2008年7月31日木曜日

岡山産の白桃

母の施設で初めてのおおがかりなイベント・納涼会が8月にある。

お誕生会、七夕会、など、子どもの保育園のときの行事と同じだ。

子どもに返るというからこれでいいのかな・・・

納涼会のあと、家族会がある。
この前あったのは家族会ではなく運営会議だった。

家族会では職員のみなさんが手作りの夕食をごちそうして
くださる、という。

用意があるので何人いらっしゃいますか? ときかれた。

8月上旬、大阪の弟の連れ合いが母に会いにくることに
なっている。
納涼会にあわせて、というのは難しそう。

姉に連絡取ったら孫なしで自分だけ来る、と。

母は最近落ち着いており、というか薬が効いていて、
おとなしい時が多い。
私も暑いせいもあり、土日のどっちかと平日のどこかという具合で
顔を見に行くのも週に2回ぐらい。

暑いので散歩もあまり出ていないようだ。
食事以外はやはり寝たがる傾向が変わらないので食事が終った直後、あるいは10時、3時のお茶の時間前後に
あわせて行くようにしている。

弟の連れ合いから桃が送られてきた。皮を剥くと桃はすぐに色が変わってしまうので丸のまま、ナイフと共に持っていった。

とうもろこしのときは小さく輪切りにして6人の仲間の人たちにあげたときがある。幸いみなさん、義歯であっても食べられる人ばかりだ。が、桃はそろって食べるのが難しいのでTさんだけ声をかけて部屋に入ってもらい、母と共に食べてもらった。

2人ともおいしいと大喜びだった。特にTさんは上等ですね、最高ですね、と言ってくれた。

気持ちもなごんだと思いきや、母の口からは○○ちゃんをいじめないでね、という言葉が。
最近はそういうことを言わなかったのでもう○○ちゃんのことは忘れたのかな、と思っていたがそうではなかったのだ。

たまにそういう言葉も聞かないと、母らしくない。

2008年7月26日土曜日

神楽坂阿波踊り

いや~楽しかった。

初めて見た神楽坂の阿波踊り。
今、子ども基金は企業向けの募金呼びかけを行なうための作業の真っ最中。
宛名は手書きで心を込めて書いたほうがよい、というアドバイスを受け、ボランティアの手を借りて、多数の企業の中からの名簿抜粋、宛名書き、内容物の印刷、封入と一連の作業だが、要所要所でチェックをしないと転記ミスやファイルもれなど、ミスはどこにでも落ちているものだから慎重に進めている。

この暑さ、事務局員(約3名いる)をねぎらってくれるというキトクな方がおられて、金曜の夜、夕食会が予定されていた。

この日の発送物100通をメール便に委託し6時半ごろ事務所を出た。

何せ、神楽坂はお店が満載。どこにしようか、選ぶのも楽しい。

あちこち裏通りも物色した。
毎日のお昼は弁当持参なので私たちは外であまり食べない。
どこも入ってみたいお店ばかりだった。

そうだ、これから阿波踊りがあるのだから見える場所にしょうと提案し、老舗らしいのだが、いつもあまり人が入っていない角の洋食屋に入った。

中もなかなかよい雰囲気だった。
どんどん混んでくるのかと思ったがそうでもない。
通りにはビニールシートを敷いて待っている人々がいる。
私たちは通りに面した一等地で食事をしながら踊りを待つことに。

