2008年5月29日木曜日

初めての外泊

4月にグループホームに入所した母が、帰ってきた。

我が家からグループホームに入ったのだから、外泊とは言わないのかもしれない。
グループホームの場合、あくまで現住所は自宅なのだ。

正確には昨年11月に自宅から我が家にきたので、母にとっての自宅は上越だろう。
勝手に連れられた来ただけだから。

田舎から我が家に来るときに、甥が運転してきた。
行かない、とわめき、高速道路を走っている間、あわやドアが開きそうになってヒヤリとした瞬間があった。約6時間、ずーっと、車からおろして、と言い続けていた。

甥は背中から母の言葉を浴びせ続けられていた。我が家についたとき、いや~すさまじかったですね~、と心底疲弊した声をだした。

そんな母だから、ガンコさは百も承知していた。

眠れないと興奮して幻聴がひどくなる。誰かが迎えにくる、となったら荷物をまとめて玄関で待つ。夜中に何度でも外に出て幻聴の相手としゃべる。夜中だから、家に入って待とう、とさとすと、地域のみなさ~ん、聞いてください、大声で何か言い出す。

だから、ホームに入る、と決まったとき、その日までは半信半疑だった。
自宅であった面談にはうまくパスした。
多少、ヘンなところはあっても結構しっかり受け答えができる。
入居の下見にはとうとう連れ出せなかった。私と甥だけが見にいった。

そして、入居日、その日はわりとスムーズに運んだ。

少し前、大好きな息子と孫のいる大阪に行き、そこで、おばあちゃんは多くの老人の中から選ばれて新しい老人マンションに入ることができたんだよ。費用もかからない無料なんだよ。今、通知がきたから入る、と承諾してもいいか、と弟の嫁さんが聞いたらしい。

そばで孫も、すごいね~ おばあちゃんが良いおばあちゃんだから選ばれたんだよ。と持ち上げて。
その洗脳が少し効いていたのか?

入居の日、部屋に入って、自分の名前がドアの前にあるのを確認した。
おばあちゃん、いいタンスだね。おばあちゃんの部屋は新しくていいね、と私が言ったとき、うん、と確かにうなづいたのだ。

しかし、それは本当にわかって、ではなかった。

何で、自分はこんなところに閉じ込められているのか、という思いが日増しに強くなり、職員に対して暴言を吐き、玄関が開くのを待って、隙あらば出ようとするようになった。

ホームでもかかりつけの医師はいるのだが、一度、認知症、あるいは精神科の専門医に診てもらって、とSOSが出され、昨日、医者に連れていった。

母の顔見知りのご近所さんが車を出してくれて迎えに行ったら、荷物を持ってころがるように出てきた。母の頭の中では私のところに1泊して、翌日、上越に貯金を下ろしに行く、というストーリーが出来上がっていたらしい。

だから医者に行って待っている間も、興奮して、こんなところにいられない、早く行こうよ、と繰り返していた。ご近所さんがいてくれなかったら、逃げ出されていただろう。待合室では、母のように数人がかりで来ている人たちが何組かいた。

もっとも興奮しているときに医師が診たのだから都合はよかった。安定剤と睡眠薬をもらい、1週間後に一度きてください。特に、際立っているということは医師がみて、なかったのだろう。認知症だから、しょうがないですね、薬は強いのでサジ加減が大事です、と念を押された。つまり、ふらついたりしたら3回を2回、1回に減らしなさい、とのこと。

その後、食事をしてホームに戻ったのだが、私のところに来るはずだったのに戻されたことが不満で、興奮の度が増していくのがわかった。久しぶりにドライブして刺激も受けたのだろう。もらった薬も昼食後飲ませたのに、効き目がない。

ホームは一人では出られない仕組みなっているが、外から人がくると、母の部屋の前が駐車場になっていて、丸見え。あの人は、今玄関から入ってくる、と素早く察知して、先回りして、玄関が開くのを待っている。それを静止する職員。最近はその頻度が多いという。昨日も見かねて私が外に連れ出した。そしたら、戻らなくなり、お泊りと相成った。

今日もう一度医者に連れて行って、ホームに帰そうと思ったが、爆酔していてどうにもならない。
数日寝てなかったところに、昨日は歩き回ったから疲れたのだろう。
今日も仕事を休んだ。明日はどうしても仕事だから、連れていくつもりだが、うまくいくかどうか、保障の限りではない。

2008年5月27日火曜日

四番目の恐怖

日本の核武装の疑惑を追うーー広瀬隆、槌田敦講演会に参加。

24日の土曜日、雨がまだ止まない夕方、会場に着いたら、広瀬隆さんの講演がちょうどはじまるところだった。
満員とはいかなかったがそれなりに席は埋まっていた。

主催は「核開発に反対する会」、第9回目の講演会だった。たぶん、私は2回ぐらいしか出ていない。

広瀬さんの講演タイトルは「新潟県中越沖地震についての記録と、六ヶ所村再処理工場の危険性」について。

今、若い人たちの間でロッカショが焦点になっている、と言っても過言ではないほど、六ヶ所村の再処理工場のことが話題になっている。

六ヶ所村の再処理工場建設の時から、いや、建設前からその危険性を訴えてきた広瀬隆さん。

私の手元にデイズジャパン創刊号がある。
これは今出版されているフォトジャーナリズム月刊誌のデイズジャパンではなく、講談社から出ていた写真月刊雑誌のデイズジャパン。

