしばらく止めてください、と相談した。それでしばらく止めてみることに。
次の日、夜に行ってみたが特に興奮はしていなかった。
それから4日ほど行ってない。今日か明日には行ってみなくては。
2008年8月21日木曜日
母のところに新入りさんが
まだ、若くしっかりしているように見えた。
都内から、娘さんがいるこちらに越してきて、グループホームに入ったという。
以前は自宅近くのグループホームに入っていたそうだ。
「食事など自分達で作るんですが、30分も歩いて材料を買いに行ったんですよ」と不満そうに話した。
母のところは有料老人ホームと一緒の建物で、食事もまとめて大きな台所で専門家が作る。だから、グループホームの特徴でもある共同で食事の支度をする、ということができない。
ときどき、おやつのお団子作りとか、ちょっとした副菜とか、を作るぐらいだ。
母は若いころ、賄いをやっていた。自分で献立までは考えられなくとも、材料を渡して作って、と言えば作ることができる。グループホームでの共同の食事作り、大いに期待していたのだが、いかんともしがたい。
でもその方は食事作りが重荷だった・・・
うまくいかないものだ。
今度の土曜日、ホームでは納涼祭がある。初めての大イベントで、盛り上がっている。というか職員さんたちが入居している人たちをを楽しませようとして、いろいろ企画している。ゆかたもできたら着せたいので持ってきてください、と言われていて、夕方持って行った。
そういえば、この間の新入りさんは今日は見えなかった。
大丈夫かな?
「なんだか寂しいですね、早くお父さんの所に行ったほうがいいんですが。でもそう言うと娘に叱られます」と話していた。
普通に会話できたのだが、同じことを何回か繰り返していたのでやはり認知症なのだろう。
ところで最近のテレビドラマでは、ボケている老人やガンコだけど身体が不自由な老人など登場する。
かつては小さな子どもがホームドラマのアクセントだったりしたが、今はホームドラマそのものがほとんどない(?) シリアスなドラマには老人がいてこそ、リアルになるのか。
歌は世につれ、ではなくドラマも世につれ、である。
2008年8月17日日曜日
お盆と田舎
連れ合いの実家は埼玉県北部で旧盆だ。
私の故郷松之山ももちろん旧盆。
子どものころ、お盆は都会に出ている着飾った近所のお姉さん、お兄さんたちが帰郷したり、親戚のおじさん、おばさんが墓参りに来て泊まったり、盆踊りがあったり、何かと心躍るときだった。
盆と正月と並び称されるが、特に雪深い松之山ではお正月は「やって来る」だけで、かまくらやコタツでのカルタとりなど楽しみの遊びもあったが、お盆には比ぶべくもない。それに鉄道もない雪の中では、外からのお客でにぎわうこともなかった。
祖父母の建てた松之山の家で子ども11人(父のきょうだい)が生まれ、9人が育った。
その後、父と母が結婚して、私たちきょうだい4人が生まれ育った。
現在その松之山の家はない。その跡地は農協のガソリンスタンドになっている。
でも、お墓は松之山の中心地にあるお寺の裏山にある。
お寺は継ぐ人がなく、今は無人のまま。お葬式があると隣町の松代(まつだい)からお坊さんがやってくる。いや、正確には2年前の平成の大合併により松之山も松代も同じ十日町市となったのだが、いまだになじめない。
お墓には祖父母、若くして亡くなったおばさん、父、そして東久留米に長い間1人暮らしをしていたおばさん、の5人が入っている。
お盆は亡くなった人がお墓から家に戻ってくる、と言われて一般に墓参りはしないようだが、田舎ではそんなことはない。春の彼岸はまだ雪の中。秋の彼岸は農作業の忙しい最中。人々が集うお盆には誰も彼もお墓に行く。子どものころから墓の前で親戚と記念撮影というのが常だった。
今年は「田舎に帰る」という言葉がなんだかちぐはぐ。実家、というのもヘン。
母がいるところが田舎で実家だったのに・・・。
ともあれ、14日は連れの実家に寄りーーこちらも正確には実家ではない。連れの両親が年老いてから長男夫婦の所に入った。義父はもうかなり前に亡くなった。91歳の義母が亡くなったら仮の実家もなくなる?ーーその足で新潟に夕方向かった。高崎で新幹線に乗り換えて姉のいる新潟市まで2時間。
姉の家に1泊して、松之山温泉で共同浴場に入り、新盆を迎えた隣町のおば(父の末妹)にお線香をあげて、健在のおばが2人いる上越市に行き手作りの山菜料理をご馳走になり、我が実家に行った。
仏壇に手を合わせて、やや元気になった妹に会い、帰ってきた。
15日は姉の連れ合いの運転で姉達の孫2人と私と計5人でのにぎやかな車中だった。
2008年8月11日月曜日
地球を考える WATER GREEN
駅前3分? そんなところあったかな?
長男が小さいころ、南浦和に住んでいた。そのあと、新松戸に引っ越した。
だから、武蔵野線はよく知っていたが、最近はほとんど利用したことがない。
知らないのも当然、越谷レイクタウンというのは今年3月に開業した新駅だった。
市のHPを見ると、平成11年に独立行政法人「都市再生機構」が施工者として平成30年までが事業実施年度となっている。戸数7000戸、人口22400人という一大ニュータウン構想だ。
我が街はかつて26年前はニュータウンだった。
戸数約3200戸。
越谷のレイクタウンの大きさがわかる。
でも計画が始まったころ、今日の環境、経済、予想していただろうか?
今回のイベントには大和ハウスさんが協力していた。
分譲の売れ行きはどうなのだろう?
越谷には知り合いがいないので知る由もないが・・・
前置きが長くなった、都市構想のことが本題ではない。
「地球を考える野外イベント、WATER GREEN」
http://water-green.didit.jp/wg/index.html
朝から夜7時まで1日中開催していたのだが、4時ごろから参加。
5時過ぎに六ヶ所トークがあり、そのあとyaeさんのライブがありそれらがお目当てだった。
駅から3分はウソではなく、降りて目の前は何もなくすぐに公園が。
大きな布や看板、いろとりどりの風景が広がっていた。
物販ブースには、エコの名にたがわないお店が並んでいる。
草木染の衣服、石鹸、ハーブ、オーガニックコットンのベビー服、木のおもちゃとフェアトレード雑貨などなど。オーガニックフードの食べ物。埼玉県小川町の地ビール。
いろんなワークショップもある。
まだ新しい芝生の上で寝転がってトークを聞き、ライブを楽しんだ。
風が気持ちよく吹き抜けていき、心地よいひとときを過ごした。
つづきはまた。
2008年8月8日金曜日
大好きな孫とお嫁さんが会いにきた
本来なら弟が来るべきところ、嫁さんがおみやげを持って夜行バスにのってわざわざ来なくとも、いいのに・・・ と思うが、そろそろ顔を出しておかなければ、いろいろまずいと判断の上、来てくれたのだろう。私はついでがあるなら別だが、交通費をかけてくるほどではない、と思っている。しかし、長姉たる姉の思いは違うようだ。
長男として、長男の嫁として、当然くるべきだ、と信じている。
ともあれ、一番暑い2日間を来てくれた。でも大好きな○○ちゃんは、1日しか来なかった。
嫁さんの顔はすぐにわかったらしい。
○○ちゃんがおばあちゃんの部屋で横になったら、半てん(暑いよ!)を出してきてかけたとか。
アルバムを引っ張り出して、昔の説明する様子はまったく違和感がなかったと、嫁さん。
2日目は私も仕事を休んでみんなでお昼を食べることにしていた。いつものファミレスでうどんを。この日朝、甥と嫁さんとケンカをしたとかで、来なかった。おばあちゃんにとっては残念無念。
車椅子に載せて10分ぐらいのところだが、炎天下に出かけた。
母はメニューを見て一番安いのでいい、という。お金をもっているのか、とも聞く。
大丈夫だから・・・
姉がいるときはお金のことは絶対きかないのに、どうも私だと不安らしい。商売をしている姉のところは構造不況業種で、もう何年も火の車だ。今は私のほうが姉にお金を貸す時代なのだが、母はサラリーマンの私の家が一番お金がない、と思い込んでいる。
でも嫁さんにはお金を使わせたくないらしく、財布を出そうとすると、いいから、と抑える。
そして私に払ってこいと。
食事も母は自分の分を全部食べた。
私が少し残したらもったいないとそれも全部平らげた。
まったく正常だ。
○○ちゃんにご飯を食べさせてやりたいのに、どうしてこないのだろう、と何回も聞く。
今日と明日はお母さんにまかないをしてもらって、2,3日したらおばあちゃんがごはんしに行くからね、と嫁さんに念を押す。
かつて教員住宅でまかないの仕事をして、おばさんおばさんと若い先生たちに慕われていたときがある。ごはんの支度をして、生きがいのあった時代のことが忘れられないのだろう。
2008年8月3日日曜日
六ヶ所村 再処理工場の下に活断層があるって本当だそうだ
この場所は最近よく市民グループが使っている。設備の整った大学の教室を土日などに市民グループが使えるのは、私大にも税金が使われているわけだから、大いに結構なことだ。ただし、使用料はかかるが交通の便など考慮するとそう高くない使用料かもしれない。
さて、1週間前の学習会だが、渡辺満久さん(東洋大学教授)の話しはよかった。「変動地形学」なんて難しいのではないだろうか?と内心、心配だったが、スライドを使ったわかりやすい講演だった。どこまで理解できたか心もとないが、六ヶ所再処理工場が大変なところに立地している、ということは十分理解できたのだ。
実はその1週間前ごろ、3人の大学教授による話し(原発関連ではない)を聞く機会があった。正確に言うと1人は名誉教授で2人が現役の教授。かなり期待して行ったのだが、これが1人を除いてまったくおもしろくなく、大学生は気の毒だな、と心から思ったものだ。
何でおもしろくなかったのか考えてみた。1人は演説調、もう1人は早口。どちらも用意した紙を読んだだけだった。
それに引き換え、渡辺先生は、スライドの地形図を立体的に見られるようにセルロイドの「赤青メガネ」を全員に用意したり、図表の合間に息抜きのイラスト(主にネコ)を入れたり、あきさせないように工夫していた。
何でも吸収するぞ、という意気込みの人にはそんな工夫は必要ないだろう。でも多くの学生や一般市民にはまず、話しを聞いてもらうということが大事だと思う。話しにひきつける努力と魅力は重要なカギだ。
もう一つ個人的にひきつけられたのは話しの冒頭、田んぼの写真が写されて、断層の説明があった。その風景がなんともなつかしかった。それもそのはず、我が故郷・上越市の田んぼ風景で写真には写っていないが後ろ側は松之山だと後から知った。
新潟県人らしく、と、ひとくくりにするのは乱暴だが、話しかたは淡々として関西人のような(これも失礼!)メリハリはない。でも説得力があった。友だちが言うように「学会やマスコミにたくさん発表してもらって、『常識』にして欲しい」ものだ。
ただ、先生の立場は反原発ではない。
「化石燃料への依存体制から脱却するための方策として、原子力発電は現実的に進められているものの一つとして評価している。ただし、言うまでもなく、そこでは高度な安全性が確保されなければならない。そこが問題である」 と資料にも書いてあった。
何をもって安全が確保されるのか? どう考えてもあり得ないと思うが・・・・
でも、原発は反対ではないという人がこういう発表をしてくれるのは推進側も脅威ではないだろうか。
先生曰く「数人の学者が何を言っても力はないでしょう。 最後はみなさんの世論です」
そうか、やっぱり私たちの活動や口コミが重要なのだ。
渡辺先生にも勧めたいのだが、DAYS JAPAN8月号がオススメだ。
http://www.daysjapan.net/dj/index.html
*まだ間に合うのなら「脱原発へ」 文:藤田祐幸 写真:広河隆一ほか
○原発が止まっても停電しない ○炭酸ガスと放射能の関係 など
カラーの図表入りで小中学生でもわかる記事を、 ということで書かれたとか。
まわりの人たちに広めたい。
2008年7月31日木曜日
岡山産の白桃
お誕生会、七夕会、など、子どもの保育園のときの行事と同じだ。
子どもに返るというからこれでいいのかな・・・
納涼会のあと、家族会がある。
この前あったのは家族会ではなく運営会議だった。
家族会では職員のみなさんが手作りの夕食をごちそうして
くださる、という。
用意があるので何人いらっしゃいますか? ときかれた。
8月上旬、大阪の弟の連れ合いが母に会いにくることに
なっている。
納涼会にあわせて、というのは難しそう。
姉に連絡取ったら孫なしで自分だけ来る、と。
母は最近落ち着いており、というか薬が効いていて、
おとなしい時が多い。
私も暑いせいもあり、土日のどっちかと平日のどこかという具合で
顔を見に行くのも週に2回ぐらい。
暑いので散歩もあまり出ていないようだ。
食事以外はやはり寝たがる傾向が変わらないので食事が終った直後、あるいは10時、3時のお茶の時間前後に
あわせて行くようにしている。
弟の連れ合いから桃が送られてきた。皮を剥くと桃はすぐに色が変わってしまうので丸のまま、ナイフと共に持っていった。
とうもろこしのときは小さく輪切りにして6人の仲間の人たちにあげたときがある。幸いみなさん、義歯であっても食べられる人ばかりだ。が、桃はそろって食べるのが難しいのでTさんだけ声をかけて部屋に入ってもらい、母と共に食べてもらった。
2人ともおいしいと大喜びだった。特にTさんは上等ですね、最高ですね、と言ってくれた。
気持ちもなごんだと思いきや、母の口からは○○ちゃんをいじめないでね、という言葉が。
最近はそういうことを言わなかったのでもう○○ちゃんのことは忘れたのかな、と思っていたがそうではなかったのだ。
たまにそういう言葉も聞かないと、母らしくない。
2008年7月26日土曜日
神楽坂阿波踊り
初めて見た神楽坂の阿波踊り。
今、子ども基金は企業向けの募金呼びかけを行なうための作業の真っ最中。
宛名は手書きで心を込めて書いたほうがよい、というアドバイスを受け、ボランティアの手を借りて、多数の企業の中からの名簿抜粋、宛名書き、内容物の印刷、封入と一連の作業だが、要所要所でチェックをしないと転記ミスやファイルもれなど、ミスはどこにでも落ちているものだから慎重に進めている。
この暑さ、事務局員(約3名いる)をねぎらってくれるというキトクな方がおられて、金曜の夜、夕食会が予定されていた。
この日の発送物100通をメール便に委託し6時半ごろ事務所を出た。
何せ、神楽坂はお店が満載。どこにしようか、選ぶのも楽しい。
あちこち裏通りも物色した。
毎日のお昼は弁当持参なので私たちは外であまり食べない。
どこも入ってみたいお店ばかりだった。
そうだ、これから阿波踊りがあるのだから見える場所にしょうと提案し、老舗らしいのだが、いつもあまり人が入っていない角の洋食屋に入った。
中もなかなかよい雰囲気だった。
どんどん混んでくるのかと思ったがそうでもない。
通りにはビニールシートを敷いて待っている人々がいる。
私たちは通りに面した一等地で食事をしながら踊りを待つことに。
お料理はすごくおいしいとは言えないが、まずまずの味。
値段も高くない。
なんで空いているのか不思議。
きたきた~
先頭はなんだったか? もう連の名前を忘れてしまった。
高円寺連、浜松連、目黒連、練馬だいこん連、ひょっとこ連、地元厚生病院連、新宿区役所連、粋連、神楽坂商店街連・・・ぞくぞくと続く。
料理をそっちのけで見入ってしまった。
すいているのを幸いに、外に飛び出したり、中に入って食べたり、行儀が悪いことこの上ないが、楽しませてもらった。
ん? 通りの向こうを見るとIさん一家が。
姉妹とお母さん。
息子とお父さんは連の中のお囃子隊にいる、という。
ちょうど来週からベラルーシに行くスタッフが写真を撮りだした。音も聞かせたい、とムービーモードでも。
とうとう食事もそこそこに切り上げて外に出た。
いやいやコーヒーまで飲んだのだから、食事も十分満足した。
お店の中だとテレビ画面の感じでやっぱり外の雰囲気は違うね、と。
チビッコも若者も踊りに混じっている。
ところどころで見せ場を作って特別な踊りも披露する。
なんと犬まではっぴを着てる。
母のようなおばあちゃんが車椅子で沿道にいた。
踊っている人がめざとくみつけて近寄って握手をしたらおばあちゃんは大喜びで握手を返していた。
座っている子どもたちは目を輝かせて見ている。
たまりかねて踊りだす子どもも何人かいた。
外国人もいた。
通りの周辺は住宅街という神楽坂ならではの光景かもしれない。
ふと、田舎の祭りはどんどん沈んでいるところが多いのだろうな。
楽しんでいる一瞬、申し訳なく思った。
今日は6時から子ども大会。7時から9時までが大人の大会。昨日とは違う連も登場するそうだ。
子どもは文句なしにかわいい。子どもが総勢700人もでるという。できることなら今日も見たいが連日遅い帰宅では疲れるし家族にも気がひける。
来年のことを言うと鬼が笑うが来年は予定を立てて、できれば2日間見たい。
2008年7月19日土曜日
忙しい反核運動
16日は中越沖地震から1周年。この日だけでも都内でこんな取り組みがあった。
○「柏崎刈羽原発を廃炉に」要請行動(7/16お昼 東電前) ○東電株主議決権行使書閲覧(7/16東電内) ○再処理工場・ガラス固化問題で保安院交渉(7/16午後議員会館) ○経済産業省原子力安全・保安院前で抗議活動(7/16夕方) ○中越沖地震1周年集会(7/16夜 総評会館)
私が参加したのは16日の脱原発東電株主運動の閲覧および書き写し作業と夜の中越沖地震1周年集会。
閲覧のほうは来年の議案提案に生かすために、今年の議決権行使書からこちら側の提案に対しての賛否を調べるもの。 株主の正当な行使だ。
午前中は母の薬をもらいに行ったので、お昼に東電前で行なわれた、抗議行動には間に合わなかった。このときの様子は夜のテレビニュースで報道があった。
新潟日報では東電本社前で市民団体による「廃炉を訴える行動があった」と報じていたようだが首都圏の新聞には、たぶん載らなかったと思う。
17日は 、「もんじゅ」再開へ向けてのプルトニウム燃料輸送(陸送)に反対の「監視行動」があった。
普通の乗用車に混じって猛毒のプルトニウムがトラック輸送されている、ぜひ多くの人に知ってほしい。
フォトジャーナリスト森住卓さんのブログにこの日のことが掲載されている。
http://mphoto.sblo.jp/
19日は原子力空母の横須賀母港化を許さない全国集会。
かつて、『東京に原発を』という広瀬隆さんの本が広く読まれたときがある。まさにそれと同じ状態になるわけだ。原子力空母ジョージワシントン号は原発1炉分に相当するという。そして1年の半分は横須賀に停泊するというのだ。
まだ19日の報告は載っていないが、横須賀市民の動きが詳しく書かれている。
原子力空母の横須賀母港問題を考える市民の会
http://cvn.jpn.org/cvn/
何とまあ次から次へと核問題が起きることだろう。まるでもぐら叩きのようだ。
2008年7月16日水曜日
長寿医療保険
何が?