お料理はすごくおいしいとは言えないが、まずまずの味。
値段も高くない。
なんで空いているのか不思議。

きたきた~

先頭はなんだったか? もう連の名前を忘れてしまった。

高円寺連、浜松連、目黒連、練馬だいこん連、ひょっとこ連、地元厚生病院連、新宿区役所連、粋連、神楽坂商店街連・・・ぞくぞくと続く。

料理をそっちのけで見入ってしまった。

すいているのを幸いに、外に飛び出したり、中に入って食べたり、行儀が悪いことこの上ないが、楽しませてもらった。

ん? 通りの向こうを見るとIさん一家が。
姉妹とお母さん。
息子とお父さんは連の中のお囃子隊にいる、という。

ちょうど来週からベラルーシに行くスタッフが写真を撮りだした。音も聞かせたい、とムービーモードでも。

とうとう食事もそこそこに切り上げて外に出た。
いやいやコーヒーまで飲んだのだから、食事も十分満足した。

お店の中だとテレビ画面の感じでやっぱり外の雰囲気は違うね、と。

チビッコも若者も踊りに混じっている。

ところどころで見せ場を作って特別な踊りも披露する。

なんと犬まではっぴを着てる。

母のようなおばあちゃんが車椅子で沿道にいた。
踊っている人がめざとくみつけて近寄って握手をしたらおばあちゃんは大喜びで握手を返していた。

座っている子どもたちは目を輝かせて見ている。
たまりかねて踊りだす子どもも何人かいた。

外国人もいた。

通りの周辺は住宅街という神楽坂ならではの光景かもしれない。

ふと、田舎の祭りはどんどん沈んでいるところが多いのだろうな。
楽しんでいる一瞬、申し訳なく思った。

今日は6時から子ども大会。7時から9時までが大人の大会。昨日とは違う連も登場するそうだ。
子どもは文句なしにかわいい。子どもが総勢700人もでるという。できることなら今日も見たいが連日遅い帰宅では疲れるし家族にも気がひける。
来年のことを言うと鬼が笑うが来年は予定を立てて、できれば2日間見たい。

2008年7月19日土曜日

忙しい反核運動

この1週間、だけではないが、さまざまな反核運動があった。

16日は中越沖地震から1周年。この日だけでも都内でこんな取り組みがあった。

○「柏崎刈羽原発を廃炉に」要請行動(7/16お昼 東電前)  ○東電株主議決権行使書閲覧(7/16東電内)  ○再処理工場・ガラス固化問題で保安院交渉(7/16午後議員会館)  ○経済産業省原子力安全・保安院前で抗議活動(7/16夕方)  ○中越沖地震1周年集会(7/16夜 総評会館)

私が参加したのは16日の脱原発東電株主運動の閲覧および書き写し作業と夜の中越沖地震1周年集会。


閲覧のほうは来年の議案提案に生かすために、今年の議決権行使書からこちら側の提案に対しての賛否を調べるもの。 株主の正当な行使だ。


午前中は母の薬をもらいに行ったので、お昼に東電前で行なわれた、抗議行動には間に合わなかった。このときの様子は夜のテレビニュースで報道があった。

新潟日報では東電本社前で市民団体による「廃炉を訴える行動があった」と報じていたようだが首都圏の新聞には、たぶん載らなかったと思う。

17日は 、「もんじゅ」再開へ向けてのプルトニウム燃料輸送(陸送)に反対の「監視行動」があった。
普通の乗用車に混じって猛毒のプルトニウムがトラック輸送されている、ぜひ多くの人に知ってほしい。
フォトジャーナリスト森住卓さんのブログにこの日のことが掲載されている。
http://mphoto.sblo.jp/

19日は原子力空母の横須賀母港化を許さない全国集会。

かつて、『東京に原発を』という広瀬隆さんの本が広く読まれたときがある。まさにそれと同じ状態になるわけだ。原子力空母ジョージワシントン号は原発1炉分に相当するという。そして1年の半分は横須賀に停泊するというのだ。

まだ19日の報告は載っていないが、横須賀市民の動きが詳しく書かれている。
原子力空母の横須賀母港問題を考える市民の会
http://cvn.jpn.org/cvn/

何とまあ次から次へと核問題が起きることだろう。まるでもぐら叩きのようだ。

2008年7月16日水曜日

長寿医療保険

きました~

何が? 