この雑誌のことは広河隆一さんが今のデイズジャパン発刊のときに触れている。

とにかく講談社のデイズジャパンはあることがきっかけで廃刊になった。
毎号買っていたわけではないが、創刊号に「四番目の恐怖」と題して、六ヶ所村のことが出ている。創刊号の表紙は故ダイアナさんとチャールズ皇太子。1988年4月の発行。チェルノブイリから2年目の春だ。

この本が出たころ、まだ私はそんなにチェルノブイリに関心があったわけではない。
半年ぐらい前から集会、勉強にボチボチ通いだしたばかりのころ。この本のことは誰か知人から聞いて買ったのだと思う。
創刊号が発売された直後に、日比谷公園で原発止めよう2万人行動が故高木仁三郎さんらの呼びかけであり、地域の人たちと一緒に参加した。全国から集まった多くの市民で公園は埋め尽くされた。

この後、地域でネットワークができ活動していくことになるのだが、同時に、全国で草の根的に広がった反原発運動は深く静かに深更した、と思ったが、一方、ゴミ問題やそのほかの環境問題に関心が移る人も出て、表面的にはあまり広がらなくなってしまった。

しかし、いったん知ってしまったことを知らないことにはできない。
それぞれ関わることは違うようになっても、核の恐ろしさを知っていく人たちは、確実に増えていたと思う。

また、原発や核関連施設が目の前にある人たち、あるいはこれから最終処分場となるかもしれない、という恐れのある地域の人たちは他の問題に目を向けることはできない。

仕事のつながりで反対運動を直接できない人も、地元にいたらいつ事故が起きるか、核の恐怖を持ち続けながらの生活を余儀なくされている。

チェルノブイリ、スリーマイル島、ウィンズケール、そして青森をつなぐ運命「四番目の恐怖」。
調査・文 広瀬隆 + 取材・写真 広河隆一 
カラー写真と図を見開きに配置した32ページにおよぶこの特集は、私たちに衝撃を与えた。雑誌から抜き刷りにした小冊子も広まった。単行本にもなり文庫本にもなった。もうとっくにどちらも廃刊になっていると思うが。

図解入りの再処理工場10の危険性を本から書き出してみると

1、輸送事故 2、プール破壊 3、化学爆発 4、処理後の排水 
5、ガス放出 6、放射能漏れ 7、核爆発 8、冷却不能 
9、ガラス破壊 10、地下水汚染

しかし、重大なことがここには書かれていない。
地震のことが、この当時はまだあまり問題にされていなかったのだ。

「原発震災」という言葉がささやかれる昨今、土曜日の広瀬さんの講演も昨年の新潟県中越沖地震についての話から始まった。
専門家の間では断層が早くから問題視されていたが、東電や国は根拠もなく死断層と決めつけていた。

阪神大震災発生の直前、94年12月に三陸はるか沖地震あり、翌年の3月、雪解けと共に、道路に亀裂が走っているのが露見。大きな亀裂の先は、まさに高レベル放射性廃棄物貯蔵庫(まだ着工前)につながる、と広瀬さんの資料に。この再処理施設直下に断層があるのを隠していた日本原燃サービスの内部資料が外に出て、地元新聞1面に書かれたのが1988年10月。デイズジャパン創刊の秋のことになる。

そして、広瀬さんの講演を聞いた翌日曜日、
「再処理工場直下に活断層か 青森県六ケ所村」という大きな見出しが各誌に掲載された。
青森の地元紙はもちろんだが京都新聞などもトップの扱いだったとか。さっそくにPDFにしてくれた仲間がいた。
http://www.greenaction-japan.org/newspaper/080525_kyoto.pdf


チェルノブイリの教訓を無にしないために、事故の起きる前に再処理施設を止めたい。

最近は止めるより、止まるのではないか、と思えてきたと、いつもの悲観的な広瀬さんらしからぬ楽観的な見通しで締めくくった。

そうだったらうれしいが。

2008年5月24日土曜日

我が家のおコメ

我がふるさと新潟のおコメが一番おいしいと思っている。

半年雪の下に埋まった田んぼからできたおコメはみずみずしく白くツヤがある。

我が家は原則として自分の家で家庭用精米機を使って7分づきにして食べているので白米ではない。

同級生の縁でお米をふるさとから取り寄せている。
厳密には魚沼地方ではないのだが、魚沼コシヒカリという銘柄。

もう1つ取り寄せているのは宮城県角田のおコメだ。

銘柄はひとめぼれ。

こちらは障害者も店番をしている「よろづや」を通しての共同購入。

有機肥料を使い、極力農薬を排したおコメ作りをはじめて30年、趣味は百姓、
職業は農業の0さんのもの。

色の白さ、ツヤは我が新潟米に負ける。

でも、味わいがある。噛めば噛むほど味がある。
その0さんが発行している田んぼ通信を読んで驚いた。
http://www.omokawa.com/text/index.html