後期高齢者保険、いや違った長寿医療保険の請求書が。
名前がどうとか、廃止するとか、見直すとか、結局どうだったのかな? と思っていたがきたからにはとりあえず、名前だけ変えて実施したんだ。封筒には長寿医療保険と書いてあって後期高齢者医療保険がカッコ書きに。
同封のパンフレットや説明文、請求書などすべて後期高齢者と印刷済み。
直したのは封筒の宛名だけだったのだ。
でも、ちょっと前に介護保険請求書というのもきた。
え? これってダブり?
いえいえ、介護保険代は65歳から払い、75歳からが後期高齢者保険代も支払う。その代わりに医療保険代は不要となるというもの。じゃ、介護保険代は65歳未満の人は払ってないかというと医療保険代(国民保険や他の健康保険)に含まれているようだ。
今まで母と一緒にいたわけでないので、関心がなかった。この国民の関心のなさがいけない。だから、そこにつけこまれて、気がついたらとんでもない制度ができていたりする。
ご近所情報によると特別養護老人ホームに入っているお母さんの費用が、減免申請をしたら毎月の費用が半額になったという。月、6万円ぐらいの年金をもらっていて、その範囲内の費用になったということである。つまり独立の世帯ということにした。4月に入居するときは知らなかったので施設に言われるままに支払った。調べたか誰かに教えてもらったかで手続きしたらこうなったというのだ。
母の場合はどうなのだろう? 月、3万円余の年金がすべての収入である。グループホームと特養では扱いが違うのかもしれない。何とか私たち子どもで分担しているが、払えなくなったら特養に入れてもらえるのだろうか?
市内で来年春開設の特養ができるそうだ。申し込んでおいたほうがいいか、と少し心が騒ぐ。
しかし、ようやくホームになじんできた気配。いられるだけ今のところにいたほうが母にとってはいいだろう。
薬の力を借りてではあるが。
笑い顔もよく見ますよ、と職員の話。庭に職員の方がキュウリ、トマトなどを作っていて、朝、散歩のときに母たちが摘んだりしている。それを母がさっと洗ってシソと一緒にキュウリもみを作ったとか。お母さん、さすがに上手ですね~。塩だけだったのですが、おいしかったですよ。と話してくれた。
七夕の短冊に保育園などと同じく願い事が書いてつるしてあった。
見てください、お母さんはしっかりしている文字で内容も立派ですと、職員の方が教えてくれたのには自分の名前もはっきりと、こう書いてあった。
「今後共長生きをさせて頂ヾき、一生県命でまなかい婦をやらせて頂ヾきます(原文ママ)」○○○
2008年7月8日火曜日
施設見学(つづき)&サミット
2階から順に症状の重い人が入っている。
2階はざっと見学。3階でお茶をいただき見学と説明を受けた。 食堂(居間?)にはいくつかのテーブルに数人ずつの人たちが歓談していた。 男性もいるのだがテーブルにはいなかった。新しい施設のため男性が女性のようになじむには時間がかかるのかな?
1階の母のところはあまり会話は弾んでいないが、食堂のテーブルにはいつも男性も女性もいる。
個室もオープンになっているところは部屋の外から見せて説明してくれたが、見学の人がときどき来るのはいい気分はしないだろうな。
おじゃまします、とあいさつをしたら、その場に居た人たちは気持ちよく笑顔でこたえてくれた。
説明によると「要支援1」以上の人でないとこの施設には入れないそう。では、友だちはゆくゆくは、と思っていたが当分該当しないようだ。
私たちがお茶を飲んで長居した3階は認知症の軽い人たちが入っているが、お互いに会話を楽しんでいた。
その後、4階に。そこでは3,4人の人がそれぞればらばらの椅子に座って大きな画面のテレビを見ていた。ちょうど洋画をやっていた。
職員の人が、症状が最も軽い人たちはあまり話をしないのです。不思議ですね、と。
私たちがあいさつしても迷惑そうに思っていることが伝わってきた。
映画を見たくない人は部屋に入っています、と言っていたが、健康に近い人が新しい場所で一人で1日を過ごすのは辛いだろうね~
とつい、自分の母のことは棚に上げて思ってしまった。
隣町に住んでいる友人のところは家族で暮らしているが、認知症のある母は、ディサービスを週に5日利用しているので何とかやっていける、と言っていた。でも、夜は父親の死後、母親は1人で寝るのが寂しいと訴え、友人が隣の部屋で寝ているとか。
認知症になると、自分がどう過ごしていいのかわからない。テレビもほとんど見なくなる。
しかし、これは認知症だけでなくうつ病の人にもあてはまる。
久しぶりに北海道にいる友人から電話があった。
しばらく連絡がないから元気かどうかと思って電話しただけ、とのこと。
ロシア人の彼女は日本人と結婚して東京に住んだ後、連れ合いの転勤により、北海道に移った。北海道でも最果てに近いところ。北海道には行きたくない、とさんざん言っていたのだが、住めば都、たまに東京に出てくると、人が多くて東京はいやだ、と言う。そうでしょうね。
しばらく近況報告を。彼女のお連れ合いはうつ病で5年ぐらい経っている。仕事も辞めてから長い。
どう? 少しはよくなったけれど、どこにも行きたくない、ただ、寝ていたいだけだと。
そう言えば、母が認知症になる前にうつ病になった。あるいは痴呆が始まりだしていたのかもしれない。そのときは食欲がなく、寝ていたい、あるいは死にたい、ということを言っていた。顔色も悪かった。
今は食欲があり、顔色がいいからうつ病からは脱したのではないかと思っている。
北海道の彼女の家にはロシアから連れてきている母がいる。
ビザの関係で行ったりきたりを繰り返しているが1人暮らしのため、心配なのと、日本に呼んで家事をやってもらっている。大勢の家族を支えている彼女は仕事をバリバリしなくてはならない。カニの売買、中古車や家電品の売買。北海道にはカに漁で船員が多くきていた。そういう人たちを相手に商売をしていたが、今はカニ漁はダメなのでどういう人たちが相手なのだろう?
北海道は何かとロシア人の往来が多いのだろう。
彼女の2番目の子どもの話しになった。親元を離れて札幌でアルバイトをしながら大学生活を送っている。サミットで働いている。 え? サミットは私のところの駅前にもあるが? と頭の中・・・
洞爺湖サミットで通訳している。
あ、そうか。そうだね、大学生だものね。
で、英語? ロシア語?
英語は話せないからロシア語。ふーん、そうか、すごいね。
うん、すごい。24時間体制で、詰めっきりだって。 何かあったら怖いけどね。
3番目の子どもが生まれたとき、私を頼って、我が家の近くでお産をした。今は大学生の彼は小学校3年生ぐらいだった。夏休み中で近所の学童にお願いして通わせてもらった。ほかの子どもたちと一緒にプールに行ったりできて楽しんだ。そのときは日本語は片言しか話せず、英語が話せた。諸事情により、母親と離されてヨーロッパ人の父親がロンドンの小学校に入学させていた。2年間ぐらいロンドンで生活したということだった。私のところに来たときは母親が引き取った直後だったのだ。その後、ロシアのおばあちゃんのところで過ごし、たまに日本に来て、という生活だった。だから、ロシア語は話せても英語はすっかり使わないうちに忘れてしまったらしい。
高校生になって日本で暮らせるようになり、今は下宿生活とは言え、母親の庇護の元だから彼にとっては幸せな毎日だと思う。
波乱万丈の彼女の生き方は一篇の物語になると思うほど。
彼女から電話がくると、また何か頼まれごと? とつい身構えてしまうが、いつも前向きなバイタリティあふれる生き方には学ぶことも多い。
2008年7月7日月曜日
施設見学
一緒に行った1人は、九州にいる両親を数年前に相次いで亡くしている。
亡くなるまえの数年間、両親の元へたびたび通っていた。
実家には独身の妹さんがいらして、両親と暮らしていた。
ディサービスを利用していたが、やはりときどきは息抜きも必要だったし、入院という事態も何度かあり、お姉さんがかけつける必要があった。
通っている間に、今度はお連れ合いが病気になり、2年前に夫さんも亡くなられた。
九州に1人残った妹さんを迎えて一緒に、あるいは近くで暮らす、という計画があるようだ。妹さんも知人もそれぞれ気ままに過ごした2年間があるので、元気なうちは一緒というより、スープの冷めない距離に住むのがいい、と思っているとのこと。
今の住まいを売って、ゆくゆくは介護付きの老人マンションに、という希望がある。
それでいろんな場所をみてみたいのだ。
もう1人の人は、九州とは反対の北海道に義父がいらっしゃる。93歳だという。至って元気。単身赴任でアメリカに長くいらしたお連れ合いが定年になって帰国されたが、自宅にいる暇もなく父親と暮らすために北海道に渡った。(何と見上げた夫さんだ! 亭主丈夫で留守がいい、を地で行っている人だ)
今は元気だが痴呆が始まらないとも限らない。そうなったらこちらに引き取らざるを得ないと覚悟しているとのこと。ということは夫さんも戻るのだ。
母のところはグループホームで入居できる人は市内在住者に限っている。
2階~4階までは、介護付きの有料老人ホームになっている。
1階のグループホームとは内容も料金も違う。
上は母のところより5万円ぐらい高い。完全介護つきで、部屋にトイレがついており、家具もちょっと高級そうな感じ。
2階は重い人たちが多いのでざっと見て3階へ。 4階は要支援1の人。一番症状が軽い人たちが入っている。
続きはあした。最近根気がなくなった・・・。
2008年7月4日金曜日
今年の東電株主総会 (つづき)
総会には10時10分ほど前に到着した。代読の役をおおせつかっていたのでもっと早く着いているべきだったのだが、開業以来トラブル続きの副都心線がこの日も少し遅れたのと、乗換駅がものすごく不便で思ったより時間がかかった。会場の最寄駅は大江戸線の芝公園か赤羽橋。大江戸線が副都心線と交わる駅が東新宿で、ラッキーと思ったらそうではなかった。乗り換えホームまで延々と歩かなくてはならなかった。やっと乗ったと思ったら都庁どまり。また乗り換えた。そして電車はやや戻る感じで目的地に向かっていった。実は、ネットで乗換えを調べたときに、新宿3丁目で新宿線に乗り換えて新宿に行き、そこで大江戸線に乗り換える、と表示されていたのだが、れっきとした大江戸線の乗換駅があるのに何で? と従わなかったらやっぱり遅かった。
日比谷だったらよかったのに、と今年も思った。
10時ちょうどに総会は始まったが入場者はまだ続々と詰めかけていた。3000人ぐらいの入場者?昨年は一般席にいたので壇上の面々は豆粒のようだったが、今年は前のほうに用意された提案席に座った。スクリーンを見なくとも顔はよく見えた。 女性の役員は今年も1人もいない。
最初に思ったのは勝俣社長、やつれたな、ということだった。
それはそうでしょう。地震直後の強気の発言から、徐々に風当たりは強くなり本人も自覚したと思う。しかし、事前質問や当日の質問で地震被害のことが出ても、東電側は機器は正常に作動し、その結果大事に至らなかったとまるで他人事のような答え。
柏崎刈羽原発は中越沖地震のとき以来止まったまま。電気は足りているので、大事に至る前に、ぜひこのまま停止してほしいと願うが。
昨年の総会直後のできごとなので、一般株主はすでに忘れているのか?
