2013年7月31日水曜日

白河・小峰城跡、南湖公園の観光


白河アウシュビッツ平和博物館のみなさんのあたたかい
おもてなしのあと、車で30分ぐらい離れた甲子(かし)温泉
に向かった。

温泉には理事長の塚田さんが案内。
ワレンチンさんと一緒にお風呂に入ってくれるのかと
思ったら、翌朝信州へ帰るという。
塚田さんは信州と白河を行ったりきたりの生活。
親切に、お風呂の入り方を説明して博物館に帰っていかれた。

地震の影響で建物の壁にはひびが入っていた。
また、観光客の激減は福島県内すべてだ、と
塚田さんの話。貸し切り状態だった。

古びたさびれた高原ホテルだったが、温泉は豊富。
寝る前と朝食前とワレンチンさんは2回
ゆっくり時間をかけて温泉を楽しんだ。
緑の中の高原ホテル、風景も抜群。
ただ、放射能が少しあるだけ・・・

宿は0.2マイクロSV。
ま、福島では普通だね、と大賀さん。
 
朝食のあと、大賀さんの案内で
小峰城跡の見学。

地震で石垣が崩落し、部分的に入場禁止。
この日のこの場所の空間線量は0.40マイクロSVと
入口の看板に書かれていた。
(なぜかモニターは0.25だった)
看板には長時間の見学はしないようにと
ごていねいな説明が。
大賀さんは白河市はエライ、とほめていた。
ワレンチンさんにとってお城見学は初めて。

観光に来たらしい一組の家族に、大賀さんが
放射能値とあまり長くいないほうがいいと
ついでに、ウクライナからやってきたこの人は
云々と話してくれた。
静岡から見えた人たちで、浜岡も怖いですよねと
そんな会話が

そのあと、名勝南湖公園へ。
2009年ごろ、一度来たことがあるr。
そのとき、アウシュビッツ博物館に泊めてもらった。
それが、白河とのつきあいの始まり。
前に行ったときはにぎわっていた南湖だったが今回は
観光客もまばら。

有料の翆楽苑の中も散策、ハスの花やユリなどが咲き乱れ、
手入れの行きとどいた樹木、噴水、小川、鯉などを眺め
小雨の中、たっぷりの自然を味わった。

ただ、まわりは森で、やっぱり線量はそれなりに
あるだろうなという風景。

雑草取りをしていた女性たち、松の木の枝を剪定していた
植木職人。地震直後はもっと線量の高い中を
作業していたのだろうねと大賀さんと話しながら眺めた。

散歩のあと、茶屋でおいしい団子と
おそばを食べた。
なんとその茶屋には97歳になるお婆ちゃんが
健在で一緒に写真を撮ったりした。

すかさずウクライナからこれこれこうで
来たんですよ、と大賀さんがアピール。
南湖の絵はがきセットをお店の人(おばあちゃんの娘さん)
からいただいた。

白河には大宮から新幹線でわずか1時間で着く。
寒かった。
もちろんどこも冷房なしで。

電気は都会で使っているのだ。





2013年7月30日火曜日

ウクライナのワレンチンさん、来日講演終了。

日本での9日間の旅を終え、無事帰国。
26日の午前の便で出発、イスタンブール経由で帰国の途に。
たぶん、イスタンブールでは空港の椅子で一夜を過ごすのか?
と思ったら、海外のことに明るい友人が、椅子があれば
まだいいほう、ないかも?
ともあれ、無事帰国された。

ワレンチンさんから;
「日本滞在中、お世話になったみなさんにくれぐれも
よろしく伝えて欲しい、みなさんのお気遣い、優しさに感謝します」
8泊9日の滞在中、ビジネスホテルに7泊。
貴重な1泊を白河市の温泉で過ごした。




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無事、白河の講演も終わった。
いい雰囲気の真新しい木の香りのする原発災害情報センターが
講演会場。
センターはまだ完成途中。
200年ぐらいは持つような日本の伝統的工法による造りとのこと。
長い取り組みになるのでじっくり時間をかけて造ると
アウシュビッツ平和博物館館長の小渕さんの話。
募金もまだまだこれから集める、とのこと。

















































理事長であり棟梁の塚田さん(手前)
6月にオープンして以来、2回目のイベントとか。
1回目は地震のときに障害者はどう対応したらよいのか、
関東と福島のろうあ者の交流会を開催。
「それに続く貴重なチェルノブイリ被害者の話を聞く会を
開くことができ、いよいよセンターの役目が重要に
なってきます」と塚田さんのあいさつ。
塚田さんは300年前の古民家を移築して
アウシュビッツ博物館を造った棟梁。
今回の災害情報センターは塚田さんの弟子が手掛けている。
口も手も出さずじっと見守っていた、と小渕さん。
夜のそれも雨のなか、20人ぐらいの人が参加。