東京の米卸しに米の在庫がないというのだ。

昨年秋、生産過剰を口実に生産コスト無視の米価の暴落。現在、日本国には、
コメが有り余っているはず。それが、コメがない??? 
うそだべ~~~~。とOさん。

天下国家のことは、誰しも口にしても責任をとらない世の中。日本国の食糧問題を心配してもしょうがないことです、とも。

そんなことをお百姓さんに言わせてよいのか?

消費者として何ができるか。

私のおコメを食べていただける人に、間違いなくおコメを届け続けること。
それが最大の責任で仕事だ、というOさんに、ただ、食べ続ける、という答えだけでよいのか?

今の倍食べます、とも言えないし・・・

2008年5月22日木曜日

究極の廃墟「プリピャチ」

数日前の日経新聞文化欄に目が止まった。“チェルノブイリに滞在、旧ソ連の残像を撮る”中筋純さんの文章だった。

チェルノブイリの写真は広河隆一さんは言うまでもなく、日本の著名なフォトジャーナリストたちがそれぞれに写真を撮っている。また、学者、研究者、医師など専門家も多数チェルノブイリを訪れている。

中筋純? 聞いたこともない人だった。
それもそのはず、アパレル広告を生業にしている写真家だった。写真ももともとやっていた人ではなく、旅行誌編集などを経て独自に学んだということだ。

今、廃墟ブームとか。少し前、人気俳優の福山雅治さんが廃墟を写した写真展のことでテレビに出ていた。

中筋さんも「全国津々浦々の廃墟を探して写真を撮っているうちに深みにはまった」そうだ。そして究極の廃墟ではないか、と思い至ったのがチェルノブイリであり、その原発城下町のプリピャチだったのだ。

「晩秋に訪れたウクライナはりんごの実がたわわに実り、ポプラの木が鮮やかな黄に染まっていた」と書いている。

そういえば、広河さんの今年のカレンダー(10月)にも、まっ黄色な落ち葉の間を歩く男性と犬の写真がある。
http://homepage2.nifty.com/chernobyl_children/calendar/calendar2008.html

       廃屋を みごとに彩る 木々の紅葉
         一人の男と 一匹の犬が
     金色にかがやく道を しずかに あるいていく
         (詩 石川逸子)

そういう世界なのだ。


「帰国後、廃墟とともに木々の鮮やかな色が印画紙上に浮かび上がった瞬間、心の震えがよみがえり、多くの人に見せなければ、との思いを強くした」

写真集は『廃墟チェルノブイリ』(二見書房)として出版されている。
何をきっかけでもよい。チェルノブイリのことを核の恐ろしさを知ってもらうのはうれしい。

しかし気になることが書いてあった。
それは、プリピャチに1週間も滞在した、ということ。
現地のガイドからは「これほど長く滞在したのはあなたが初めて」と言われた、と。

「ぜひ、再訪したい」と文章を結んでいたが、ぜひ、短い日程にしてほしいと願っている。

2008年5月20日火曜日

食器と貴金属

今回、いつにも増してバザーが熱気を帯びたのは品物の質が高かった、せいもある。以前にも、仲間の親族が急死されて、遺された貴金属類が提供された。そのときもかなりの募金ができた。今回は食器が多く出て、ここ数年では一番の売り上げだった。

お連れ合いがなくなり、処分に困っているところに、バザーのチラシが入った。昨年の募金高や寄付先が明記してある。少しでも役に立つなら。自宅も片付くし、一石二鳥と思ったのではないか?

提供したい、見に来てほしいと連絡があった。
仲間2人がその方の自宅に行き、3時間ほど費やして品物をよりわけ、運んだ。

何でも、亡くなった方は料理の得意な方で、好きで集めた食器がたくさん。しかも桐の箱に入ったままのものなど、かなり高価そうな食器群だった。「そうな」と書いたのは私自身はブランドものや名器を見る目をまったくもちあわせていないからだ。

洋服類は当節あまり売れない。安ければ売れるが高くてはだめだ。一番提供されるのは洋服なので山と届いた洋服をさばくためには、100円が主流になっている。

そこへいくと、食器はサイズもないし、どこの家でも使うものだから、いいものなら少々高くても売れる。
毎日使っていると飽きるから、この際にと、バザーで買って自分の家のはバザーに出す、というふうにうまくリサイクルしている人もいる。

実は私自身そうしたいと思っているが、出すのをより分けて、きれいに洗っておく、ということができない。それなのに毎回いくつか買って増える一方だ。次回こそ、きちんと出したいと願っているが。

そうそう、もう一つ、宝石類もあった。宝石と言っても何百万円もするものではないが、1万円の指輪が2つも売れた。

やはり、亡くなられた母親のものを出してくれた人がいたためだ。

バザーで1万円というのは貴金属をおいてない。1万円と値段をつけるにあたっては鑑定もしてもらった。元の値段は10倍~20倍のものだ。

食器を出された方はバザー会場にも見えられた。どんなふうに売られているのか、気になったのだろう。提供してくれたお礼を言ったら、いや、こちらこそ片付けてもらって助かりました、とお礼を言われた。ついでに、「何かほしいものはありませんか? 男性の品物もありますよ」との言葉に苦笑いしながら早々に帰られた。

オールドタウン化した我が街は、これからこんな事情が増えるのだろうか?