CO2削減に関しての質問や役員に技術畑の人が少ないことへの不満など、私たちのグループ以外からも質問が相次いだが、地震関連や放射能事故を心配する質問はなかった。
そうそう、いつからか調べてないが、東電は副社長が6人もいた! 何かあったら責任を薄く広く分担するつもりなんだね。
2008年7月1日火曜日
みんなの家 家族会
同じようにお義母さんを有料老人施設に入所させている友だちからは、いいわね、あとで、様子を教えてね、と言われていた。
午後の予定だから、1時か2時ごろだろうと、勝手に思い込んでいた。
土曜日は「みえない雲」の上映会が都内であり、もう一度大きな画面で見たいと思っていたのだが、そちらをキャンセルして家族会に。
案内をよくみたら、3時半になっていた。そうか、お昼の前後やらおやつの時間やら、入所者や職員の時間の兼ね合いでそんな時間になったのか。
早めに行って食堂でほかの人と話したり、きれいに飾り付けられた七夕飾りを眺めたり。竹はきょうとってきたと職員さん。かなり豪華な竹だった。七夕飾りを楽しんだ年代ではないのに、保育園と同じような行事でいいのかな? 5月には新聞紙で兜を作って頭に載せた写真が壁に貼ってあった。
でも、子どもに返るというから、いいのかな? 飾りをみたりするのはうれしいのかもしれない。
さて、いよいよ会議。
みんなの家は一つのフロアに2グループが分かれている。あちらのグループが母たちのほうにきて、会議はあちらのテーブルで行なわれた。
かなりの人数がいる。
席について進行の紙と出席者名簿を見て、驚いた。
地域の町会長、民生委員2名、地域の関連施設の人、市役所職員、オーナー側2、こちらのホーム長と職員と本社職員の計3名、それに「ご家族様」と書かれた2人。
私がきちんと読まなかっただけで、よく見たら「運営会議」と書いてあった。
家族と職員で話し合いをもつのかと思ったらそうではなかった。
だからほかの皆さん来られなかったのか?
同じ町内の仲間として、施設が位置づけられるのはいいと思う。回りの理解は必要だ。町内の夏祭りのとき、みこしは来られないが、お囃子隊は敷地内まで入ってきてみんなにふんいきを味わってもらいましょうかと町会長。
オーナーとというのは土地持ちの大地主さんで、今は土建屋さんのようだった。作業服を着た社長と従業員が1人来ていた。敷地内には樹齢何百年という楠木(市指定の木)だけがぽつんと1本残っていて、あとはすべて整地されているが、この辺は狸も出たんだよ、と前に地元の人が言っていた。
民生委員はいかにも、なんでも相談してくださいよ、というふうの女性2人。
市役所職員は若手の男性。高齢者ふれあい課というところの人。自分は普段は○○の書類担当で現場は慣れていません。今日は勉強のために来ました、と。慣れている人を寄こせばいいのに?
一番頼りになりそうな発言をされたのは、地域包括支援センターの女性職員。ここはどこの市町村にもある「社協」が運営している。
みんなの家にも近く、体操とかフットケアーなどの医療相談とか、入所者か職員が代表して行けば何でも相談にのってくれるという。
ちなみに入浴サービスなど私たちも利用できる。何歳からですかと尋ねたら60歳から誰でも利用できるとのこと。ふ~ん。
最後に「ご家族様」からの発言を求められた。隣の方は、「父の状態が良くなった、とても助かっている。ここに入る前、いかに大変だったか」と縷々述べられた。
出されたおやつ(わらび餅)は入所者も一緒に作ったという説明があったので、私は、団子作りなど得意だからどんどんやらせてほしい。草取りも得意だからそれもさせて、とだけ話した。
終ったあと、隣の家族の方から声をかけられて、やっと家族間のふれあいが少し実現した。
認知症と一口に言ってもそれぞれみんな違う。
彼女はいつも陽気に歌を歌っているおじいちゃんの娘さんだった。最近になって怒りっぽい、ということがわかった。将棋を1人で楽しんでいる人の側に言って、自分で勝手に打ち出して、思うようにいかないと怒り出す。相手の人は大人しい人なので喧嘩にはならない。職員の人が何とかなだめるとすぐに直るのはいいところ。
娘さんの話しを聞いてわかった。植木職人だったのだ。鼻歌を歌いながら植木を切っていたのだろうか。母と同じくこの人も草取りが得意だと職員の人が言っていた。
しかし、娘さんはよくなったと言っていたが・・・
実はこの前、夜の時間に母のところへ行ったとき、職員の人が机、テーブルなど、使っていない部屋に詰め込んでいた。くだんのおじいちゃんが8時ごろになると興奮して椅子などを投げ出すのだとか。一つ壊されたので、しまうことにした、と。
ま、興奮するのは毎日ではないだろうが、予兆があるときとないときとあるから予防しておいたに越したことはない。
なかなか難しいものだ。
2008年6月29日日曜日
今年の東電株主総会
さて、今年の総会だが、昨年は長年使っていた日比谷公会堂から変わって商業会場になり、ちょっと新鮮だったが、今年は昨年と同じ、芝公園にあるザ・プリンス パークタワー東京の地下2階。昨年は隣で別の会社の総会があったが、今年は東電だけだったからあんなにたくさんの案内する人が必要なのだろうか。日比谷公会堂と違ってホテル側の案内人もいて、うるさいぐらいだった。
今年もシャンデリアは燦然と輝いていた。
提案株主は前のほうに用意されていたので後部の席を見るのを忘れてしまったがほぼ満員だったと思う。
2008年6月26日木曜日
昨年の総会の感想
以下転載。
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~~シャンデリアの下で行われた東京電力株主総会~~
東京電力の株主総会に出席するようになって初めて今年は遅刻した。
わが、脱原発・東電株主運動のサイトを見ると、「私たちは1989年以来、株主の立場から脱原発を訴えています」と書いてある。そうすると、私は19年間も株主総会に出席していることになる。脱原発株主が参加した1回目の会場は東電本社だった。初めて参加した総会のありかたに不満をもった私たちは閉会宣言をしてもその場所を動かなかった。最後はたしか、私も含めて7、8人が長時間会場に居残った。翌年から占拠を恐れてか、会場は日比谷公会堂に移った。以来一般株主が着く前に私たちは会場入り口に陣取り、チラシを配った。
時が経つにつれ、勉強会をさぼるようになっても、総会の出席とチラシ配りは欠かさなかったのに……。
なぜ、遅刻をしたのか。ひとつは、勉強会に今年もまた参加していない、行っても総会の内容についていけるかな? と気後れしていたことと、場所が今年から[ザ・プリンスパークタワー東京 B2Fボールルーム]というわけのわからない会場になったから、たどり着けるかな? という不安もあった。でも、とにかく参加することに意義がある、と出かけることにしたが、実際に日比谷より遠かった。
10時開始に20分遅れで会場に着いた。同じホテルの隣のコンベンションルームでは三菱商事の総会が行われていた。都心のホテルというのは大きいんだな、と感心というよりあきれた。
一般株主がまだぞくぞくと詰め掛けていた。入り口には昨年までなかったコーヒーのサービスがある。おみやげは例年と同じ扇子のみ(正確には、いつもよりやや高級そうだった)。
長く広い会場はすでに満員に近い状態。日比谷は劇場だから後ろでも良く見えたが、今年の会場は平面に椅子が置いてあるだけなので見えにくいし、おまけに長い部屋なので壇上の役員たちは豆粒のよう。大きなスクリーンが4カ所に設置してあって、議長の顔と答弁する役員の顔だけはアップで見えるようになっている。
なんと言っても特筆すべきは燦然と輝くシャンデリア。省エネを訴える東電としてはそれでも輝きを抑えたのか、あれが普通なのかは定かではない。広い会場はいくつにも仕切れるようになっていたから夜な夜な資金集めパーティとやらが開かれているのだろうか?
シャンデリアのせいで、総会の間、雑念がわき集中できなかった(と言い訳をしておく)。
3000人も入る会場はそうそうなく、数年前に建てられたこのビルの建設には東電も参画したという。ということはすべてオール電化なのか!
私のまわりも一人暮らしや老夫婦だけの家庭が多くなってきた。心配だからガスは止めて電気にした、という声をよく聞く。当の年寄りはそんな選択を出来る人は少ないだろう。
息子や娘たちがとりつけてやっている、という例が多いのではないだろうか。コマーシャルの影響は大きいと思う。少し前までは熱効率のよいガスレンジだけだったのに。
オール電化についてはわがグループが議案提案をしている。その議案も含めてどんな提案をしたか以下に掲げます。紙面の都合により一部割愛しますが、脱原発・東電株主運動のサイトには全文が載っています。
【株主提案議案の要旨】(中略)
上記は全株主に配布された「第83回定時株主総会開催ご通知」に会社提案と共にすべて掲載されている。私たちの提案に賛成した一般株主も含めた提案株主数は671名であった。株主総会では否決されても、議決権を行使できる株主数563,618名が私たちの主張を目にしたわけで、その意味するところは大きい。
最後に、東電の株主総会は会長が議事進行を行うが、一番多く発言するのは社長だ。勝俣社長は回答中、ヒューマンエラー、という言葉を再三使った。これって何? また、リターン運転? コーポレントガバナンス? エネルギーセキュリティ、あ、これはエネルギーの安全保障のことです、と自ら解説したが、それなら最初からそう言えばよいのに。
みなさまにわかりやすい表現を使い、より理解していただくように努めます、とも言われた。矛盾していないか? 猛省を促したい。
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第84回 東京電力定時株主総会がある
昨夜、私たち脱原発東電株主運動のメンバーで打ち合わせを行なった。
と言っても私は最近は例会にもほとんど参加していなくて、毎月送ってくれる通信もざっと目を通すだけの不良会員である。
かつての総会には私たちのメンバーが百人以上出席していた時代もあった。
この運動が始まってから19年が経ち、すっかりさま変わり。
今年は何と私たちの会用に、東電が用意した席は12席。これは東電がいじわるをしているのではない。私たちの仲間が出席しなくなっただけのこと。株を手放した人ももちろん多い。
ごたぶんにもれず、メンバーの高齢化と運動の長期化(あ、これは連動するか)により、自然現象と言うべきものかも知れない。
しかし、私たちが行なう株主提案には496名もの株主が名前を連ねている。
これは長年の経験と地道な努力が実を結び、一般株主の同意を得ているからだ。
詳しくは脱原発東電株主運動のページに書いてある。
http://blog3.fc2.com/todenkabu/
今年も4つの株主提案を行なった。
総会では、あらかじめ郵送された開催ご通知というのに議案が記されている。
私たちの議案ももちろん同じ通知書に書かれている。
総会ではその議案をもとに、趣旨説明がそれぞれ許されていて、ことしも4つの議案について説明する。私自身も説明者になったことがある。たくさんの人数が出席していた頃は順番だった。今は出席者が少ないのでいつも同じような人が説明せざるを得ない。でも、私はほとんど内容に踏み込めないので説明者は避けていたが、今年は趣旨説明を書いた人に代わって代読することになった。
大丈夫かな?
もう一つ今日の大事な仕事はチラシを配ること。
脱原発運動の歴史やきょうの見どころなどを書いた冊子を仲間は配る。
私は? チェルノブイリ救援の募金を訴えるチラシを配る。
さて成果は?
2008年6月21日土曜日
忙しかった1週間
4月のイベントは一大事業だから半年ぐらいは大変。
7月になると現地での一大事業のひとつ、甲状腺手術後の子どもの保養(特別保養と呼んでいる)が始まる。現地とのやりとりやらこちらからもスタッフが出かける準備やら、何かと大変になる。
ベラルーシ、ウクライナそれぞれの保養所により、期間も違うので8月も子どもたちの保養がある。
日本からはスタッフのほかにボランティアも訪れて、保養の期間中子どもたちに日本の文化や遊びを教えたりすることを、1997年以来続けている。多いときは10人以上、最近は2,3人という少ない人数になってきたが何とか続いている。この期間、子どもたちはもちろん大喜びの保養になる。
現地での保養期間中は、残っているスタッフがのんびりと夏休み、という気分にもなれず、8月が終るまでは留守番の事務局も緊張がとれない。
今年は幸か不幸か保養が縮小になったので、事務局も夏休みをとる。
子どもたちにとっては不幸なことだ。
というわけで、上半期で6月は余裕がある時期なわけだが、ニュースの発行があり、まったくのんびりとはいかない。
その上、今年は母のことで何かと時間をとられる。
昨日も編集の真っ只中だったが姉一家が来たため、事務局には行かなかった。
幸か不幸か今はパソコンのメールを使って居ながらにして仕事ができる。
朝のうちにメールで必要なものを送り、印刷の段取りをして、休んでも大丈夫という状態に。
昨日の「みんなの家」での様子はまた後で書く。
そうそう、昨日の朝は、お姑さんの世話のために引っ越していったSさんも突然見えた。
お互いの母の情報交換する間もなく、姉達が現われた。
もう一つ忙しかったのは、同じ棟に住んでいたやはり高齢の方が昨年末有料のホームに入られて、このほど家を処分するということになり、家具や食器など使ってくれる人はいないだろうか、という話が持ち込まれたためだ。2年前に夫さんが亡くなられて一人暮らしだったが、その方の前の家のIさんが何かと面倒を見ていた。我が家もそうだが、世話になるのは遠い家族(親戚)より近くの他人である。
チェルノブイリのためのバザーを行なっていることを、その家の子どもさんにIさんが伝えてくれて、少しでもカンパになるのなら幸いだ、ということになった。急きょ、何人かに声をかけて家具を見に行ったり食器を運んだりした。1人暮らしなのに、たくさんのそれも大型の家具ばかりで、私たちの仲間では引き取りたいという人はいなかった。でも食器や雑貨は気に入ったものもあり、少しずつカンパが生まれた。約5000円ぐらいだったが基金へのカンパになった。
忙しかったが、ご近所との交流もできたし、カンパも生まれたのだから感謝。
印刷終了
何しろ試験は一夜漬け、夏休みの宿題は前日(当日?)でないと終らないという子どものころからの性分だ。もっと早くに手がければと毎回思いながら、直らない。
ほんとは土曜日の発送を基本としているので、今回もそうだったら前日終了だった。しかし、場所取りの都合で発送が日曜日になったので、印刷が終ってから、中1日あいての発送になった。これは快挙? というほどのものではもちろんないね。
最近は読みやすいようにと写真も多く使う。ぼらせんの簡易印刷ではうまく出ないときもある。
印刷を手伝ってくれているボランティアスタッフと製版をするときに、いろいろ工夫しているが、今回はっきり気がついたこと。写真それぞれが1人の人が撮った写真ではないことと、1枚1枚、状況が違うので色の濃い写真、薄い写真、さまざまだということ。
プロだったら、明度、コントラストなど写真の編集をしてから臨むだろう。またプロの印刷だったら、多少の違いはあってもそれなりにきれいに印刷される。
かつての理想印刷機などより、はるかに簡易印刷機も精度はよくなっているが、なんてったってしろうとが手がけるのだ。
1枚のページに何枚もの写真を並べるときはできるだけ写真の環境を整える、ということに尽きる。写真の編集をする、あるいは他とつりあう写真を選ぶなど、時間をかければしろうとなりにできることもある。
次回は余裕をもって取り組もう。
2008年6月18日水曜日
母の仲間 その後
そうだよね、程度の差はあれ、彼女も認知症なんだ。
私が甘かった。
おとといの夜、母のところに寄ろうと思ったが電車が大幅に遅れて寄れなかった。
昨日は朝、少し時間をとって、10時のお茶にあわせて行った。
前日、小田原から届いたばかりの無農薬オレンジをたくさん切って持っていった。
母はぼけていても、なかなか細かなことを気にしたりする。
友だちになろう、と言ったTさんの娘さんがときどき来て、おやつをくれる、という。
だから、私にもみんなにあげてほしい、と。
そういうことをしていいとは知らなかったから、職員に確認したところ、いい、という。
3時にはホームで用意しているので10時がいいですね。と。
それで、少しまえ、お菓子のゼリーを1人2つぐらいずつあげてください、と頼んでいたのだがなかなかうまくいかなかった。
そうか、いちいちこちらの用をしているわけにもいかないのだろう。
だから自分でその時間に行ってあげればいいのだ、と理解した。
小さなオレンジだから、一切れはみんなすぐ食べた。おいしいと言ってくれたので職員に聞いてからもう一切れずつ渡した。母は一切れでいいと言ったがそのほかの人はみんな2切れずつ食べてくれた。
そのあと、車椅子で散歩する人がいて、私も母を連れて一緒に散歩させてもらった。
ほぼ敷地内に近い公園をぐるっと回ってきただけだが、生えている草をみて、
取らないのか、と私に尋ねた。庭の草は気になるのだろう。
おだやかなひと時を過ごすことができたと自己満足(?)。
あの後、興奮していなければいいのだが。
母だけでないが、家族が来て、かえって興奮するときもあるらしいから、良し悪しのときも。
ま、そのときどき、しょうがない。
2008年6月17日火曜日
東京メトロ副都心線、開通からダイヤ乱れ続ける
土日の乱れはま、大したことはなく、最初だから、と大目に見たのではないか?