後期高齢者保険、いや違った長寿医療保険の請求書が。
名前がどうとか、廃止するとか、見直すとか、結局どうだったのかな? と思っていたがきたからにはとりあえず、名前だけ変えて実施したんだ。封筒には長寿医療保険と書いてあって後期高齢者医療保険がカッコ書きに。
同封のパンフレットや説明文、請求書などすべて後期高齢者と印刷済み。
直したのは封筒の宛名だけだったのだ。

でも、ちょっと前に介護保険請求書というのもきた。
え? これってダブり?
いえいえ、介護保険代は65歳から払い、75歳からが後期高齢者保険代も支払う。その代わりに医療保険代は不要となるというもの。じゃ、介護保険代は65歳未満の人は払ってないかというと医療保険代(国民保険や他の健康保険)に含まれているようだ。

今まで母と一緒にいたわけでないので、関心がなかった。この国民の関心のなさがいけない。だから、そこにつけこまれて、気がついたらとんでもない制度ができていたりする。

ご近所情報によると特別養護老人ホームに入っているお母さんの費用が、減免申請をしたら毎月の費用が半額になったという。月、6万円ぐらいの年金をもらっていて、その範囲内の費用になったということである。つまり独立の世帯ということにした。4月に入居するときは知らなかったので施設に言われるままに支払った。調べたか誰かに教えてもらったかで手続きしたらこうなったというのだ。

母の場合はどうなのだろう? 月、3万円余の年金がすべての収入である。グループホームと特養では扱いが違うのかもしれない。何とか私たち子どもで分担しているが、払えなくなったら特養に入れてもらえるのだろうか?
市内で来年春開設の特養ができるそうだ。申し込んでおいたほうがいいか、と少し心が騒ぐ。

しかし、ようやくホームになじんできた気配。いられるだけ今のところにいたほうが母にとってはいいだろう。
薬の力を借りてではあるが。
笑い顔もよく見ますよ、と職員の話。庭に職員の方がキュウリ、トマトなどを作っていて、朝、散歩のときに母たちが摘んだりしている。それを母がさっと洗ってシソと一緒にキュウリもみを作ったとか。お母さん、さすがに上手ですね~。塩だけだったのですが、おいしかったですよ。と話してくれた。

七夕の短冊に保育園などと同じく願い事が書いてつるしてあった。
見てください、お母さんはしっかりしている文字で内容も立派ですと、職員の方が教えてくれたのには自分の名前もはっきりと、こう書いてあった。

「今後共長生きをさせて頂ヾき、一生県命でまなかい婦をやらせて頂ヾきます(原文ママ)」○○○

2008年7月8日火曜日

施設見学(つづき)&サミット

みんなの家の階上は有料老人ホームとなっていて、2階、3階、4階それぞれに個室19部屋ずつある。
2階から順に症状の重い人が入っている。

2階はざっと見学。3階でお茶をいただき見学と説明を受けた。 食堂(居間?)にはいくつかのテーブルに数人ずつの人たちが歓談していた。 男性もいるのだがテーブルにはいなかった。新しい施設のため男性が女性のようになじむには時間がかかるのかな?

1階の母のところはあまり会話は弾んでいないが、食堂のテーブルにはいつも男性も女性もいる。

個室もオープンになっているところは部屋の外から見せて説明してくれたが、見学の人がときどき来るのはいい気分はしないだろうな。
おじゃまします、とあいさつをしたら、その場に居た人たちは気持ちよく笑顔でこたえてくれた。

説明によると「要支援1」以上の人でないとこの施設には入れないそう。では、友だちはゆくゆくは、と思っていたが当分該当しないようだ。

私たちがお茶を飲んで長居した3階は認知症の軽い人たちが入っているが、お互いに会話を楽しんでいた。

その後、4階に。そこでは3,4人の人がそれぞればらばらの椅子に座って大きな画面のテレビを見ていた。ちょうど洋画をやっていた。

職員の人が、症状が最も軽い人たちはあまり話をしないのです。不思議ですね、と。
私たちがあいさつしても迷惑そうに思っていることが伝わってきた。

映画を見たくない人は部屋に入っています、と言っていたが、健康に近い人が新しい場所で一人で1日を過ごすのは辛いだろうね~
とつい、自分の母のことは棚に上げて思ってしまった。

