2012年8月27日月曜日

 新潟県十日町市松之山坪野集落~野外舞踏劇‘谷蟇’


2012年8月20日月曜日

子どもや孫にツケはまわさないで

さいたま市議そえのふみこさんの市政報告会ゲストとして、
チェルノブイリと福島の子どもたちの話をした。

「原発について考える第2弾~子どもや孫にツケはまわさないで」
というタイトル。

そえのさんは浦和市議時代から通算すると5期目という
ベテラン議員である。

一度落選しているそうだが、そのときに、福祉施設を作り、
その活動を今も続けている。

彼女との最初の出会いは「原発止めよう埼玉連絡会」発足のための
集まりだった。

チェルノブイリ事故後2年目の4月、故高木仁三郎さんらの呼びかけで
「原発とめよう!1万人集会」なるものが開かれた。
  参考:脱原発法制定運動(ウィキペディアより)

今の官邸前10万人、代々木公園20万人、などという規模から
思えばなんとつつましい数か!

でも、とにかく予定の倍の2万人が全国から集まり
脱原発、反原発運動に弾みをつけた。

そのとき集まった埼玉の人たちで、団体を作ろう、という
ことになり、その年の5月5日に丸木美術館に集合して
第1回目か2回目かの打ち合わせを行った。

そのときはまだそえのさんは市議ではなく、
一市民として、私たちと一緒に動いた。

原発止めよう埼玉連絡会が発足したのはその年の秋ごろだったか。

記憶はあいまいであるが、そのときに知り合った
脱原発の仲間たち、現在、丸木美術館事務局長の
中野さん、静岡県に居を移して浜岡原発を止めるために
活動している東井さん、官邸前や至るところで
出会うさいたま市の堀口さんなどとは、いまだにゆるくつながって活動している。

そえのさんの市政報告会の後、私の出番。
冒頭に私たちの活動の原点を話したところ、
「原発止めよう埼玉連絡会」はどのような活動をしていますか?
と質問が後であった。
まさに今の情勢にぴったりの団体ではあるが、
残念ながら、この団体は10年ぐらい前に解散している。

「原発止めよう埼玉連絡会」は勉強会や講演会、写真展などを
開き、市民の人たちに、日本の原発の状況を考えて
もらおうと、いろいろ企画し実行したのだったが。


「原発止めよう埼玉連絡会」の活動の中から
「東京電力と共に脱原発をめざす会」も発足した。

関連記事を過去のブログに書いていた。


「東電と共に脱原発をめざす会」の窓口を担っていた友 2008.12.9

友のこと 2008.12.9

柏崎市へ申し入れ&友の墓参


ちょっと自分でその記事を探してみてあれから4年も
経ったのか、と驚いている。
まだ、日本が原発震災を起こす前のことだ。

ほんとにあんなに一生懸命に東電の窓口として
市民交渉の場を設定し、交渉を続けた亡き友。
一倍怒りを東電に対して向けていた、友は今の福島の様子を知ったら
なんと思うだろうか。

書きだすときりがないくらい長い脱原発の歴史を私たちは
たどってきたな、と感慨も新たな感じである。

ところで話をそえのさんの市政報告会にもどすと~

彼女の支援者である「自治会のおばちゃん、おじちゃんが
チェルノブイリの今の状況を知って、そして福島の状況を
改めて感じて、原発のことを気にしなければという
思いになったのではないか?」
「帰りのみんなの満足した顔がうれしかった」と
そえのさんの弁。

市政報告会で原発のことをとりあげるのは
珍しいかもしれない。そえのさんと私たちの長い付き合いを知って
それも納得したのではないだろうか。

60人近くの出席者であったが、市政報告会としては
過去で一番ぐらいの人数でもあったらしい。

ひとりひとりが原発問題を自分のこととして
とらえてほしい。

その願いはかなえられた集いだった。


2012年8月16日木曜日

お盆前のできごと

たんぽぽ舎の講演の翌日、8月3日に義母が亡くなった。

このかんいろいろあったので、すでに遠い出来事のような
気がするが、95歳の義母の死は大きな出来事の一つだ。

お経をあげてくれた住職さまがおっしゃるには
いまどき、自宅で亡くなるのは恵まれた人、なのだそうだ。

5日間ほど体調を崩したが、気がついたら息をしていなかったと
いうのだから大往生というべきだろう。

死因も立派な「老衰」。

私の母は今、91歳。認知症はあるがすこぶる元気だ。

それに比べても、そろそろ寿命ではないかと、義母の様子から
思うようになって、2年ぐらい経ったのかな。

同居の長男(義兄)夫婦は大変な日々ではあったとは
察しがつく。

風呂に入らなくなり、着替えを嫌がるようになってから
2年半ぐらい。

最近になってショートスティに何回か通うようになって
風呂に2年ぶりに入れてもらったそう。

本人も気持がいいと、もらしていたらしい。

今年の暑さで体調を崩し、食欲も落ちていた。
便秘もしていた。

でも、亡くなる前日に浣腸をかけすっきりして
その日は朝ご飯も昼ごはんも食べたという。

そして、3時にアイスクリームを食べさせようと部屋に義兄が
入ったら、すでに息がなかったとか。

かねがね義母は自分の母が風邪をひいて数日で
亡くなったのをうらやんでいた。
あんなふうに死にたいものだとまわりの者に
よく言っていた。
あやかったのだから大したものだ。

どちらも同じように、寿命での死を迎えたのだと思うが
片や80歳と少し。片や95歳。

私の友人たちのまわりの両親など90歳台がごろごろ
している。

いまどきの寿命は95歳ぐらいが普通か。

大正生まれの人たちは丈夫だがこの先はわからない。

寿命は昔に戻っていくかもしれない。


今日はお盆の送りの日。

義母の新盆は来年らしいが、義父のお盆は例年どおりだと
いうので、お参りに行ってきた。

彼と彼女が再会するのは49日後?

よくわからないが、まだ会ってはいないようだ。