15日は日曜日だったがたまたま飯田橋まで行く用事があり、電車に乗った。この日は土休回数券を使わなければならない、という個人的事情のため、東武東上線で池袋まで乗って、池袋から有楽町線に乗り換えた。池袋から乗った電車はいやに空いていたがあの電車はどこの始発だったのか。
帰りは、地下鉄飯田橋駅から、最初に来た電車が小手指行きだったのでそれに乗った。急行と書いてあったが、あまり不思議に思わなかった。
池袋駅であわてて降りる人がいて???
車内放送で、この電車は池袋の次は要町、千川、は止まらず小竹向原駅まで行く、と言っている。
地下鉄ではじめて急行というのを作ったのだとか。
小竹向原でいつものように東武線に乗り入れている電車に乗り換える。
ホームに止まっていた和光市行きに乗る。しばらく止まったまま???
向かい側に来た、急行川越行きが先に出ますとアナウンス。そっちに乗り換えた。
そしたら、小竹向原から和光市駅までノンストップだと???
急行という名前なのに和光市駅からは各駅だと???
従来の東武線の急行だと我が乗車駅は止まらない。
地下鉄直通の急行は止まるのだ。
なんだ、便利になったのか。とにかくこの日の帰りはいつもより所要時間は早かった。
しかし、最初の平日となった、月曜日。
ダイヤは大幅に乱れた。朝のラッシュ時に乱れたのが尾を引き、とうとう終日乱れていたらしい。
朝10時ごろ、駅についたら、渋谷行きの直通電車は運休。その影響で駅で20分以上待った。和光市で地下鉄に乗り換えようと思ったら、振り替え輸送をしているので池袋まで行く人は東上線に乗ったほうが確実です、というようなアナウンス。
日曜日と同じく、池袋駅で有楽町線に乗り換えて地下鉄飯田橋まで行った。
帰りは朝よりひどかった。
飯田橋駅から清瀬駅各停に乗った。
池袋まではまあ順調に着いた。
そこから先が前の電車がつかえているので、と、ちょっとずつしか進まない。
やっと小竹向原に着いて、東上線に乗り換えた。やはり、遅々として進まない。
赤塚駅で東上線の下赤塚駅に乗り換えたほうがいい、というアナウンス。
降りたことのない駅で、不安だったから乗り換えなかった。
和光市駅にやっと着いたら、今度は川越方面に行く電車が来ない。
来る電車ほとんどが和光市止まりに変更になっていた。
いつもの所要時間50分ぐらいのところ、2時間かかった。
なんだかな~
地下鉄に乗っている間はご迷惑をおかけしての連発だったが、東上線に乗り換えたら大したアナウンスもなかった。迷惑をかけたのは東京メトロで東武のせいではない、と言いいたいのだろう。
副都心線が開通してもまったく関係ないと思っていたが、とんでもない。西武線、東武線、有楽町線、みんな関係あるのだ。
乱れた原因は運転士が不慣れなため、というのがどこかに書いてあったが、シュミレーションは繰り返しただろうに???
謎は深まるばかりだ。
2008年6月15日日曜日
通信の発行
募金によって支えられている団体はなおさらで、子ども基金の場合は3か月に一度の発行。
3か月間の活動のほぼすべてを網羅したい。とは言え、実際のところすべては無理なのでできるだけ、要の部分ははずさないように心がけている。
子ども基金は91年から活動しているが、ニュースは73号を数える。数が合わないのは、最初は毎月発行していたのと、臨時発行もあったからだ。
通信は、子ども基金の活動(=被災地の様子)を紹介するのと、募金の使い方を報告するのが大きな目的となっている。
募金者数の増減は多少あっても2800名前後を大体維持し続けている。
原稿を寄せてくれる人、編集を手伝ってくれる人、印刷を行なってくれる人、そして発送日には毎回10~15人ぐらいの人が集まっての大作業。飯田橋・ぼらせんの部屋を大体つかわさせてもらう。
一連の行動の中で何が一番大変かというと、ぼらせんの場所取り?
4か月前の同じ日に9時受付に合わせた電話がけをする。
9時に1分でも前だとかからない。1分でも過ぎるとお話し中。人気のチケットとりと同じ。
今どき、無料の部屋を借りられるところなど滅多にない。公民館でも地域センターでも費用はかかる。だから人気なのもうなづける。
いやいや、場所取りが一番大変というのはウソで、一番は発送作業の人たちが集まってくれるかどうかだ。2800通を一度に出すのは大変な作業だ。どうしても人数が足りなくて、発送が終らないときもある。そういうときは後から事務局で追っかけ出すことになる。
でも、そういう事態は滅多にない。幸いにいつもボランティアが集まってくれる。ありがたいことだ。
ぼらせんは部屋がとれなくともロビーは自由に使える。印刷室も空いていたら使える。だけど土日はロビーも満員だ。先にとれないときは、空きそうなテーブルの近くで待つ。
この間、熟年の男性グループが新聞を読みながら、テーブルの空くのを待っていた。タッチの差で私たちはとれなかった。彼らはすぐに作業を開始。手際よく印刷したものを封筒に詰めて糊付けをして発送。来月は何日、と次の集まりも決めて解散。
熟練工、と言った感じ。私たちはその手際よさに半ば賞賛のまなざしを送った。
逆に、こんな作業にこんなに人数が? と言いたくなるのが学生諸君。飯田橋は学校が多い。昔だったらそれぞれの学校で印刷したと思われるが、今はそういうことをさせない、と聞いた。
本当はどうか? よくは知らないが、とにかく、5、6人で占拠しておしゃべりしながら作業している。
私たちだったら1人か、せいぜい2人でできる印刷作業。
それでも、こういうことを経験する学生とそうでない学生とは社会に出てから違うのではないだろうか?
おしゃべりしながらでも経験したほうがよいに決まっている、と私は信じている。
2008年6月10日火曜日
東京メトロ副都心線まもなく開通
前から、新線池袋行き、というのがときどき有楽町線のところを走っていたのだが この電車はいったい何のために走っているのか、いつも がらがらで意味がわからなかった。
池袋に行こうと思ってそのまま乗っていると、とんでもないところに着く。
池袋は池袋でも、JRなどがある駅ではなくはるか離れた新線池袋駅というところに着く。
それが副都心線、という立派(?)な名前になって渋谷まで直行で行けるというのだ。
池袋駅が端っこだろうが関係ない。渋谷に用があるときは降りないで行けるのだから。それは便利だ。
現在仕事場が飯田橋なので残念ながら日常的に恩恵にあずかることはできない。もし、引っ越す前の明大前だとしてもやっぱり関係ない。
明大前のある京王線は新宿で乗り換えだ。副都新線は新宿3丁目、つまり伊勢丹があるあたりに東新宿という新しい駅ができるらしい。この東新宿は都営大江戸線の乗換駅になっている。
牛込神楽坂から事務所は一番近い。私は有楽町線の飯田橋駅を利用しているが、牛込神楽坂を利用する人は便利になる人もあるかもしれない。
ついでに、事務所にはもう一つ最寄駅がある。東西線の神楽坂駅だ。
早稲田・高田の馬場方面、あるいは大手町方面に行く人はこっちが便利。
東京の地下は縦横に線路がはりめぐらされているわけだが、地震のときはどうなんだろう? 地上より安全なんだろうか?まったく地上に出られないなんてことは起こらないのだろうか?
空恐ろしいことにならなければよいのだが。
2008年6月9日月曜日
落ち着いてきたか・・・
私も見学。
職員の方がいろいろはやしてくれて、みんな乗せられている。
母はにこりともしないでゲームに参加していた。
1人の男性も同じように無表情だった。
しかし、来たボールにたいしてはみんな真剣で返す。
CDケースをラケットよろしくみたて、柔らかなボールをそれで打ち返すゲーム。
きょう、初めてやったのだそうだが、飽きることなく続いていた。
気にいるとずっとそれをやるとのこと。
認知症のグループホームは9人と決められている。母のところは2グループが左右のフロアに分かれている。
同じビルの3階~5階までは介護付き老人マンション。どこがどう違うのかよくわからないが、補助金の関係か、グループホームだけは地域密着型だ。
今、母のグループは今は6人。もう一つは8人だという。最初見えた方がいなくなったり、あとから入ってこられた人もいて、2カ月の間でも入れ替わりがあった。
なぜ、いなくなったのか、すごく気になる。でもそれは聞けない。
今いる6人、なかなかいい感じですよ、このグループは。と施設長さんの話し。母が極度に興奮していなければだが。
10日に薬をもらってから、飲ませるのに苦労しているらしい。安定剤は毎回飲まなくともよい、と言われている。1日1回でも母には利いているようだ。
母がみんなと一緒にいれば、私も他の人たちと話ができるのでうれしい。
少しずつ慣れるだろうか。期待がもててきた。
2008年6月7日土曜日
母の仲間
ここのところ落ち着いている母だが、仕事の終ったあと、顔を見に行くのを日課としている。大概夕飯が済み、ベッドに入った時間になる。
それは何時かというと6時半ごろ。はやい!
寝るしかないでしょ、と言われるとグーの音も出ない。
でも、今日は違った。食事の後、部屋に戻らず、テーブルのところにいたのだ。
「どうしたの?」 「今日はご飯が大盛りで胸やけするから、起きていた」
安定剤をヤクルトに混ぜて飲ませようとしたが、お腹がいっぱいだからいらない、と拒否。
「ご飯が少ないんだよ。私はいつも7分目ぐらいしかよそってもらってない」とこぼすので、先日「母は田舎者でご飯が好きなんです。結構多目によそってください」と職員に頼んだ。
大体、都会ではご飯は少な目によそる。常識だ。まして年寄りの女性はそんなにたくさん食べないと思われて当然。
施設はたくさんの人が交代で詰めているので、みんながみんな同じように待遇してくれるとは限らない。会う人ごとに、これからご飯は多目にしてくださいね、と頼んできた。
効を奏し、ほぼみなさんに母の要望が行き渡ったらしい。パンのときもあるが3食ご飯のときもある。それが一様にたくさんのご飯を毎日よそってくれる状態になって、いささか多過ぎた? 「すみません、ご飯が今度は多すぎる」と言ってます、とまた頼む。
「そうですか? じゃ、ほどほどにしますね」 「あ、もしよかったらその都度本人にこれぐらいでいいか、聞いてくれませんか?」 「そうですね。それがいいですね」
一件落着。昔の人だからよそってもらったご飯は残すことはしない。
そのやりとりを聞いていた前の椅子にすわっていたおばあちゃんが、この人はおとなしいね。なんでも言ってもいいんだよ、と話しかけてきた。
前の席だから母には聞こえない。耳のそばで話すとわかるがそうでないとほとんど聞こえていない。でもわかったようにうなずくだけはうなずくので、ただ、おとなしい、ととられてしまう。田舎でデーサービスに行っているときも友だちはできなかった。何年通っても慣れるということはなかった。我が家にきたときも、最初は行ったのだが、デーサービスは絶対行かない、と言い張ってすぐに行かなくなってしまった。
職員の人には耳が遠い、ということは伝えてあるので耳のそばで話してくれる。入居者までにはいちいち、耳が遠いからそばで話してね、とは言ってくれない。今日はたまたま私が一緒にいたときに話しかけてくれたので、逐一母に伝えることができた。
その人は、うるさがられると思って声をかけなかったという。
「友だちになりましょう。おしゃべりがきらいでなかったら、今度は耳のそばで話しますからね。うるさかったら言ってね。散歩も一緒に行きましょう。がんばりましょう」
隣でおじいさんが何か字を書くマネをしていた。昼間来たとき、紙とペンを持って、一心不乱に書いているのを見たことがある。あの人はいつも字を書いてますね、と私が言ったら、友だちになりましょ、と言ったおばあちゃんは、「字をかいているのかね?どうかわかりませんよ。でも私もよくわからないからどっちがどうだかね(???)。これで辛いんですよ。ここでは一人ですし」としんみりとした口調。
ここが認知症専門のグループホームでないなら、まったく普通の会話だ。よく知らないからどこまで悪いのかわからないが、なかなかさっぱりした、感じのいい人だ。
がんばりましょう、と握手を求められて、母ははにかみながら握り返した。よかったね、と言ったら、うんとうなずいていた。
ヤッホー、と言いたい気分になった。何とか友だちになれたらいい。
私も及ばずながら力を貸す。
2008年6月6日金曜日
アエロフロートで順調に?
ベラルーシに行ったスタッフより連絡があった。
飛行機が時刻どおり動くのが当たり前と思っている人が大半だと思うが、どっこいアエロフロートはそうではない。
たまたま運がわるかったのか? いや、周りには似たような経験をした人が結構いる。
そんなに多くない海外行きなのに、私自身3回もトラブルにあっている。
1回目は通訳と2人だった。出発すべき飛行機の調子が悪く、整備中だったか何かで。
もうすぐ出発? というような空気が何回かあったが、結局シェレメチボ第2国際空港に1泊となった。同じように、待合室のソファーで朝を待っている人が大勢いた。
通訳の家に行くことも可能のように思えたが、いつ、出発するか、わからないから、という理由で空港内にとどまった。
2回目は3人の旅だった。
なんのトラブルだったか忘れたがこのときはホテルが用意された。
待遇はましだったが、時間はかかった。時間はあってもモスクワ市内に行くことは禁じられていた。
そして3回目は1回目のときから10年後、3年前だ。
子ども基金が支援している保養施設の10周年記念のお祝いに4人でかけつけるところだった。成田から出発のときに、整備に時間がかかったという理由で(この理由自体怖い)、すでに1、2時間ぐらい遅れて出発した。でも、モスクワでシェレメチボ第1から第2に乗り換えるとき、6時間ぐらいの待ち時間がある、大丈夫、とみんな楽観していたがさらに予定より時間をかけて着いた。
国際線に乗る人は? と、シェレメチボ第1に着いたとき、どんどん先に呼ばれる人たち。私たちも呼ばれるものだとばかり思って並んで待っていた。時間はまだたっぷりある、と思った。
ところがいつまで待っても先に行けない。係りの人に聞いたら、国内線だからこの列は違う、という。 えっ! 早く言ってよ。ベラルーシ行きは旧ソ連時代のまま国内線扱いなのだ。
あわてて第2に向けて車に走ってもらったものの、特に警戒が厳しい頃で、検査のため入り口が極端に狭くしてあり、長蛇の列。
やっと中に入って、掲示板をみると、私たちが乗る飛行機はまだ出発していなかった。
しかし、また搭乗手続きに時間がかかり、結局乗れなかったのだ。
飛行機の到着が遅れたのはアエロフロートの責任なのだから何とかしてほしい、と迫ってもラチはあかない。翌朝10時まで飛行機は出ない、という。
泊まるところも探せない、空港内で寝てくださいと。
待合室のソファーで?