売る側の高齢化と相まって、提供品が増えても対応がどこまでできるか?
だんだん不透明なこの先である。

2008年5月18日日曜日

大にぎわいのチェルノブイリ救援バザー

きのうはお天気もよく絶好のバザー日和だった。

9時には我が家に娘と都下からかけつけたSさんが現れ、仲間と共に運び出した。
リヤカーを借りるときもあるが、きのうは車を出してくれる人がいたのでそれで足りた。 集会所まで7、8分。

ここは約3300世帯の人が入っている集合住宅が立ち並ぶニュータウン。
3階建てから20階建てまであり、それぞれの街区に管理センターがあり、
集会所がある。

娘が生まれて3か月のときに入居したので26年経った。
学校に行っている間は娘の年も数えやすいのでわかりやすかったが学校を出て数年経つと、
え~と何歳だったかな、としばし時間がかかるようになった。

私たちが入居したのは第1期ではないので、すでに28年ぐらい経ったニュータウン、いやオールドタウンと呼ぶべきか。月日の経つのはほんとに早い。

98年に、集めたものを売ってチェルノブイリへの募金にしようと、リサイクルグループ“カリーナ”を始めたとき、本屋の一角を借りてスタートした。

その後、自宅を開放して何回か行なった。

最近借りているのは、もっとも新しい街区で当初、1階が喫茶店になっていた
スペース。 世帯は多くとも自分の部屋の下の喫茶店にコーヒー代を払って入る人はそうそういない。
ショッピング通りでもないし駅前でもないし、外から来る人もあまりなかった。ほどなく閉店になった。
住んでいる人たちの所有しているスペースだから、やたらと外の人が使うのは難しいらしく集会所になっている。でも、本来の集会所もあり、あまり使われていない。
仲間の1人がその棟の住民だから借りることができる。

ともあれ、私たちにとっては絶好の場所だ。

11時オープン前にお客さんがずらっと並んだ。
前回は11月の寒いときで並んで待っていただくのは気がひけたが、きのうは待っている間、ガラス戸を通して品定めをしているのが伝わってきた。

こちらはたくさんの荷物を前に時間切れで値段の準備ができなかった品物の値付けに忙しい。1分でもほしいところ。
しかし時間がきてしまった。後は衣類の100円コーナー、雑貨50円コーナー、無料コーナーも作ってオープン。

次は熱気の様子を書きたい。

2008年5月17日土曜日

母の認知症、友だちの場合

バザーのため集まった品物をより分け、値段をつける。

おしゃべりをしながら文字通り品定めをする、なかなか楽しい作業だ。

お姑さんの介護のため都下に越した友人はみんなと会うのが久しぶりとあって話がはずむ。
と言っても楽しい話ばかりではない。私のところより深刻だ。お姑さんはうちと同じくグループホームに入居できて喜んでいたのだが。

私の母よりしっかりしていたのだが、家を離れたことにより、認知症が一気に進んでしまったようだ。
何度も脱走をして、そのたびに電話がホームからかかってくるようになった。

母の場合、認知症専門のグループホームだが、友人の場合はそうでなかった。開放型のグループホームでドアの開閉は自由だとか。それが特徴でもあるらしい。

しかしたびたび脱走するのでは・・・
新しいホームを探さなくては、と友人は言っていた。

居場所が変わるたびに認知症は進むと言われているので良し悪しでもある。

たまたまテレビで認知症のことをとりあげていた。ご近所さんの底力によって、助け合おうというのだった。確かにご近所の人たちに愚痴を聞いてもらい、相槌を打ってもらうだけでも気が晴れる。

私はとっくに実践しているが、なかなか簡単にそうはできない人が多いと思う。
友人もまだ引っ越していったばかりだから愚痴をいうご近所さんがいない。
木曜日はたくさんしゃべって気分が軽くなったと帰って行った。

ところで、私の母は認知症歴が長いので、悪いのは悪いがそう目立った変化は起きない、と、友人のところと比べては悪いがほっとしていた。と思いきや、電話がホームからあった。来た! と内心どきどき。

しかし、認知症専門のグループホームだけのことはある。すぐに来てほしい、とは言わない。が、かなりてこずったから電話をかけてきたのだ。ホームの2,3階は介護型の老人マンションになっていて50世帯分の部屋があり、常駐の医師がいるらしい。その医師がとりあえず、見てくれたが、近いうちに専門医に行くことをホームと約束した。