朝日元記者の村田さんが「原発を問う民衆法廷」について話を
された。
村田さんは小高の出身で、事故後、横浜に避難された方。
ワレンチンさんの話は19日の未来の福島こども基金の総会のゲスト
として、20日の民衆法廷の陳述者として、すでに2回話を
しているので、落ち着いていた。

新しい情報センターは天井が高く、音響がよすぎてマイクからの
声が聞きとりにくく、マイクなしで始まった。
通訳の深澤さんは声がはっきりとしていてわかりやすかった。

ミーシャを支援したとき(1996年)の内容についての質問などが
あり、補足した。
 参考:チェルノブイリ子ども基金NEWS No.87 20頁

会津に大熊町から避難している大賀あや子さんもはるばるかけつけて
参加。彼女から、子ども被災者支援法についての
話があった。
これについてはまったく人々の間に知られていない。
それもそのはず、昨年、超党派によりできた支援法だったが
これまで塩漬け状態。
なんとかしようと、8月2日(金)「原発事故子ども・
被災者支援法推進自治体議員連盟」結成集会が開かれる。
市民の参加も歓迎とのこと。

話を元に戻すと、白河の人々の温かい歓迎を
受けてのお話を聞く会。
率直な質問も出て、前の2回同様、ミーシャの病気の話に及ぶと
ワレンチンさんは涙ぐむ。

自慢の息子だった。
体格もよく優秀だった。勤めていた銀行では責任ある地位を務めた。
それが2009年リストラに会ったその年、チェルノブイリ被害者の
再認定のときに、甲状腺がんの他臓器への転移がわかった。
ミーシャのお母さんは息子の再発を悲観して
彼よりも1年早く亡くなってしまった。
追い打ちをかける、とはこのことだろう。
奇しくもミーシャが亡くなった1周忌(7月19日没)に
日本を訪れることになったワレンチンさん。
辛い体験を今回語っていただいたわけだが、
1周忌に来日、といのも何かの縁かもしれない。
福島の人たちにとってはあるいは聞きたくない
話しだった、とも言えよう。
でも、子どもたちを守るために、今後の参考にしたいと
集まってくれた人々の心に響くお話だったに違いない。
白河の観光について書こうと思ったのだが稿をあらためる。


帰国前夜はチェルノブイリ子ども基金のある神楽坂で夕食会。
ちょうどお祭でおおにぎわいの街を少し見物。
浴衣の女性と写真に収まりワレンチンさんはご満悦だった。

そんなこんなでワレンチンさんにとっては
充実した日本での日々だったと思う。

2013年7月19日金曜日

チェルノブイリ被害者の話を聞く会


チェルノブイリ子ども基金が2年前に緊急支援したウクライナのミーシャが
昨年亡くなりました。
傷心のなか、なんとか福島の人たちの助けになるなら、と
らいにちしたシテフォルク・ワレンチンさん、無事到着!

来日早々弁護士会館で行われた記者会見には、選挙中ということでたった一人の記者(地域と労働運動)のみが参加。でも、会見にのぞんだワレンチンさんとオーストラリア反核連合共同代表のピーター・ワッツさんは意気投合。ピーターさんは、ワレンチンさんに、あなたの目をみたとき、自分たちと同じ被害を受けた人の目だ、と思った、もうこんなことは終わりにしたい、と語った。

20日、21日は原発を問う民衆法廷でお二人のほか武藤類子さん、斎藤征二さんの陳述などもあります。原発民衆法廷http://genpatsu-houtei.blogspot.jp/

ワレンチンさんのお話は以下のところで開催。

★ 未来の福島こども基金 総会&講演会
 7/19(金)19:00~21:00(話し:19:50~)
 カタログハウス セミナーホール 地下2階

★原発を問う民衆法廷 東京最終法廷開催の案内                 

7/20(日) 11:00~17:00(話し:14:20~)
 新宿区牛込箪笥(たんす)区民ホール

★チェルノブイリ原発事故の被害者の話を聞く会 
 7/24日(水)18時30分~
 原発災害情報センター多目的ホール
 (福島県白河市)

詳しくはこちらを。

チェルノブイリ子ども基金ブログhttp://blog.goo.ne.jp/cherno1986jimukyoku/e/f9bf9b581640e3f3e92da4226be31f49未来の福島こども基金http://fukushimachildrensfund.org/130623_2.html
未来の福島こども基金のfacebookにも掲載。