ダメなものはダメで、事務室に行って掛け合ったがムダだった。
翌日の式典では入れ替わり立ち代わりのスピーチ三昧。不覚にも寝てしまった。証拠写真も撮られている。
そのときで懲りた相棒はもう二度とアエロフロートは使わない、と決心したはずだった。
今回は、費用、日程、両方で倹約できるアエロフロートに決死の覚悟で決めた。
もし、帰りも順調だったら・・・・・
いつもボランティア精神で、手荷物の重量オーバーなど、何かとサービスしてくれるルフトハンザドイツ航空を主に利用しているが、今後、他社の飛行機は使わず、アエロフロートにするか?
かけたいところだ。
2008年6月3日火曜日
修学旅行の中学生4人が来局
修学旅行の中に、総合授業の一環が組み込まれている(?)。
毎年、この時期、どこかの修学旅行生がやってくる。
前もって、こういう趣旨で行きたいと連絡があり、資料を送っている。
私たちの団体がチェルノブイリ救援活動を行なっていて、どこに何を具体的に支援しているかは資料に書いてある。
しかし、のっけから「チェルノブイリ事故」のことを聞いてきた。
え? 事故のことは調べたのではなかったの?
幸いにして、事故20周年のときに京大原子炉実験所の今中哲二さんら専門家と私たち市民団体とが共同で調査・研究を行なった「報告書」がある。
事故の概要から現在の状況などチェルノブイリのことが全体的にわかるようにできている。
それを見ながら説明した。
帰ってからよく読んでね、と1冊あげた。
調査・研究のほうはトヨタ財団から助成金を受けて実施したが、報告書のほうは助成金が下りなかった。今中さんの研究の一環でもあるので研究費の一部を印刷代にあてた、ということで私たちは送料のみでこの本をいただくことができた。税金を使わせてもらっているのだからそれぐらいは、還元しないと、というわけだ。ほしい人にはチェルノブイリ子ども基金からも差し上げている。
事故の質問の後は「支援」について。サナトリウムとは何ですか? という質問。
かつて日本でも結核患者が療養するところなどをそう呼んでいた。
今、日本では、死語に近いから知らなくとも無理はない。
でも、辞書には出ているだろう?
いやいや、単にサナトリウムということばだけでなく、チェルノブイリ被害者が保養に行くところがサナトリウムだったから聞いたのだ。いや、同じことか。ま、どうでもよい。
その次に聞いてきたのが、私たちは何ができますか?
きたきた。それを待っていた。
まず、募金でしょ。
それから、知ってもらうことが肝心だから、学校で写真展を開くとか。
文化祭などで何か、環境問題とかの写真展がなかった?
なかった・・・
じゃ、社会人先生とか、外から人を呼んで話しをしてもらうことはなかった?
なかった・・・
図書館にチェルノブイリ関連の本はない?
なかった・・・
まさか!? ないわけないと思うけど・・・、ぐっと言葉を飲み込んで
そういうのをやるとか、提案するとか、リクエストするとか働きかけてみたら?
今、ベラルーシに行っているスタッフを講師として派遣するし、
写真展事務局は東海に近い三重県にありますよ、とパンフも渡した。
今まで小学校も含めて、学校でチェルノブイリのことを習った覚えはない、という。
じゃ、今日は何でここを選んだの?
先生がいくつかあげた中にチェルノブイリがあったから、と。
約150人の生徒たちが、4、5人に分かれていろんなところに行って生の声を聞くのはいい。でも、事前学習はしないのだろうか。神社仏閣の見学だって、事前学習には時間を割いた。ましてや、わざわざ小さな団体を尋ねて支援内容を聞くのだ。
火曜日はボランティア2人が定期的に来る日で、この日もいつもの2人+1人のボランティアがきてくれた。スタッフ2人だけのときも多く、今日は狭い部屋に中学生も含めて大入り満員だった。
もらった資料を見るだけ、読むだけ、よりも何か心に残るものがあっただろうか?
できれば、後日行なわれるであろう発表会をのぞいてみたいものだ。
2008年6月1日日曜日
風呂敷包み
興奮の度が最高潮に達する前になんとかおさめないと
大変なことになる、と、今回身に沁みた。
それで、できるだけ毎日顔を出すことに決めた。
急ぐときは自転車になるけど、仕事の帰りは駅から直行で
歩きだ。自宅から15、6分ぐらい、駅からだと12、3分ぐらい。
ちょうどよい距離である。
近いことは助かる。
私の健康にもよいに違いない。
きのうもきょうもまあ、おだやかだった。
明日当たりから危険水域か?
母にとって大事なものを包んだ風呂敷と
手提げ袋がそのままタンスの中に入っている。
風呂敷に包んだ荷物を玄関に置いておくのは
そういえば、昔からだった。
子どものころ、父と喧嘩になると、「私はもうガマンできない。
子どもがかわいそうと思っていたけど、実家に帰る」と
タンスの中の物を風呂敷に包み出して・・・。
私と姉は、オロオロした。
でもそれが何回か続くうちに子ども心に
ポーズだけなのだ、と合点するようになった。
母が3歳のときに、母の母は死んだ。
母の父親はあの時代には珍しく菜食主義者で村では変わり者で
とおっていた。家のことは何一つできなかったそうだ。
幸い年の離れた兄1人と姉2人がいて、末っ子の母の面倒をよく見たという。
また、母の家は昔の地主で、小作の息子達が幼児から高等小学校まで遊ぶとき、通学のとき、陰になり日なたになりしてかばってくれた。
長じて、東京に行儀見習いに行き、そこで空襲などを経験している。
東京がひどくなる前に田舎に帰り、介する人がいて、
父と見合い結婚。
母の愛を知らないかわいそうな子どもとして、周囲からちやほやされて
育った末っ子の母が嫁いだ先は、小姑がうじゃうじゃいる大所帯だった。
また、この続きは折りをみて書く。
とにかく、認知症には妄想、幻聴がある場合もあるらしいが
母はそれが特に強い。
認知症と精神疾患とつながりがあるのかどうか
その辺を今度、医者に行ったときによくよく
聞いてみたいと思っている。
2008年5月29日木曜日
初めての外泊
我が家からグループホームに入ったのだから、外泊とは言わないのかもしれない。
グループホームの場合、あくまで現住所は自宅なのだ。
正確には昨年11月に自宅から我が家にきたので、母にとっての自宅は上越だろう。
勝手に連れられた来ただけだから。
田舎から我が家に来るときに、甥が運転してきた。
行かない、とわめき、高速道路を走っている間、あわやドアが開きそうになってヒヤリとした瞬間があった。約6時間、ずーっと、車からおろして、と言い続けていた。
甥は背中から母の言葉を浴びせ続けられていた。我が家についたとき、いや~すさまじかったですね~、と心底疲弊した声をだした。
そんな母だから、ガンコさは百も承知していた。
眠れないと興奮して幻聴がひどくなる。誰かが迎えにくる、となったら荷物をまとめて玄関で待つ。夜中に何度でも外に出て幻聴の相手としゃべる。夜中だから、家に入って待とう、とさとすと、地域のみなさ~ん、聞いてください、大声で何か言い出す。
だから、ホームに入る、と決まったとき、その日までは半信半疑だった。
自宅であった面談にはうまくパスした。
多少、ヘンなところはあっても結構しっかり受け答えができる。
入居の下見にはとうとう連れ出せなかった。私と甥だけが見にいった。
そして、入居日、その日はわりとスムーズに運んだ。
少し前、大好きな息子と孫のいる大阪に行き、そこで、おばあちゃんは多くの老人の中から選ばれて新しい老人マンションに入ることができたんだよ。費用もかからない無料なんだよ。今、通知がきたから入る、と承諾してもいいか、と弟の嫁さんが聞いたらしい。
そばで孫も、すごいね~ おばあちゃんが良いおばあちゃんだから選ばれたんだよ。と持ち上げて。
その洗脳が少し効いていたのか?
入居の日、部屋に入って、自分の名前がドアの前にあるのを確認した。
おばあちゃん、いいタンスだね。おばあちゃんの部屋は新しくていいね、と私が言ったとき、うん、と確かにうなづいたのだ。
しかし、それは本当にわかって、ではなかった。
何で、自分はこんなところに閉じ込められているのか、という思いが日増しに強くなり、職員に対して暴言を吐き、玄関が開くのを待って、隙あらば出ようとするようになった。
ホームでもかかりつけの医師はいるのだが、一度、認知症、あるいは精神科の専門医に診てもらって、とSOSが出され、昨日、医者に連れていった。
母の顔見知りのご近所さんが車を出してくれて迎えに行ったら、荷物を持ってころがるように出てきた。母の頭の中では私のところに1泊して、翌日、上越に貯金を下ろしに行く、というストーリーが出来上がっていたらしい。
だから医者に行って待っている間も、興奮して、こんなところにいられない、早く行こうよ、と繰り返していた。ご近所さんがいてくれなかったら、逃げ出されていただろう。待合室では、母のように数人がかりで来ている人たちが何組かいた。
もっとも興奮しているときに医師が診たのだから都合はよかった。安定剤と睡眠薬をもらい、1週間後に一度きてください。特に、際立っているということは医師がみて、なかったのだろう。認知症だから、しょうがないですね、薬は強いのでサジ加減が大事です、と念を押された。つまり、ふらついたりしたら3回を2回、1回に減らしなさい、とのこと。
その後、食事をしてホームに戻ったのだが、私のところに来るはずだったのに戻されたことが不満で、興奮の度が増していくのがわかった。久しぶりにドライブして刺激も受けたのだろう。もらった薬も昼食後飲ませたのに、効き目がない。
ホームは一人では出られない仕組みなっているが、外から人がくると、母の部屋の前が駐車場になっていて、丸見え。あの人は、今玄関から入ってくる、と素早く察知して、先回りして、玄関が開くのを待っている。それを静止する職員。最近はその頻度が多いという。昨日も見かねて私が外に連れ出した。そしたら、戻らなくなり、お泊りと相成った。
今日もう一度医者に連れて行って、ホームに帰そうと思ったが、爆酔していてどうにもならない。
数日寝てなかったところに、昨日は歩き回ったから疲れたのだろう。
今日も仕事を休んだ。明日はどうしても仕事だから、連れていくつもりだが、うまくいくかどうか、保障の限りではない。
2008年5月27日火曜日
四番目の恐怖
24日の土曜日、雨がまだ止まない夕方、会場に着いたら、広瀬隆さんの講演がちょうどはじまるところだった。
満員とはいかなかったがそれなりに席は埋まっていた。
主催は「核開発に反対する会」、第9回目の講演会だった。たぶん、私は2回ぐらいしか出ていない。
広瀬さんの講演タイトルは「新潟県中越沖地震についての記録と、六ヶ所村再処理工場の危険性」について。
今、若い人たちの間でロッカショが焦点になっている、と言っても過言ではないほど、六ヶ所村の再処理工場のことが話題になっている。
六ヶ所村の再処理工場建設の時から、いや、建設前からその危険性を訴えてきた広瀬隆さん。
私の手元にデイズジャパン創刊号がある。
これは今出版されているフォトジャーナリズム月刊誌のデイズジャパンではなく、講談社から出ていた写真月刊雑誌のデイズジャパン。
この雑誌のことは広河隆一さんが今のデイズジャパン発刊のときに触れている。
とにかく講談社のデイズジャパンはあることがきっかけで廃刊になった。
毎号買っていたわけではないが、創刊号に「四番目の恐怖」と題して、六ヶ所村のことが出ている。創刊号の表紙は故ダイアナさんとチャールズ皇太子。1988年4月の発行。チェルノブイリから2年目の春だ。
この本が出たころ、まだ私はそんなにチェルノブイリに関心があったわけではない。
半年ぐらい前から集会、勉強にボチボチ通いだしたばかりのころ。この本のことは誰か知人から聞いて買ったのだと思う。
創刊号が発売された直後に、日比谷公園で原発止めよう2万人行動が故高木仁三郎さんらの呼びかけであり、地域の人たちと一緒に参加した。全国から集まった多くの市民で公園は埋め尽くされた。
この後、地域でネットワークができ活動していくことになるのだが、同時に、全国で草の根的に広がった反原発運動は深く静かに深更した、と思ったが、一方、ゴミ問題やそのほかの環境問題に関心が移る人も出て、表面的にはあまり広がらなくなってしまった。
しかし、いったん知ってしまったことを知らないことにはできない。
それぞれ関わることは違うようになっても、核の恐ろしさを知っていく人たちは、確実に増えていたと思う。
また、原発や核関連施設が目の前にある人たち、あるいはこれから最終処分場となるかもしれない、という恐れのある地域の人たちは他の問題に目を向けることはできない。
仕事のつながりで反対運動を直接できない人も、地元にいたらいつ事故が起きるか、核の恐怖を持ち続けながらの生活を余儀なくされている。
チェルノブイリ、スリーマイル島、ウィンズケール、そして青森をつなぐ運命「四番目の恐怖」。
調査・文 広瀬隆 + 取材・写真 広河隆一
カラー写真と図を見開きに配置した32ページにおよぶこの特集は、私たちに衝撃を与えた。雑誌から抜き刷りにした小冊子も広まった。単行本にもなり文庫本にもなった。もうとっくにどちらも廃刊になっていると思うが。
図解入りの再処理工場10の危険性を本から書き出してみると
1、輸送事故 2、プール破壊 3、化学爆発 4、処理後の排水
5、ガス放出 6、放射能漏れ 7、核爆発 8、冷却不能
9、ガラス破壊 10、地下水汚染
しかし、重大なことがここには書かれていない。
地震のことが、この当時はまだあまり問題にされていなかったのだ。
「原発震災」という言葉がささやかれる昨今、土曜日の広瀬さんの講演も昨年の新潟県中越沖地震についての話から始まった。
専門家の間では断層が早くから問題視されていたが、東電や国は根拠もなく死断層と決めつけていた。
阪神大震災発生の直前、94年12月に三陸はるか沖地震あり、翌年の3月、雪解けと共に、道路に亀裂が走っているのが露見。大きな亀裂の先は、まさに高レベル放射性廃棄物貯蔵庫(まだ着工前)につながる、と広瀬さんの資料に。この再処理施設直下に断層があるのを隠していた日本原燃サービスの内部資料が外に出て、地元新聞1面に書かれたのが1988年10月。デイズジャパン創刊の秋のことになる。
そして、広瀬さんの講演を聞いた翌日曜日、
「再処理工場直下に活断層か 青森県六ケ所村」という大きな見出しが各誌に掲載された。
青森の地元紙はもちろんだが京都新聞などもトップの扱いだったとか。さっそくにPDFにしてくれた仲間がいた。
http://www.greenaction-japan.org/newspaper/080525_kyoto.pdf
チェルノブイリの教訓を無にしないために、事故の起きる前に再処理施設を止めたい。
最近は止めるより、止まるのではないか、と思えてきたと、いつもの悲観的な広瀬さんらしからぬ楽観的な見通しで締めくくった。
そうだったらうれしいが。
2008年5月24日土曜日
我が家のおコメ
半年雪の下に埋まった田んぼからできたおコメはみずみずしく白くツヤがある。
我が家は原則として自分の家で家庭用精米機を使って7分づきにして食べているので白米ではない。
同級生の縁でお米をふるさとから取り寄せている。
厳密には魚沼地方ではないのだが、魚沼コシヒカリという銘柄。
もう1つ取り寄せているのは宮城県角田のおコメだ。
銘柄はひとめぼれ。
こちらは障害者も店番をしている「よろづや」を通しての共同購入。
有機肥料を使い、極力農薬を排したおコメ作りをはじめて30年、趣味は百姓、
職業は農業の0さんのもの。
色の白さ、ツヤは我が新潟米に負ける。
でも、味わいがある。噛めば噛むほど味がある。
その0さんが発行している田んぼ通信を読んで驚いた。
http://www.omokawa.com/text/index.html
東京の米卸しに米の在庫がないというのだ。
昨年秋、生産過剰を口実に生産コスト無視の米価の暴落。現在、日本国には、
コメが有り余っているはず。それが、コメがない???