2008年5月15日木曜日

チェルノブイリ救援バザー

「チェルノブイリの子どものためのリサイクルグループ“カリーナ”」という長い名前が私たちグループの正式名称だ。

ウクライナのチェルノブイリ被災者でもある少年少女合唱団「チェルボナ・カリーナ」にあやかって名前をつけた。

カリーナというのは植物の名前でチェルボナは赤いという意味。赤いカリーナの実は心身を癒す実として、昔からジャムやジュースにしてウクライナでは食されてきた。

チェルノブイリ事故により心身共に傷を負った少年少女たち。少しでも回復して健康な日々を過ごしてほしい、という願いを込めた、と合唱団を作った指導者の先生は言われていた。

日本には1996年4月に来日して以来、何回も全国で公演を行なっている。
埼玉でも98年、99年、2001年と公演を重ねた。

先日「徹子の部屋」に出演して一躍全国的に有名になった、ナターシャ・グジーもそのチェルボナ・カリーナの一員だった。

特に98年の来日時は埼玉の実行委員会がナターシャの出演を強く希望して、最初のメンバーに入っていなかったナターシャを加えてもらった、といういきさつがある。

それが今、歌手として堂々と活躍している現在につながっているねと、ときどき埼玉の仲間の間ではそのときのことが話題に上る。

話しがそれたが、我がグループ“カリーナ”は98年4月のチェルボナ カリーナ・コンサートに合わせるように、98年1月にリサイクルショップを開店。

ショップと言っても小さな本屋さんの一角を借りてのスタート。

数人で当番を決めて詰めた。
しかし、そもそも店にお客さんがこなくて、書店を閉めようかというところに借りたのだ。
お客さんはあまりこなかった。こないのでは売りようがない。

数か月でお店は撤退。で、自宅を拠点として、年に何回かのバザーを行なって救援金を生み出すことに変更。

今年のバザーはあさって土曜日。今日の午前は1回目の準備の日だった。

実は今年、メンバーの1人が引越し、我がグループは最大のピンチを迎えた。ごたぶんにもれず高齢化が進んでいるグループの中にあって一番若いSさんの引越しは痛かった。彼女の都合がつかなかったらバザーは中止か、と覚悟もした。

しかし、なんとか今年は都合をつけてくれた。今日の準備にも遠くから参加。

おしゃべりをしながらの整理・値段付けは楽しい。

この続きはあした。

2008年5月14日水曜日

みえない雲の感想は重い

4月24日に上映した「みえない雲」は、予想以上に評判がいい。

今回チェルノブイリ子ども基金では初めて映画上映に取り組んだのだが、上映後のアンケートにはかつてない率の回答数があった。老若男女を問わず広範囲にわたっていた。

今までにない違う層の人たちにチェルノブイリのことが、原発の恐ろしさが、確実に伝わったのではないかと感じている。

映画についての感想。
池田さんのお話しについての感想。
チェルノブイリ子ども基金への感想。

全文を子ども基金のホームページにアップした。
http://homepage2.nifty.com/chernobyl_children/index.html

1986年4月26日生まれの男性からの感想もあった。

また、もっと近くで上映してくれたら友達も誘えたのに、とか
NHKで放送してほしいなんていうのもあった。

全面的にサポートするからあちこちで取り組んでくれないかな~

こんなに好評だったのだから、自信をもって薦めたい。

ところで、イベントの事務処理もほぼ終わり、連休も終わり、事務局は落ち着いてきた。
ボランティアの手を借りて、事務局内の片づけをした。

4月のイベントでも今年のカレンダー、まだ4か月しか経ってません!
と格安にして販売した。

そのカレンダーの過去の分の整理をした。

チェルノブイリ事故10年目の1996年から子ども基金ではカレンダーを作っている。
2年ほど、被害者の子どもたちの絵を使った以外は、フォト・ジャーナリストで子ども基金の設立者の広河隆一さんの写真で構成されている。

今年は広河さんの写真の横に石川逸子さんのオリジナルの詩がついている。
だからからか、いつもの年にまして売れ行きがよかった。

それでも印刷物というのはちょうど売れる、ということはまずない。

残っているものをいかにして売るか、あるいは整理して片付けるか、頭を悩ますところである。

過去のカレンダーのうち、完売したのが最初に出た1996年版。
完璧なのは1部しかない。
数部あるのは途中で切れていたり、汚れていたり、書き込みがあったり。

何と事務局で日々書き込んでいたカレンダーも出てきた。

ボランティアの人が来る日、来客のある日、ニュースの印刷の日、など目いっぱいに書き込んである。今も同じように使っているのだが、96年は救援活動も最高潮にさしかかっているころで今よりずっと書き込みが多い。

なつかしかったが全部に目を通すヒマはないから、また、ビニールをかぶせて奥にしまった。
今度日の目を見るのはいつだろう?

