2014年10月30日木曜日

バラの花を手にしたジーマと8年ぶりに再会




ディディンコ・ジーマ、かつて私が支援したチェルノブイリの子どもの名前。
今回ベラルーシのゴメリで彼と再会した。れっきとした28歳の大人になっていた。

チェルノブイリ子ども基金は1996年から甲状腺手術後の子どもたちだけの保養プロジェクトを実施している。計画したとき、私は事務局スタッフだったが、実際に実施されたとき、私は事務局を辞めていた。

広河隆一さんの保養報告会には一人のボランティアとして参加した。

ミンスク郊外にある保養施設「希望」で保養する子どもたちの楽しそうな様子をスライドを通して目にした。97年の保養プロジェクトでは日本ウィークがあり、赤いTシャツを着たジーマは、日本人ボランティアAさんのヴァイオリン教室に参加していた。やんちゃな感じがいっぱいの子どもだった。

「彼の家はとても貧しい」という広河さんの言葉が赤い洋服と共に頭に残った。

チェルノブイリ子ども基金は、一人の子どもを1か月約50ドルの支援をする寄付者を募っていた。一般に言う里子とは違うのだが、決まった額を一定期間寄付してくれる人に対して里親と呼んだ。

彼の里親になりたいと手をあげ支援を続けた。私が支援を始めて間もないころ、彼の母親から手紙が来た。筆不精の私はすぐには返事を出さなかった。結局は、遅れて出したのだがその後着いたかどうか定かではない。そのころは郵便事情も悪かった。しかし、もらったらすぐに返事を書くべきだったとあとでずっと後悔することになる。

母親はアル中で、施設に入ったということを現地のパートナー団体から聞かされたからだ。貧乏から逃げるため、あるいは、家族の病気から逃げるため、アル中に走る父親はよくある話だ。もう少しマメに交流していたらあるいは違ったかもしれないと思っている。でも今となってはどうしょうもない。

幸いなことに、おばあちゃんが近くの村にいて、何かと支えになってくれたようだ。父親もそのころはまじめだった。だったというのは父親も後年アル中になったと、最近聞いたばかりだった。

8歳ぐらいのときから10年近く、里親として支援したが、現地団体から、ジーマの家ではお金を子どもの健康のために使っているかどうかわからないから、支援を止めたほうがよいと言われたが継続した。事務局を通しての支援を止めた後、ベラルーシ在住の日本人Hさんを通じて支援を続けることになった。すでに働いてもいい年頃だったので、ジーマ本人がHさんからお金を受け取ったりしていたが、Hさんからも彼が真面目ではないので、支援を止めたら、との助言があった。それも聞かないふりをして、3年間ぐらい続けた。

2006年、チェルノブイリ20周年のとき、広河隆一さんの写真展をベラルーシで開くためボランティアや里親たちが手分けをして、大型写真を運んだことがあった。そのとき、初めて私はジーマに会った。すでに、背の高いヒョロッとした若者だった。

ほかの里子やその家族はおみやげを持ってそれぞれの里親と対面した。ジーマは一人だった。おみやげもなかった。でもとても喜んでくれた。帰り際、明日の出発の際には駅まで見送りにくるから、と言って帰っていった。翌朝、ジーマは来なかった。

そのジーマが赤いバラの花を手にして現れたのだ!

「あんた、日本の里親のこと覚えているの?」と代表のパホモワさんが連絡をとったとき聞いたらしい。「覚えているよ。小さな人だった」、「こぎれいにしてきなさい」とパホモワさんに言われたとおり、こぎれいな身なりだった。

今回、パホモワさんも久しぶりにジーマを見て、きちんと仕事をしている姿だ、と喜んだのは言うまでもない。

自動車の修理工として働いていて、結婚はしていないが、彼女と住んでいるとか。弟は結婚して子どもが生まれた。自分はおじさんだよ、と嬉しそうに話してくれた。そういえば、私の娘が「希望」にボランティアに行ったとき、自力でゴメリのジーマの家を訪ねたことがあった。娘にも子どもが2人いる、と伝えたら、それはうれしい、と喜んでくれた。

帰り際、手をにぎったら冷たかった。子どものころから冷たいという。そうだ、彼は甲状腺ガンだったのだ……。

                              (反原発井戸端会議ネットワーキングニュース「I・do」に掲載したもの)