うそだべ~~~~。とOさん。
天下国家のことは、誰しも口にしても責任をとらない世の中。日本国の食糧問題を心配してもしょうがないことです、とも。
そんなことをお百姓さんに言わせてよいのか?
消費者として何ができるか。
私のおコメを食べていただける人に、間違いなくおコメを届け続けること。
それが最大の責任で仕事だ、というOさんに、ただ、食べ続ける、という答えだけでよいのか?
今の倍食べます、とも言えないし・・・
2008年5月22日木曜日
究極の廃墟「プリピャチ」
チェルノブイリの写真は広河隆一さんは言うまでもなく、日本の著名なフォトジャーナリストたちがそれぞれに写真を撮っている。また、学者、研究者、医師など専門家も多数チェルノブイリを訪れている。
中筋純? 聞いたこともない人だった。
それもそのはず、アパレル広告を生業にしている写真家だった。写真ももともとやっていた人ではなく、旅行誌編集などを経て独自に学んだということだ。
今、廃墟ブームとか。少し前、人気俳優の福山雅治さんが廃墟を写した写真展のことでテレビに出ていた。
中筋さんも「全国津々浦々の廃墟を探して写真を撮っているうちに深みにはまった」そうだ。そして究極の廃墟ではないか、と思い至ったのがチェルノブイリであり、その原発城下町のプリピャチだったのだ。
「晩秋に訪れたウクライナはりんごの実がたわわに実り、ポプラの木が鮮やかな黄に染まっていた」と書いている。
そういえば、広河さんの今年のカレンダー(10月)にも、まっ黄色な落ち葉の間を歩く男性と犬の写真がある。
http://homepage2.nifty.com/chernobyl_children/calendar/calendar2008.html
廃屋を みごとに彩る 木々の紅葉
一人の男と 一匹の犬が
金色にかがやく道を しずかに あるいていく
(詩 石川逸子)
そういう世界なのだ。
「帰国後、廃墟とともに木々の鮮やかな色が印画紙上に浮かび上がった瞬間、心の震えがよみがえり、多くの人に見せなければ、との思いを強くした」
写真集は『廃墟チェルノブイリ』(二見書房)として出版されている。
何をきっかけでもよい。チェルノブイリのことを核の恐ろしさを知ってもらうのはうれしい。
しかし気になることが書いてあった。
それは、プリピャチに1週間も滞在した、ということ。
現地のガイドからは「これほど長く滞在したのはあなたが初めて」と言われた、と。
「ぜひ、再訪したい」と文章を結んでいたが、ぜひ、短い日程にしてほしいと願っている。
2008年5月20日火曜日
食器と貴金属
お連れ合いがなくなり、処分に困っているところに、バザーのチラシが入った。昨年の募金高や寄付先が明記してある。少しでも役に立つなら。自宅も片付くし、一石二鳥と思ったのではないか?
提供したい、見に来てほしいと連絡があった。
仲間2人がその方の自宅に行き、3時間ほど費やして品物をよりわけ、運んだ。
何でも、亡くなった方は料理の得意な方で、好きで集めた食器がたくさん。しかも桐の箱に入ったままのものなど、かなり高価そうな食器群だった。「そうな」と書いたのは私自身はブランドものや名器を見る目をまったくもちあわせていないからだ。
洋服類は当節あまり売れない。安ければ売れるが高くてはだめだ。一番提供されるのは洋服なので山と届いた洋服をさばくためには、100円が主流になっている。
そこへいくと、食器はサイズもないし、どこの家でも使うものだから、いいものなら少々高くても売れる。
毎日使っていると飽きるから、この際にと、バザーで買って自分の家のはバザーに出す、というふうにうまくリサイクルしている人もいる。
実は私自身そうしたいと思っているが、出すのをより分けて、きれいに洗っておく、ということができない。それなのに毎回いくつか買って増える一方だ。次回こそ、きちんと出したいと願っているが。
そうそう、もう一つ、宝石類もあった。宝石と言っても何百万円もするものではないが、1万円の指輪が2つも売れた。
やはり、亡くなられた母親のものを出してくれた人がいたためだ。
バザーで1万円というのは貴金属をおいてない。1万円と値段をつけるにあたっては鑑定もしてもらった。元の値段は10倍~20倍のものだ。
食器を出された方はバザー会場にも見えられた。どんなふうに売られているのか、気になったのだろう。提供してくれたお礼を言ったら、いや、こちらこそ片付けてもらって助かりました、とお礼を言われた。ついでに、「何かほしいものはありませんか? 男性の品物もありますよ」との言葉に苦笑いしながら早々に帰られた。
オールドタウン化した我が街は、これからこんな事情が増えるのだろうか?
売る側の高齢化と相まって、提供品が増えても対応がどこまでできるか?
だんだん不透明なこの先である。
2008年5月18日日曜日
大にぎわいのチェルノブイリ救援バザー
9時には我が家に娘と都下からかけつけたSさんが現れ、仲間と共に運び出した。
リヤカーを借りるときもあるが、きのうは車を出してくれる人がいたのでそれで足りた。 集会所まで7、8分。
ここは約3300世帯の人が入っている集合住宅が立ち並ぶニュータウン。
3階建てから20階建てまであり、それぞれの街区に管理センターがあり、
集会所がある。
娘が生まれて3か月のときに入居したので26年経った。
学校に行っている間は娘の年も数えやすいのでわかりやすかったが学校を出て数年経つと、
え~と何歳だったかな、としばし時間がかかるようになった。
私たちが入居したのは第1期ではないので、すでに28年ぐらい経ったニュータウン、いやオールドタウンと呼ぶべきか。月日の経つのはほんとに早い。
98年に、集めたものを売ってチェルノブイリへの募金にしようと、リサイクルグループ“カリーナ”を始めたとき、本屋の一角を借りてスタートした。
その後、自宅を開放して何回か行なった。
最近借りているのは、もっとも新しい街区で当初、1階が喫茶店になっていた
スペース。 世帯は多くとも自分の部屋の下の喫茶店にコーヒー代を払って入る人はそうそういない。
ショッピング通りでもないし駅前でもないし、外から来る人もあまりなかった。ほどなく閉店になった。
住んでいる人たちの所有しているスペースだから、やたらと外の人が使うのは難しいらしく集会所になっている。でも、本来の集会所もあり、あまり使われていない。
仲間の1人がその棟の住民だから借りることができる。
ともあれ、私たちにとっては絶好の場所だ。
11時オープン前にお客さんがずらっと並んだ。
前回は11月の寒いときで並んで待っていただくのは気がひけたが、きのうは待っている間、ガラス戸を通して品定めをしているのが伝わってきた。
こちらはたくさんの荷物を前に時間切れで値段の準備ができなかった品物の値付けに忙しい。1分でもほしいところ。
しかし時間がきてしまった。後は衣類の100円コーナー、雑貨50円コーナー、無料コーナーも作ってオープン。
次は熱気の様子を書きたい。
2008年5月17日土曜日
母の認知症、友だちの場合
おしゃべりをしながら文字通り品定めをする、なかなか楽しい作業だ。
お姑さんの介護のため都下に越した友人はみんなと会うのが久しぶりとあって話がはずむ。
と言っても楽しい話ばかりではない。私のところより深刻だ。お姑さんはうちと同じくグループホームに入居できて喜んでいたのだが。
私の母よりしっかりしていたのだが、家を離れたことにより、認知症が一気に進んでしまったようだ。
何度も脱走をして、そのたびに電話がホームからかかってくるようになった。
母の場合、認知症専門のグループホームだが、友人の場合はそうでなかった。開放型のグループホームでドアの開閉は自由だとか。それが特徴でもあるらしい。
しかしたびたび脱走するのでは・・・
新しいホームを探さなくては、と友人は言っていた。
居場所が変わるたびに認知症は進むと言われているので良し悪しでもある。
たまたまテレビで認知症のことをとりあげていた。ご近所さんの底力によって、助け合おうというのだった。確かにご近所の人たちに愚痴を聞いてもらい、相槌を打ってもらうだけでも気が晴れる。
私はとっくに実践しているが、なかなか簡単にそうはできない人が多いと思う。
友人もまだ引っ越していったばかりだから愚痴をいうご近所さんがいない。
木曜日はたくさんしゃべって気分が軽くなったと帰って行った。
ところで、私の母は認知症歴が長いので、悪いのは悪いがそう目立った変化は起きない、と、友人のところと比べては悪いがほっとしていた。と思いきや、電話がホームからあった。来た! と内心どきどき。
しかし、認知症専門のグループホームだけのことはある。すぐに来てほしい、とは言わない。が、かなりてこずったから電話をかけてきたのだ。ホームの2,3階は介護型の老人マンションになっていて50世帯分の部屋があり、常駐の医師がいるらしい。その医師がとりあえず、見てくれたが、近いうちに専門医に行くことをホームと約束した。
2008年5月15日木曜日
チェルノブイリ救援バザー
ウクライナのチェルノブイリ被災者でもある少年少女合唱団「チェルボナ・カリーナ」にあやかって名前をつけた。
カリーナというのは植物の名前でチェルボナは赤いという意味。赤いカリーナの実は心身を癒す実として、昔からジャムやジュースにしてウクライナでは食されてきた。
チェルノブイリ事故により心身共に傷を負った少年少女たち。少しでも回復して健康な日々を過ごしてほしい、という願いを込めた、と合唱団を作った指導者の先生は言われていた。
日本には1996年4月に来日して以来、何回も全国で公演を行なっている。
埼玉でも98年、99年、2001年と公演を重ねた。
先日「徹子の部屋」に出演して一躍全国的に有名になった、ナターシャ・グジーもそのチェルボナ・カリーナの一員だった。
特に98年の来日時は埼玉の実行委員会がナターシャの出演を強く希望して、最初のメンバーに入っていなかったナターシャを加えてもらった、といういきさつがある。
それが今、歌手として堂々と活躍している現在につながっているねと、ときどき埼玉の仲間の間ではそのときのことが話題に上る。
話しがそれたが、我がグループ“カリーナ”は98年4月のチェルボナ カリーナ・コンサートに合わせるように、98年1月にリサイクルショップを開店。
ショップと言っても小さな本屋さんの一角を借りてのスタート。
数人で当番を決めて詰めた。
しかし、そもそも店にお客さんがこなくて、書店を閉めようかというところに借りたのだ。
お客さんはあまりこなかった。こないのでは売りようがない。
数か月でお店は撤退。で、自宅を拠点として、年に何回かのバザーを行なって救援金を生み出すことに変更。
今年のバザーはあさって土曜日。今日の午前は1回目の準備の日だった。
実は今年、メンバーの1人が引越し、我がグループは最大のピンチを迎えた。ごたぶんにもれず高齢化が進んでいるグループの中にあって一番若いSさんの引越しは痛かった。彼女の都合がつかなかったらバザーは中止か、と覚悟もした。
しかし、なんとか今年は都合をつけてくれた。今日の準備にも遠くから参加。
おしゃべりをしながらの整理・値段付けは楽しい。
この続きはあした。
2008年5月14日水曜日
みえない雲の感想は重い
今回チェルノブイリ子ども基金では初めて映画上映に取り組んだのだが、上映後のアンケートにはかつてない率の回答数があった。老若男女を問わず広範囲にわたっていた。
今までにない違う層の人たちにチェルノブイリのことが、原発の恐ろしさが、確実に伝わったのではないかと感じている。
映画についての感想。
池田さんのお話しについての感想。
チェルノブイリ子ども基金への感想。
全文を子ども基金のホームページにアップした。
http://homepage2.nifty.com/chernobyl_children/index.html
1986年4月26日生まれの男性からの感想もあった。
また、もっと近くで上映してくれたら友達も誘えたのに、とか
NHKで放送してほしいなんていうのもあった。
全面的にサポートするからあちこちで取り組んでくれないかな~
こんなに好評だったのだから、自信をもって薦めたい。
ところで、イベントの事務処理もほぼ終わり、連休も終わり、事務局は落ち着いてきた。
ボランティアの手を借りて、事務局内の片づけをした。
4月のイベントでも今年のカレンダー、まだ4か月しか経ってません!
と格安にして販売した。
そのカレンダーの過去の分の整理をした。
チェルノブイリ事故10年目の1996年から子ども基金ではカレンダーを作っている。
2年ほど、被害者の子どもたちの絵を使った以外は、フォト・ジャーナリストで子ども基金の設立者の広河隆一さんの写真で構成されている。
今年は広河さんの写真の横に石川逸子さんのオリジナルの詩がついている。
だからからか、いつもの年にまして売れ行きがよかった。
それでも印刷物というのはちょうど売れる、ということはまずない。
残っているものをいかにして売るか、あるいは整理して片付けるか、頭を悩ますところである。
過去のカレンダーのうち、完売したのが最初に出た1996年版。
完璧なのは1部しかない。
数部あるのは途中で切れていたり、汚れていたり、書き込みがあったり。
何と事務局で日々書き込んでいたカレンダーも出てきた。
ボランティアの人が来る日、来客のある日、ニュースの印刷の日、など目いっぱいに書き込んである。今も同じように使っているのだが、96年は救援活動も最高潮にさしかかっているころで今よりずっと書き込みが多い。
なつかしかったが全部に目を通すヒマはないから、また、ビニールをかぶせて奥にしまった。
今度日の目を見るのはいつだろう?
2008年5月12日月曜日
母の日
土曜日は4月のチェルノブイリイベントの最後の実行委員会と打ち上げがあった。
(雨の中、何人かの人たちが参加してくれた。これはまた後で書きたい)
それで日曜になっただけである。
でもせっかく母の日なんだからとカーネーションを買って、姉が母にと送ってきた洋服を持って、でかけた。今、都内で暮らしている娘も後からくる、と連絡があった。
母と一緒に部屋でお昼を食べようかと思ってあらかじめ電話をした。
「はいはい、お部屋に運んでおきますね」、とスタッフの方は言われたのだが着いたらすでに食べていた。
「すみません、12時少し前に食べ始めるので」
ちっともかまわない。
どこもそうらしいが、グループホームは9人が1つのグループになっている。
反対側のフロアにもう1グループあり、合計18人が入っているが9人ずつそれぞれ一緒のテーブルで食事をする。
気をちらしても悪いので食事中の母には声をかけずにソファーに座ってテレビを見ていた。
機嫌が悪いとき、黙って母の部屋に入ると、怒る。
ふとんの中に大事なバッグが隠してある。お金を取られる、と思っている。
で、部屋に先に入らずに食事が終るのを待った。
母は耳が遠いので私がスタッフとあいさつをしていても気がつかない。
ほかの入居者は気がついた人もいたが、あまり興味をを示すわけでもなく、みんなは黙々と食べていた。
母の日だから今日は訪問者が多いかとおもいきや、意外と誰もいない。食事どきという時間のせいかもしれない。ソファーに座って、大画面でNHKのど自慢を見ていた。
食事が終わりトイレに行ってきたのを見てから、私はやっと声をかけた。
おだやかな顔だった。この前行ったとき、いきなり**ちゃんをいじめないでね、と私に怖い顔でにらみつけた。いじめてないよと私。この会話は何度したことだろう?