2008年5月12日月曜日

母の日

母の日だからとわざわざ選んで出かけたわけではない。

土曜日は4月のチェルノブイリイベントの最後の実行委員会と打ち上げがあった。
(雨の中、何人かの人たちが参加してくれた。これはまた後で書きたい)

それで日曜になっただけである。
でもせっかく母の日なんだからとカーネーションを買って、姉が母にと送ってきた洋服を持って、でかけた。今、都内で暮らしている娘も後からくる、と連絡があった。

母と一緒に部屋でお昼を食べようかと思ってあらかじめ電話をした。

「はいはい、お部屋に運んでおきますね」、とスタッフの方は言われたのだが着いたらすでに食べていた。

「すみません、12時少し前に食べ始めるので」
ちっともかまわない。

どこもそうらしいが、グループホームは9人が1つのグループになっている。
反対側のフロアにもう1グループあり、合計18人が入っているが9人ずつそれぞれ一緒のテーブルで食事をする。

気をちらしても悪いので食事中の母には声をかけずにソファーに座ってテレビを見ていた。

機嫌が悪いとき、黙って母の部屋に入ると、怒る。
ふとんの中に大事なバッグが隠してある。お金を取られる、と思っている。
で、部屋に先に入らずに食事が終るのを待った。

母は耳が遠いので私がスタッフとあいさつをしていても気がつかない。
ほかの入居者は気がついた人もいたが、あまり興味をを示すわけでもなく、みんなは黙々と食べていた。

母の日だから今日は訪問者が多いかとおもいきや、意外と誰もいない。食事どきという時間のせいかもしれない。ソファーに座って、大画面でNHKのど自慢を見ていた。

食事が終わりトイレに行ってきたのを見てから、私はやっと声をかけた。

おだやかな顔だった。この前行ったとき、いきなり**ちゃんをいじめないでね、と私に怖い顔でにらみつけた。いじめてないよと私。この会話は何度したことだろう?

一番大事な孫のことを常に気にかけている。いじめないで、と言って、さらに私が持っていった、初夏用の着替えを見て、こんなに洋服を持ってきてどうするの? となじった。ここにいつまでもいられないでしょう? とも。
その日、私はそうそうに帰った。

でも、きょうは、洋服をタンスにしまっておくね、と言っても嫌がらなかった。
大体食事はよく食べるほうだが、今日はおかずをたくさん残していた。
私が持っていった、ミニトマトは部屋に戻ってから食べたのだが、口をゆすいでいたと思ったらすぐベッドに入った。
そうか、今日は眠たいモードなのだ。

娘もカーネーションが入った小さな花束を買ってきた。娘が声をかけたら、ちょっと嬉しそうにして花も認めたようだった。花を娘と飾っているうちに母はもういびきをかいて眠ってしまった。

新潟の自分の家にいるとき、ディーサービスに行かない日は、共稼ぎの妹夫婦は留守で1人で寝ていた。認知症が進んでからは、1人で外に出られないように戸締りされていたので寝るしかないとも言えた。
その結果、昼間寝て、夜は眠れないというパターンに陥ったりしていた。

我が家に来ても同じだった。昼間散歩に誘ってもほとんど出かけるのを嫌がってベッドにいるときが多かった。

ホームだったらある程度、リズムのある生活になるかも、と思ったがそう変わらない生活のようだ。何しろガンコだし、子どもではないのでしょうがないのかな。

100日も眠ってないんだよ、という数日とよく眠る数日と交互に繰り返しながらの日々は続くのだろう。

2008年5月8日木曜日

脚本家と認知症の母

荒唐無稽なお芝居の話しの続き。

荒唐無稽という言葉は私が言っているのではない。チラシに書いてあったのだ。
たとえば、老婆に拳銃で打たれた人々が生き返るシーンがあった。

これってうちの母が常に言っていることと同じ?

母は昔のことはともかく最近になって死んだ人のことはよくわからない。
だれだれの母親が死んだ、とか、親戚のだれだれが死んだとか、話して聞かせて、わかったのかなと思っていても、あの人は生き返ったんだって、だれだれのお母さんも生き返ったんだって、近ごろ、生き返るのが流行っているみたいだよ、とあっけらかんと言う。

母が一番愛している末っ子の息子(つまり私の弟)の子どものことを、おうおうにして、たった一人の孫、などと言う。

私たち姉妹3人にはそれぞれ子どもがいる。うちの2人の子どもを含めた母の5人の孫は全部母と姓が違う。弟の家族だけが母と同じ姓だ。だからたった一人の孫、というのもまったく間違いとも言えない。

そのかわいい孫がいじめられる、誰か助けて~ と時々夢か妄想かによって叫ぶ。

孫を心配するあまりこんな表現も使う。

***に川に沈められて3日3晩何も食べさせられていない。足をポキポキ折られているんだよ。

そうそう簡単にカニではあるまいし、足をポキポキ折られるわけがないだろう!


芝居の荒唐無稽の場面はたいがい夢か現か、といった設定だ。

脚本家の頭の構造と認知症の母と似通っている点があるのでは? 