隣町に住んでいる友人のところは家族で暮らしているが、認知症のある母は、ディサービスを週に5日利用しているので何とかやっていける、と言っていた。でも、夜は父親の死後、母親は1人で寝るのが寂しいと訴え、友人が隣の部屋で寝ているとか。

認知症になると、自分がどう過ごしていいのかわからない。テレビもほとんど見なくなる。
しかし、これは認知症だけでなくうつ病の人にもあてはまる。

久しぶりに北海道にいる友人から電話があった。
しばらく連絡がないから元気かどうかと思って電話しただけ、とのこと。
ロシア人の彼女は日本人と結婚して東京に住んだ後、連れ合いの転勤により、北海道に移った。北海道でも最果てに近いところ。北海道には行きたくない、とさんざん言っていたのだが、住めば都、たまに東京に出てくると、人が多くて東京はいやだ、と言う。そうでしょうね。

しばらく近況報告を。彼女のお連れ合いはうつ病で5年ぐらい経っている。仕事も辞めてから長い。
どう? 少しはよくなったけれど、どこにも行きたくない、ただ、寝ていたいだけだと。
そう言えば、母が認知症になる前にうつ病になった。あるいは痴呆が始まりだしていたのかもしれない。そのときは食欲がなく、寝ていたい、あるいは死にたい、ということを言っていた。顔色も悪かった。
今は食欲があり、顔色がいいからうつ病からは脱したのではないかと思っている。

北海道の彼女の家にはロシアから連れてきている母がいる。
ビザの関係で行ったりきたりを繰り返しているが1人暮らしのため、心配なのと、日本に呼んで家事をやってもらっている。大勢の家族を支えている彼女は仕事をバリバリしなくてはならない。カニの売買、中古車や家電品の売買。北海道にはカに漁で船員が多くきていた。そういう人たちを相手に商売をしていたが、今はカニ漁はダメなのでどういう人たちが相手なのだろう?
北海道は何かとロシア人の往来が多いのだろう。

彼女の2番目の子どもの話しになった。親元を離れて札幌でアルバイトをしながら大学生活を送っている。サミットで働いている。 え? サミットは私のところの駅前にもあるが? と頭の中・・・
洞爺湖サミットで通訳している。
あ、そうか。そうだね、大学生だものね。
で、英語? ロシア語? 
英語は話せないからロシア語。ふーん、そうか、すごいね。
うん、すごい。24時間体制で、詰めっきりだって。 何かあったら怖いけどね。

3番目の子どもが生まれたとき、私を頼って、我が家の近くでお産をした。今は大学生の彼は小学校3年生ぐらいだった。夏休み中で近所の学童にお願いして通わせてもらった。ほかの子どもたちと一緒にプールに行ったりできて楽しんだ。そのときは日本語は片言しか話せず、英語が話せた。諸事情により、母親と離されてヨーロッパ人の父親がロンドンの小学校に入学させていた。2年間ぐらいロンドンで生活したということだった。私のところに来たときは母親が引き取った直後だったのだ。その後、ロシアのおばあちゃんのところで過ごし、たまに日本に来て、という生活だった。だから、ロシア語は話せても英語はすっかり使わないうちに忘れてしまったらしい。

高校生になって日本で暮らせるようになり、今は下宿生活とは言え、母親の庇護の元だから彼にとっては幸せな毎日だと思う。

波乱万丈の彼女の生き方は一篇の物語になると思うほど。
彼女から電話がくると、また何か頼まれごと? とつい身構えてしまうが、いつも前向きなバイタリティあふれる生き方には学ぶことも多い。

2008年7月7日月曜日

施設見学

母のいる施設へ近所の人と一緒に正式見学を申し込んで日曜日実現した。

一緒に行った1人は、九州にいる両親を数年前に相次いで亡くしている。
亡くなるまえの数年間、両親の元へたびたび通っていた。
実家には独身の妹さんがいらして、両親と暮らしていた。
ディサービスを利用していたが、やはりときどきは息抜きも必要だったし、入院という事態も何度かあり、お姉さんがかけつける必要があった。