一番大事な孫のことを常に気にかけている。いじめないで、と言って、さらに私が持っていった、初夏用の着替えを見て、こんなに洋服を持ってきてどうするの? となじった。ここにいつまでもいられないでしょう? とも。
その日、私はそうそうに帰った。
でも、きょうは、洋服をタンスにしまっておくね、と言っても嫌がらなかった。
大体食事はよく食べるほうだが、今日はおかずをたくさん残していた。
私が持っていった、ミニトマトは部屋に戻ってから食べたのだが、口をゆすいでいたと思ったらすぐベッドに入った。
そうか、今日は眠たいモードなのだ。
娘もカーネーションが入った小さな花束を買ってきた。娘が声をかけたら、ちょっと嬉しそうにして花も認めたようだった。花を娘と飾っているうちに母はもういびきをかいて眠ってしまった。
新潟の自分の家にいるとき、ディーサービスに行かない日は、共稼ぎの妹夫婦は留守で1人で寝ていた。認知症が進んでからは、1人で外に出られないように戸締りされていたので寝るしかないとも言えた。
その結果、昼間寝て、夜は眠れないというパターンに陥ったりしていた。
我が家に来ても同じだった。昼間散歩に誘ってもほとんど出かけるのを嫌がってベッドにいるときが多かった。
ホームだったらある程度、リズムのある生活になるかも、と思ったがそう変わらない生活のようだ。何しろガンコだし、子どもではないのでしょうがないのかな。
100日も眠ってないんだよ、という数日とよく眠る数日と交互に繰り返しながらの日々は続くのだろう。
2008年5月8日木曜日
脚本家と認知症の母
荒唐無稽という言葉は私が言っているのではない。チラシに書いてあったのだ。
たとえば、老婆に拳銃で打たれた人々が生き返るシーンがあった。
これってうちの母が常に言っていることと同じ?
母は昔のことはともかく最近になって死んだ人のことはよくわからない。
だれだれの母親が死んだ、とか、親戚のだれだれが死んだとか、話して聞かせて、わかったのかなと思っていても、あの人は生き返ったんだって、だれだれのお母さんも生き返ったんだって、近ごろ、生き返るのが流行っているみたいだよ、とあっけらかんと言う。
母が一番愛している末っ子の息子(つまり私の弟)の子どものことを、おうおうにして、たった一人の孫、などと言う。
私たち姉妹3人にはそれぞれ子どもがいる。うちの2人の子どもを含めた母の5人の孫は全部母と姓が違う。弟の家族だけが母と同じ姓だ。だからたった一人の孫、というのもまったく間違いとも言えない。
そのかわいい孫がいじめられる、誰か助けて~ と時々夢か妄想かによって叫ぶ。
孫を心配するあまりこんな表現も使う。
***に川に沈められて3日3晩何も食べさせられていない。足をポキポキ折られているんだよ。
そうそう簡単にカニではあるまいし、足をポキポキ折られるわけがないだろう!
芝居の荒唐無稽の場面はたいがい夢か現か、といった設定だ。
脚本家の頭の構造と認知症の母と似通っている点があるのでは?
芝居を見ながらぼんやり思っていた。
実際、母の世話をしばらくみた私の連れは、すごいな、おばあちゃんの話は本になるね、とよく言っていた。妄想によって、独り言が続くとき、もうその話しは聞いたから今度は違う話をして、とリクエストをしたりしていた。
もちろん母はその意味は理解していない。
2008年5月6日火曜日
ご近所さん
今日は遠出する予定がなかったので、ゆっくりとした朝を迎えるはずだった。
がご近所から「お茶しない?」と連絡があった。
じゃ、何分後にと伝え、その時間に降りた。
我が家は3軒長屋だ。いや、落語に出てくるような横並びの長屋ではない。
集合住宅なのだが、縦の3軒長屋なのだ。そう呼んでいるだけだが。
我が家は4階、その真下の3階、さらにその真下の2階同士、まるで長屋のように自由に行き来している。
私が一番忙しくしているので家に居そう、となると、すぐに声がかかる。
あるいは我が家に押しかけてくる。
正直、たまに家にいるときは用もたまっており、お茶どころではないときもあるのだが、私が愚痴を聞いてもらいたいときは自分の都合で声をかけるからお互いさまだ。
母が居る間も、何かとお世話になった。遠い親戚よりご近所さんである。
今朝も久しぶり(数日ぶりだが)に元気を確認し合い、どうでもよい話をして心を和ませて4階に戻ってきた。 ややあって、ピンポーン。
玄関に出て見ると「家で携帯が鳴ってましたよ~」と2階の人が携帯を持ってきてくれた。
これだからな~、と夫がアホな現場を見て、うれしそうになじった。
どっちが母に近いかあるいは母を超えているか、しばしば論争になる。
ところで、長屋ほどの付き合いではないがほかにもご近所さんはいる。
今日はご近所の1人が芝居の楽日ということで、見に行ってきた。
彼女が芝居を始めたのはたしか10年ぐらい前。
初舞台は一緒に活動していた市民グループのメンバー全員で見に行った。
芝居には詳しくないが、前衛芝居とでもいうのだろうか。ドタバタ喜劇というのだろうか、ちょっと驚いたが私はきらいではなかった。
しかし、その後、みんなでは行ってない。1人でも行ってない。
今年はうまい具合に行けそうだったから最初から行く予定にしていた。
でも結局最終日になった。満員だった。
作・北村想 演出・流山児祥 楽塾公演<奇想天外の「叙情歌に彩られた」SFファンタジー歌劇?!>と銘打ってある。
楽塾のための書き下ろし作品だとのこと。そう言えば、初舞台は男性が2,3人いたが今日は流山児祥以外は男はいなかった。落ちこぼれたのか?
私のご近所さんは前科何犯の老女役。
髪を逆立て不貞腐れた演技が際立っていた。
似合う。
劇中、老人の犯罪について触れていた。若者の犯罪が多いとメディアでは報じられるが実は老人の犯罪はここ数年で7倍だとか!
老人人口は2倍増だそうだから人口増加のせいではない。
しかし、どこも老人の犯罪については触れない。
知られないようにひっそりと報告書に載っているだけだ。
舞台は、ゴジラ、オキナワ、ヒロシマ、戦争、夢、5次元など夢かうつつかわけのわからない世界が繰り広げられた。
10年前、突然、演劇をやろうと思う、と聞かされたときみんな一様に驚いた。
え? 今から?
もうとっくに40歳を超えていた。
何でも主宰者の流山児祥さんは劇団員募集の要項に40歳以上という条件をつけたらしい。
彼女が言うには、若い団員ばかりだといろいろ言葉や思いが伝わらないことも多くてくたびれる。
本業のプロの芝居のほかに言葉が通じ合う人を集めて芝居もやってみたかったみたいよ、と。
どこまで本当かどうかわからないが年齢制限があったことは事実。
そのうち楽器もやりだし、アマながら本格的な芝居へと技を磨いていたのだった。
今日、演技を見て、歌を聞いて、それがわかった。
いま劇団員の平均年齢は56歳とか。楽塾では今年久しぶりに新人を募集する、とチラシに書いてあった。
応募資格はただ一つ。年齢45歳以上。
応募してみようかな? いやいやそれはない。
2008年5月4日日曜日
年金未受取人
年金未払いに対して、もらうべき年金がもらえてない人はなんと呼ぶのだろう?
新聞などでなんと書いてあるのかわからないが友人はつまりいまだに受け取っていない。
今年、74歳ぐらいの人だ。とっくに受け取るべき年齢に達している。
若いときは知らないが、私が知り合ったとき塾講師などをして生計をたてていたから安定していたとは言えない。それでも本人は受け取るだけの期間は払っていたという。
それが払っている期間が足りない、と言われた。足りない分を払うと言ったが期間が足りない人は払うこともできないという(もう一人自営の友人が同じようなことを言っていた)。
払ったと思う、と言ったら、では、領収書などを出せという。独り者で引越しを繰り返していたのでなかった。普通は何十年も前の領収書などとってない。
この話しを聞いたのは今の未払い問題が起きるずっと前のことだ。
これだけ騒がれているのだからもう片付いたか? と思っていた。
とんでもない。問題が大きくなってからも申し立てをしたがナシのつぶてだという。
今、あまり体調がよくないのでどこに訴えたら有効か、よく調べてしかるべきときにまた行く、とのこと。
わざわざ行かなくとも手紙を出したら?と言ったら、担当者の目の前に手紙を持っていったのよ!!
それなのに、と。
私の母は85歳で福祉年金というのをもらっている。
何歳以上か知らないが、70歳代の人はこの福祉制度からはずれているらしい。友人は働いていたから本来はもらえるべき人だが、この年代の人たちは無年金の人がかなりいるようだ。
そして、この年代の人たち以上で年金をもらっている人は60代の人に比べたらかなりの額を年金として受け取っている。
何十もの格差社会だ。
別れるときの友人の背は丸くなっていた。
足も痛くお腹も持病を抱えている。
年金は間に合うのだろうか・・・・・・。
2008年5月1日木曜日
ひ孫、孫、娘2人、母
姉は太っている、孫は4歳で細くて小さくてかわいらしい。
ちょうど娘もそろそろご機嫌伺いに行こうかなと思って午前中休みをとっていたという。
フリーターの娘は気楽なものだ。
この前母は、ここは出してくれないんだよ、と訴えていたから、お昼をみんなで外で食べることにした。
ホームには外泊も外でのお昼もあらかじめ伝えておけばOK。
母が我が家にいるとき、私以上に面倒を見てくれた夫は顔を見に行こうとしない。
どこで仕入れた知識かしらないが、あまり会いに行かないほうが本人のためだという。外でお昼など、とんでもないと。
一足先に行っていた娘が話しをつけていて、外で私たちは待ち合わせた。
街中(まちなか)ではないのでお店は少ない。グループホームから歩いて5分ぐらいのところにあるファミレスに入った。8時ごろの新幹線に乗ってきた姉達もすでに着いていた。
母は、たらこスパゲッティとサラダとそこそこ食べた。約半分は娘が食べた。なんてったって昔の人なのでご飯が一番好きだが、肉類や油っぽいものが好きでないのでごはんに合うようなおかずはファミレスでは選べない。それでスパゲッティになったらしい。
ホームでも朝、パンのときがある。パンだった後に行くと、ここはずっとパンなんだよ。ご飯が出ない、と訴える。
スパゲッティを食べた後、姉が持ってきた笹団子、テーブルの下で皮をそっとむいて出したら、ぺろっと食べた。
姉の孫(ひ孫!)のことはかわいい、と思っているみたいだ。娘のこともわりとおとなしく言うがままにうなずいている。私とは・・・ 元気? とあいさつしたとき、ぶすっとしていた。娘がそれを見て、ちょっと不満そうだねと。うん、不満なんだよね、と私。
でも今日はおとなしい。あまり反論はしない。娘がいろいろ聞かなければ耳も遠いので話しに加わることもない。
私達はいろいろおしゃべりをして、満足してレストランを出た。
そのまま母は素直に歩いてグループホームに無事戻った。
なんだかあっけなかった。これなら遠出もできるかもしれない。
ま、波があるから、いつがおとなしい日でいつが興奮する日か、というのは直前までわからないが。
みえない雲は「映画」だったね
これだったら、映画館で見ればよかった。音響が違うでしょう? とも。
よい映画だった。衝撃を受けた、映像のすばらしさに感動した、とアンケートを書いたほとんどの人が礼賛していた。何人かは、思ったより、とか、ドキュメントではなかったね、とか、書いていた。後日メールで感想がきたり、手紙が届いたり、映画の評判は想像以上によい。
池田さんは、主人公ハンナ役のパウラがチェルノブイリ原発事故の年に生まれていること、パウラ自身が障がいを持って生まれたこと、そのハンディを感じさせない俳優であることなどを話された。
また、ピカソのゲルニカがうつる映画の中の場面についても触れ、おかげでゲルニカを見逃さずにすんだ、とアンケートには感謝の声もあった。
もう少し後になるが、子ども基金のホームページにこれらのアンケート、できるだけ掲載したいと思う。
ほんとに何でヒットしなかったのだろう。
原発、という言葉だけで敬遠されてしまったのだろうか。
原発の反対につながるような映画は国策に反するから、マスコミの取り上げ方も鈍かった?
今からでも遅くない、多くの人たちにこの映画と出会ってほしい。
「もっといろんなところで上映してください」
「(私の住まいの)近くでやってください。そうしたら友達も誘えるから」
などとアンケートに。
応えられるものなら応えたいんですけどね~
2008年4月30日水曜日
残務整理
締め切りがあるようなないようなものだから急ぐわけではないが狭い事務局、片付けないと何かと動きにくい。
今回のイベントの中で一番頭を悩ませたのは写真の移動だった。
タクシーを使い、なんとか移動ができた。以前は会場側で、前日着の荷物を引き受けてくれたものだた、当節どの会場も引き受けない。その日、借りた時間内しかダメ、というわけだ。
あまりにも利用者のことを考えてないと思うが、嫌だったら使わなくてもいいですよ、ということになる。
何しろめぼしい会場はすぐに埋まる。小さな市民団体としてはとても1年先、2年先までの予定などたてられない。そうすると借りられる会場もおのずと限られる。
今年、交通の便のよい、シビックホールを借りられたのは運がよかった・・・・・・。
写真展会場のレイアウトを少し奥行きのあるようにと考えた結果、展示壁面が当初の予定より増えてしまい、急きょ、追加の写真を借りることになり、展示初日に走った。何とか借りることができた。ボランティアと2人で電車で運んだが重かった。その写真が入っていた箱がボロボロだったので、ボランティアのTさんがダンボールを探してきてうまい具合に作ってくれた。
24日の上映会のあと、たくさんの荷物・・・写真、本・CDなどの残りを事務局に持ち帰ったがタクシー1台に詰め込んだ。前日もそうだった。
タクシー3台ぐらい呼ぶのかと思った、と、一緒にいた友達はあきれていた。やろうと思えば何でもできるんだね、とも言っていた。
そういうわけ。
お金を出せばなんでもできる時代ではあるが、お金で買えない、知恵と工夫でいろいろできたときの、達成感は格別。
まだ細かな残務整理は残っているが、大物は片付いた。
2008年4月28日月曜日
母の家
一緒に行った近所のOさんとAさんのこと、すぐにはわからなかったようだが、ややあって笑顔を見せた。
でも、こんな所にはいつまでもいられないんだよ、と。
Aさんがじゃ、どこへ行きたいの?