芝居を見ながらぼんやり思っていた。

実際、母の世話をしばらくみた私の連れは、すごいな、おばあちゃんの話は本になるね、とよく言っていた。妄想によって、独り言が続くとき、もうその話しは聞いたから今度は違う話をして、とリクエストをしたりしていた。

もちろん母はその意味は理解していない。

2008年5月6日火曜日

ご近所さん

連休も出かけていた。

今日は遠出する予定がなかったので、ゆっくりとした朝を迎えるはずだった。
がご近所から「お茶しない?」と連絡があった。
じゃ、何分後にと伝え、その時間に降りた。

我が家は3軒長屋だ。いや、落語に出てくるような横並びの長屋ではない。
集合住宅なのだが、縦の3軒長屋なのだ。そう呼んでいるだけだが。

我が家は4階、その真下の3階、さらにその真下の2階同士、まるで長屋のように自由に行き来している。

私が一番忙しくしているので家に居そう、となると、すぐに声がかかる。
あるいは我が家に押しかけてくる。
正直、たまに家にいるときは用もたまっており、お茶どころではないときもあるのだが、私が愚痴を聞いてもらいたいときは自分の都合で声をかけるからお互いさまだ。

母が居る間も、何かとお世話になった。遠い親戚よりご近所さんである。

今朝も久しぶり(数日ぶりだが)に元気を確認し合い、どうでもよい話をして心を和ませて4階に戻ってきた。 ややあって、ピンポーン。
玄関に出て見ると「家で携帯が鳴ってましたよ~」と2階の人が携帯を持ってきてくれた。

これだからな~、と夫がアホな現場を見て、うれしそうになじった。
どっちが母に近いかあるいは母を超えているか、しばしば論争になる。

ところで、長屋ほどの付き合いではないがほかにもご近所さんはいる。
今日はご近所の1人が芝居の楽日ということで、見に行ってきた。

彼女が芝居を始めたのはたしか10年ぐらい前。
初舞台は一緒に活動していた市民グループのメンバー全員で見に行った。
芝居には詳しくないが、前衛芝居とでもいうのだろうか。ドタバタ喜劇というのだろうか、ちょっと驚いたが私はきらいではなかった。

しかし、その後、みんなでは行ってない。1人でも行ってない。

今年はうまい具合に行けそうだったから最初から行く予定にしていた。
でも結局最終日になった。満員だった。
作・北村想 演出・流山児祥 楽塾公演<奇想天外の「叙情歌に彩られた」SFファンタジー歌劇?!>と銘打ってある。

楽塾のための書き下ろし作品だとのこと。そう言えば、初舞台は男性が2,3人いたが今日は流山児祥以外は男はいなかった。落ちこぼれたのか?

私のご近所さんは前科何犯の老女役。
髪を逆立て不貞腐れた演技が際立っていた。
似合う。

劇中、老人の犯罪について触れていた。若者の犯罪が多いとメディアでは報じられるが実は老人の犯罪はここ数年で7倍だとか!
老人人口は2倍増だそうだから人口増加のせいではない。
しかし、どこも老人の犯罪については触れない。
知られないようにひっそりと報告書に載っているだけだ。

舞台は、ゴジラ、オキナワ、ヒロシマ、戦争、夢、5次元など夢かうつつかわけのわからない世界が繰り広げられた。


10年前、突然、演劇をやろうと思う、と聞かされたときみんな一様に驚いた。

え? 今から?

もうとっくに40歳を超えていた。

何でも主宰者の流山児祥さんは劇団員募集の要項に40歳以上という条件をつけたらしい。
彼女が言うには、若い団員ばかりだといろいろ言葉や思いが伝わらないことも多くてくたびれる。
本業のプロの芝居のほかに言葉が通じ合う人を集めて芝居もやってみたかったみたいよ、と。

どこまで本当かどうかわからないが年齢制限があったことは事実。
そのうち楽器もやりだし、アマながら本格的な芝居へと技を磨いていたのだった。
今日、演技を見て、歌を聞いて、それがわかった。

いま劇団員の平均年齢は56歳とか。楽塾では今年久しぶりに新人を募集する、とチラシに書いてあった。
応募資格はただ一つ。年齢45歳以上。

応募してみようかな? いやいやそれはない。

2008年5月4日日曜日

年金未受取人

きのう、久しぶりに友人と会った。
年金未払いに対して、もらうべき年金がもらえてない人はなんと呼ぶのだろう?
新聞などでなんと書いてあるのかわからないが友人はつまりいまだに受け取っていない。

今年、74歳ぐらいの人だ。とっくに受け取るべき年齢に達している。
若いときは知らないが、私が知り合ったとき塾講師などをして生計をたてていたから安定していたとは言えない。それでも本人は受け取るだけの期間は払っていたという。

それが払っている期間が足りない、と言われた。足りない分を払うと言ったが期間が足りない人は払うこともできないという(もう一人自営の友人が同じようなことを言っていた)。

払ったと思う、と言ったら、では、領収書などを出せという。独り者で引越しを繰り返していたのでなかった。普通は何十年も前の領収書などとってない。

この話しを聞いたのは今の未払い問題が起きるずっと前のことだ。
これだけ騒がれているのだからもう片付いたか? と思っていた。

とんでもない。問題が大きくなってからも申し立てをしたがナシのつぶてだという。
今、あまり体調がよくないのでどこに訴えたら有効か、よく調べてしかるべきときにまた行く、とのこと。
わざわざ行かなくとも手紙を出したら?と言ったら、担当者の目の前に手紙を持っていったのよ!!
それなのに、と。

私の母は85歳で福祉年金というのをもらっている。
何歳以上か知らないが、70歳代の人はこの福祉制度からはずれているらしい。友人は働いていたから本来はもらえるべき人だが、この年代の人たちは無年金の人がかなりいるようだ。

そして、この年代の人たち以上で年金をもらっている人は60代の人に比べたらかなりの額を年金として受け取っている。
何十もの格差社会だ。

別れるときの友人の背は丸くなっていた。
足も痛くお腹も持病を抱えている。
年金は間に合うのだろうか・・・・・・。

2008年5月1日木曜日

ひ孫、孫、娘2人、母

グループホームへ入居の日、新潟から姉と姉の孫がきたが、あれから約1か月後の今日、また凸凹コンビは新幹線に乗ってやってきた。

姉は太っている、孫は4歳で細くて小さくてかわいらしい。


ちょうど娘もそろそろご機嫌伺いに行こうかなと思って午前中休みをとっていたという。
フリーターの娘は気楽なものだ。

この前母は、ここは出してくれないんだよ、と訴えていたから、お昼をみんなで外で食べることにした。

ホームには外泊も外でのお昼もあらかじめ伝えておけばOK。

母が我が家にいるとき、私以上に面倒を見てくれた夫は顔を見に行こうとしない。

どこで仕入れた知識かしらないが、あまり会いに行かないほうが本人のためだという。外でお昼など、とんでもないと。

一足先に行っていた娘が話しをつけていて、外で私たちは待ち合わせた。

街中(まちなか)ではないのでお店は少ない。グループホームから歩いて5分ぐらいのところにあるファミレスに入った。8時ごろの新幹線に乗ってきた姉達もすでに着いていた。

母は、たらこスパゲッティとサラダとそこそこ食べた。約半分は娘が食べた。なんてったって昔の人なのでご飯が一番好きだが、肉類や油っぽいものが好きでないのでごはんに合うようなおかずはファミレスでは選べない。それでスパゲッティになったらしい。

ホームでも朝、パンのときがある。パンだった後に行くと、ここはずっとパンなんだよ。ご飯が出ない、と訴える。


スパゲッティを食べた後、姉が持ってきた笹団子、テーブルの下で皮をそっとむいて出したら、ぺろっと食べた。


姉の孫(ひ孫!)のことはかわいい、と思っているみたいだ。娘のこともわりとおとなしく言うがままにうなずいている。私とは・・・  元気? とあいさつしたとき、ぶすっとしていた。娘がそれを見て、ちょっと不満そうだねと。うん、不満なんだよね、と私。

でも今日はおとなしい。あまり反論はしない。娘がいろいろ聞かなければ耳も遠いので話しに加わることもない。

私達はいろいろおしゃべりをして、満足してレストランを出た。

そのまま母は素直に歩いてグループホームに無事戻った。

なんだかあっけなかった。これなら遠出もできるかもしれない。

ま、波があるから、いつがおとなしい日でいつが興奮する日か、というのは直前までわからないが。

みえない雲は「映画」だったね

ヘンな言い方だが、友達が普通の映画だったんだね、と言った。
これだったら、映画館で見ればよかった。音響が違うでしょう? とも。

よい映画だった。衝撃を受けた、映像のすばらしさに感動した、とアンケートを書いたほとんどの人が礼賛していた。何人かは、思ったより、とか、ドキュメントではなかったね、とか、書いていた。後日メールで感想がきたり、手紙が届いたり、映画の評判は想像以上によい。

池田さんは、主人公ハンナ役のパウラがチェルノブイリ原発事故の年に生まれていること、パウラ自身が障がいを持って生まれたこと、そのハンディを感じさせない俳優であることなどを話された。
また、ピカソのゲルニカがうつる映画の中の場面についても触れ、おかげでゲルニカを見逃さずにすんだ、とアンケートには感謝の声もあった。

もう少し後になるが、子ども基金のホームページにこれらのアンケート、できるだけ掲載したいと思う。

ほんとに何でヒットしなかったのだろう。

原発、という言葉だけで敬遠されてしまったのだろうか。

原発の反対につながるような映画は国策に反するから、マスコミの取り上げ方も鈍かった?

今からでも遅くない、多くの人たちにこの映画と出会ってほしい。

「もっといろんなところで上映してください」
「(私の住まいの)近くでやってください。そうしたら友達も誘えるから」
などとアンケートに。

応えられるものなら応えたいんですけどね~