とたずねたら黙った。
すぐ反論するときはハイのときだが、今日はそうでなかった。
2人は15分ぐらいで帰り、私はそのあと1時間ぐらいいた。
しかし、もともと母と子の会話がある間柄ではない。
子どものころはともかく、大人になってからは4人の姉妹弟とも母との会話は多い家族ではない。だから今さら2人であれやこれや話すことがない。
そばでテレビを見たり、本を読んだりしていた。そのうち、母は横になり眠ったようだったので洗面所に立った。 帰ったのか? という母の声が聞こえた。敏感に感じ取っている。
母のところから戻って違う近所の人と出かけた。
彼女は両親を数年前に相次いで看取り、昨年、夫さんも亡くした。
両親はそんなにひどくはないが認知症だったという。夫さんは70ちょうどだったが、5年ぐらい病気がちだったせいかやはり認知症が出ていたという。
彼女が言うには、どの人も、たいがい最後は自分が「生まれ育った家」に帰りたい、と思うらしいよ、と。
母も確かにそうだ。私たちが生まれ育った家、つまり嫁いだ家の話しはあまりしない。すでに跡形もないのだが実家の話しがよく出る。私がまだ4,5歳のころ、その家はあった。かすかに覚えている。ヤギの乳を飲まされたのが嫌だった。ヤギの乳は臭い。母が帰りたい家はあそこなんだろうな~。
近所の人たちと意見交換できることで、一人で悩まなくてすむことがありがたい。
そう言えば25日は母の誕生日だった。超田舎に育った私たちは誕生日祝いなど家族でし合ったこともなく今年も忘れた。
あとからになるが何か考えようかな。
2008年4月26日土曜日
4・26 原発・再処理とめて地球を救おう! 集会&パレードに参加
まず、子ども基金主催の救援イベント。これが第一。
次が首都圏の市民団体共催で4・26前後に行なう「原発止めよう」集会&パレード。
今年は六ヶ所村の再処理工場の本格稼動を目前に控えているため、タイトルに掲げたような大そうな集会名だった。
原発関連の勉強会や集会は数々あれど、なかなか参加は難しくほとんどパス。
しかし、春のこの催しと秋に行なう原子力の日に対抗した反原子力行動だけはなんとか参加している。
昨年よりは参加者は多いようだった。約100人近く?
いつも必ず付いている私服が見えない。もう、このパレードには付く必要がない、とみなされたのか。聖火リレーのためそれどころではないのか。・・・・誰もつかないというのもまた寂しい。
パレードは、目立つ横断幕や立看板があり、人目をひいたと思う。私も何かないかと押入れを探したら何と、昔子どもが小さかったころ、近所の子どもたちと描いた布がみつかった。魚やカニの絵などがかわいらしく描いてある。19年前ぐらいの作品? 【原発を止めて】【柏崎の海を汚さないで】との文字も描いてある。
千駄ヶ谷の会場に飾っておいたら、柏崎の近くに住んでいるOさんが来ていて、貸してと持っていった。彼女は集会後すぐに帰ったので残念ながらパレードにはその布(今ならバナーと呼ぶ)は参加できなかったが柏崎で使われるなら布も本望だろう。
そういえば、核燃輸送に反対して、早朝連絡があったら輸送車が通る陸橋に集まり、車に向かってアピールするために作ったのだった。何回かその役目を果たしたが、その後すっかり忘れていた。
今も、核燃輸送車は私たちのまわりを通っているはずだ。一般車に紛れて何事もないように走っている。
明日は久しぶりに母のところへ行く予定。
近所の人が一緒に行ってみたいという。
みんなで行けば怖くない・・・。
2008年4月25日金曜日
チェルノブイリ22周年救援イベント盛況!+シビック
結果的には無事に、ということだが、またもやいろいろ忘れ物があり冷や汗ものだった。
何度イベントを重ねても、慣れることがない。
しかし、映画のフィルムが届いたこと、ゲストの池田さんが無事到着されたこと、あとは、ま、大したことはないのかもしれない。
直前までビラまきをしようと、お昼と夕方とシビック前に集合。
朝からの雨もその時間には不思議と止んでくれた。
入場時にも雨は小降りだった。上映中はかなりのドシャ降り。帰るころもほぼ雨があがり、天も私たちに味方をしてくれた。
小ホール9割がたは入ったと思う。入場者約280名。
初めての人、地元の人も多かった。
反面、コンサートでは久しく会わない反原発の仲間の顔も結構見られた。
文京シビックを借りたことがある人はご存知と思うが、何かと管理が厳しい。マニュアル的というかなんというか、今どき珍しいのではないか?
本日の催し物、という看板が入り口に立っていて、それを使っていいことになっている。お昼過ぎに空いていたので貼った。すぐ、2人の職員が現れて、午後はほかの方が使っていますので・・・
ホールを見てきたが企業の会合でホール前にも看板は立っていなかった。つまり看板は夜まで空いていたのだ。
夕方4じごろ、もういいだろう、と貼りにいった。しかし、同じように断られた。
私たちが借りているのは書類上は6時からになっている。しかし、空いているのに。その日、看板を見た人が夜にこようという気持ちにならないとも限らない。一人でも多く入ったほうが私たちはもちろんだが、シビック側もうれしいのではないか?
ホールも5時にはすでに空いていて、がらんとしていた。私たちスタッフやボランティア、すでにお客さんも並びはじめたのに頑としてホールを開けない。
会場のことを書き出すとキリがない、講演、映画についての来場者の感想などはまたあとで。
2008年4月24日木曜日
写真展無事終了
今日もお客さんが多かった。
語りも人気だった。
やわらなか「語り」は講談とは、また違った味がある。
たった10分の語りがこんなに力があるとは、実際に聞いてみるまではわからなかった。若い人たちが特に語りにひかれたようだ。
ご自由に、と置いた子ども基金の古いニュースのバックナンバーもずいぶん減った。
募金箱にはカンパも入っていた。
お隣の趣味の会の展覧会は6時ごろに閉まった。
前にほかで展覧会をやったときも、私たちはぎりぎりの時間までを展示時間としたがほかのグループは早かった。それでは勤め帰りの人たちは見ることができない。平日の夜の展示なのだからなるべく見てもらいたいと思ったら8時半ぐらいまで展示しなくては、と思っている。
夜、仕事帰りに当番をやってくれるボランティアさんがいるおかげで、子ども基金は遅くまでできる。
8時半終了後、急いで片づけにかかった。
飾り付けのときにいた人は、なんと誰もいない!
その上、女性ばかり!
しかし、手際よく片付け無事梱包も終了。
シビックから神楽坂までタクシーで運ぶ予定だった。ホール前でタクシーを止めたのだがあまりの多さに何台も断られた。
でも捨てる神あれば拾う神あり。
親切なタクシーさんがいた。後ろをあけて詰めるだけ詰めて後ろがあかないように紐でとめてくれた。座席には大きな写真を入れて、足元にも置いて、3人が乗って出発。
シビックから神楽坂までは近い。あっという間に着いた。
滅多にはずまない(というか滅多にタクシーに乗らない)チップを、ほんの少しはずみ、お礼を言って降りた。
親切なと言えば、会館の施設管理の人たちも親切だった。いつもどこでもそう思うが、現場の人たちは心がやさしいと思う。展示室のすべての備品を返し、あいさつに言ったKさんに、大成功だったね、よかったね、と言ってくれたという。
明日の映画会&講演会も2日間の写真展の余勢をかって大入りになることを。
2008年4月23日水曜日
写真展、初日終了
大きな荷物を2つ抱えて飛び乗ろうとしたらマジッー? との声が。
思わずひるんでしまって、乗れなかった。
そのあと空いているメトロ直通に乗ったが少しでも早いほうにと急行のあるほうにまた乗り換えてしまった。
ドア近くしか乗れなかったのでそこでもひんしゅくをかった。
いつも通勤時をはずしたのんびりした時間に乗っているので、すっかり満員電車の怖さを忘れてしまった。
朝の失敗がに続き、いろいろミスがあった。大きな忘れ物もあり、ドタバタ騒ぎをしたが、ボランティアさんたちの奮闘により、無事展示終了。隣で趣味の写真を展示していた人たちが、親切にいろいろアドバイスをしてくださって、助かった。
お昼ごろから黒い服を着た会社訪問のような若い男女が何人も訪れた。聞いてみると、会社説明会がホールであり、その帰りにのぞいたという。「語り」も座って聞いていかれた。見るつもりでない場で思いもかけない展示に出会って、とても緊張した様子でていねいに見ていかれた。学生同士がどこの学校からきたのか、など情報交換もしたりしていた。
区職員の人たちにも前日許可をもらってチラシをまいたのだか、それらしき人はあまり見当たらなかった。
意外と地元の人が多く来られた。区の図書館で見ました。この館はときどき訪れているから、とか。
文京方面での私たちの取り組みは初めてだったが、新しい人たちがチェルノブイリと出会ってくれた・・・なんだかとてもうれしくなった。
朝のドタバタはたくさんの人が訪れてくださったことですべて帳消しに。いい1日だった。
2008年4月22日火曜日
イベント前日
メインのイベントは24日の上映会と講演会だが、明日から2日間にわたって広河さんの写真展を開く。会場は24日と同じ文京シビック1階の展示場。会館そのものは文句なく地の利がよい。設備も新しく十分に整っている。ただし、展示ギャラリーが今ひとつ目立たない。
会館の1階のレストランが営業していればまだ賑わいがあるのだが、あいにく5月までは改築工事中でがらんとしている。少しでも目立つように、通路に面したガラスに貼るポスターなどあれこれ相談。いつも看板描きを引き受けてくれるTさんと連絡がとれない。なんでも新潟の反原発の団体に呼ばれてあちらで何か描いているらしい。Tさんはいつも当日始まる直前にその場で完成、ということが多い。それに習って明日、現場で工夫しようということになった。
写真展会場に花瓶は必要ですか? と会館側。貸し出しリストに入っている。花もいいが予算がない。その代わり、事務局にはウクライナやベラルーシからもらった民芸品などがある。子どもたちがつくった手作りの作品もある。それらを飾ることに。
写真展会場では日に3回、ボランティアの方による「語り」が行なわれる。1回の時間が12分。 ベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシェービッチ著 『チェルノブイリの祈り』から「消防士の妻の話」 22日(火)第1回 11:40~ 第2回 12:40~ 第3回 15:00~ 23日(水)第1回 12:40~ 第2回 未定 第3回 17:30~ ステージでスポットライトを浴びて、「語る」のも いいけど、その物語にふさわしい場での「語り」はもっと自然でいいと思う、と本人の弁。一度聞いたことがあるが写真の前ではなかった。ふさわしい場所での「語り」、聞くのが楽しみ。
メインのイベントだけでなく、いろいろ企画・実行するのは大変だが、結果的にいろいろあったほうが宣伝もしやすい。あれやこれや抜けていることがないか、気になるが、結局抜けたり忘れたりするのもいつものこと。あけるしかない。たくさんの人が来てくれることを。
2008年4月20日日曜日
アースディに行ってみました
10年ぐらい前に参加したことがあるがそのころはもっと地味だった。人の多さに驚き、一般企業が参加しているのに驚き。
会場の代々木公園に行くまでにすでに驚くべきことがいくつも。
まず、原宿駅のコンコース内、人の波が動かない。狭すぎるのだ。改札をようやく出てもなかなか広い道まで行けない。駅では今日は催し物が重なったため、大変込み合いご迷惑をおかけしています、とアナウンスをしていたが、大体土日はいつもこうだという。真剣に対策を考えないと危ないのでは?
参道の入り口には黒い洋服を着た娘さんたちが多数。
写真を撮り合ったりしている。
やっと道を渡って公園沿いの歩道に入るとストリートミージュシャンが数歩おきぐらいにびっしり、という表現がオーバーではないほど。隣の音にかき消されないようにまけじと大きな音を出し合っている。
やっと目当てのアースディ会場へ。確か、核関連では共同で一つブースを出していると聞いていたがあまりのテントの数でみつけられなかった。うろうろしていたら何人か知り合いにあった。4月24日のチェルノブイリイベントを宣伝。若いボランティアのYさんと合流。会場内ではチラシ撒きは、自分のテント前と決められているとかでおおっぴらには撒けなかったがそこそこはけた。
休憩しようということで行列ができていたオーガニック料理のところへ。500円だったがこういうところでは値段はこんなもんだろうと思った。おいしかった。食器を古い布でぬぐって(主催者が用意)返すと100円も返却がきたのにも驚き。汚れをぬぐってから洗う、ということを若い人たちが知るのはいいことだ。
企業のビールも売っていたが、オーガニックビールの方に、人は群がっていた。
NGOのテントと企業のテントの区分けとかどういうことになっているか知らないが、単なるマーケットと化していかないように今後の取り組みが難しいだろうな、とひとごとながら心配になった。
26日がチェルノブイリデーの4月。4月はほかのイベントにはほとんど関われないから自分の中でアースディはひとごとになっていた。チェルノブイリ救援活動に関わっていない脱原発、反原発の人たちの参加も少ない理由が少しだけわかった。
でも、お天気がよくチラシも配り、おいしい料理とワインを飲み、音楽を聞いて、楽しかった。
一緒につき合ってくれたYさんに感謝。
2008年4月19日土曜日
映画「みえない雲」はおもしろい
ねぇ、ねぇ、ヨードを飲む話し、出てくる?
ううん、それは出てこない。ドキュメントではないし。
でも事故のあと、放射能の雲から逃げるところとか、病気になって入院している場面とかとてもリアルだよ。
そう、じゃ、ヨードの話しが出てくるとか強調しないほうがいいわね。
Iさんはチケットを売るためにあの手この手で買わせようとしてくれているみたいだ。
それはうれしいけど、小説の映画化ということは伝えていたのに・・・
詳しくは以下のURLをみてほしいが。
この中の上映劇場というページだけ違っている。
今、劇場でこの映画をやっているところはない。
それ以外は封切りされたとき(2006,12月)と同じ。
http://www.cqn.co.jp/mienaikumo/index.html
日本の原発の状況なども表になってでている。
資料先も明示してある。
原発事故がテーマだが、若い2人の愛も重要なテーマになっている。
恋愛映画とサスペンスとあわせもった、最後まで引き込まれる映画だ。
なぜヒットしなかったのかな。
見ない前に、おもしろくないと決めつけた人たちが多かったのか?
ぜひ、まだ見てない人は大きなスクリーンでこの映画をみてほしい。
一度見た人も、ドイツ文学翻訳家の池田香代子さんの話しを聞いてからもう一度映画をみると、前回見えなかったことがきっと見えるに違いない。私も話しを聞くのをとても楽しみにしている。
2008年4月18日金曜日
東電本社交渉でチラシを渡す
今日は久しぶりに参加した。救援活動に関わって以来、反原発の行動にはなかなか身を入れて関われない。しかし、今日は来週の「みえない雲」上映会の宣伝を、特に東電の人たちにしたくて、参加した。共の会・世話人が流したメールから;
●日時:4月17日(木)13:30~
場所:東新ビル(JR新橋下車徒歩4分)
テーマ:柏崎刈羽原発の地震被害と事故ほか
・どなたでも参加できます。
・あらかじめ提出した事前質問に回答してもらいます。
事前質問事項
・「H20年度経営計画(3/26)」について
・「福島の耐震安全性評価の中間報告(3/31)」について
・「K-7設備健全性の中間報告」「点検・評価作業」等
・活断層調査・地殻変動
・「作業被ばく線量」について
・「流通設備の被害」について
・その他主なプレス案件(配管設計の応力解析における不備など)
東京電力と共に脱原発をめざす会
久しぶりの参加者としては内容にはとてもついていけない。それでも仲間と会って情報を交換しあったり、東電側の対応に笑ったり怒ったりできて、参加してよかったと思う。
東電社員に4月24日のチラシを渡した。社員の一人は有楽町のシネカノンで上映されたとき見ましたよ。と言っていた。
ほかの人も恐縮してもらってくれた。以前だったら、ただ受け取るだけ、という感じだったが、頭を下げながらお礼を言って受け取ってくれるようになった。
東電社員7人に渡した。このうち一人でも来てくれるといいな。
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22周年救援キャンペーン 4/24文京シビック小ホール 19時~
『みえない雲』上映+池田香代子講演会
http://homepage2.nifty.com/chernobyl_children/index.html