通っている間に、今度はお連れ合いが病気になり、2年前に夫さんも亡くなられた。
九州に1人残った妹さんを迎えて一緒に、あるいは近くで暮らす、という計画があるようだ。妹さんも知人もそれぞれ気ままに過ごした2年間があるので、元気なうちは一緒というより、スープの冷めない距離に住むのがいい、と思っているとのこと。

今の住まいを売って、ゆくゆくは介護付きの老人マンションに、という希望がある。
それでいろんな場所をみてみたいのだ。

もう1人の人は、九州とは反対の北海道に義父がいらっしゃる。93歳だという。至って元気。単身赴任でアメリカに長くいらしたお連れ合いが定年になって帰国されたが、自宅にいる暇もなく父親と暮らすために北海道に渡った。(何と見上げた夫さんだ! 亭主丈夫で留守がいい、を地で行っている人だ)

今は元気だが痴呆が始まらないとも限らない。そうなったらこちらに引き取らざるを得ないと覚悟しているとのこと。ということは夫さんも戻るのだ。

母のところはグループホームで入居できる人は市内在住者に限っている。

2階~4階までは、介護付きの有料老人ホームになっている。
1階のグループホームとは内容も料金も違う。

上は母のところより5万円ぐらい高い。完全介護つきで、部屋にトイレがついており、家具もちょっと高級そうな感じ。

2階は重い人たちが多いのでざっと見て3階へ。 4階は要支援1の人。一番症状が軽い人たちが入っている。

続きはあした。最近根気がなくなった・・・。

2008年7月4日金曜日

今年の東電株主総会 (つづき)

6月29日付けのつづき。ほんとは編集したのがアップされる予定だったのだがなぜかエラーになりとんでしまった。だからまだ下書きのつもりだったのがアップされている。そのままでそれに足すことにする。

総会には10時10分ほど前に到着した。代読の役をおおせつかっていたのでもっと早く着いているべきだったのだが、開業以来トラブル続きの副都心線がこの日も少し遅れたのと、乗換駅がものすごく不便で思ったより時間がかかった。会場の最寄駅は大江戸線の芝公園か赤羽橋。大江戸線が副都心線と交わる駅が東新宿で、ラッキーと思ったらそうではなかった。乗り換えホームまで延々と歩かなくてはならなかった。やっと乗ったと思ったら都庁どまり。また乗り換えた。そして電車はやや戻る感じで目的地に向かっていった。実は、ネットで乗換えを調べたときに、新宿3丁目で新宿線に乗り換えて新宿に行き、そこで大江戸線に乗り換える、と表示されていたのだが、れっきとした大江戸線の乗換駅があるのに何で? と従わなかったらやっぱり遅かった。

日比谷だったらよかったのに、と今年も思った。
10時ちょうどに総会は始まったが入場者はまだ続々と詰めかけていた。3000人ぐらいの入場者?昨年は一般席にいたので壇上の面々は豆粒のようだったが、今年は前のほうに用意された提案席に座った。スクリーンを見なくとも顔はよく見えた。 女性の役員は今年も1人もいない。

最初に思ったのは勝俣社長、やつれたな、ということだった。
それはそうでしょう。地震直後の強気の発言から、徐々に風当たりは強くなり本人も自覚したと思う。しかし、事前質問や当日の質問で地震被害のことが出ても、東電側は機器は正常に作動し、その結果大事に至らなかったとまるで他人事のような答え。

柏崎刈羽原発は中越沖地震のとき以来止まったまま。電気は足りているので、大事に至る前に、ぜひこのまま停止してほしいと願うが。
昨年の総会直後のできごとなので、一般株主はすでに忘れているのか?

CO2削減に関しての質問や役員に技術畑の人が少ないことへの不満など、私たちのグループ以外からも質問が相次いだが、地震関連や放射能事故を心配する質問はなかった。

そうそう、いつからか調べてないが、東電は副社長が6人もいた! 何かあったら責任を薄く広く分担するつもりなんだね。

2008年7月1日火曜日

みんなの家 家族会

土曜日に家族会がある、ということでかなり前から期待していた。
同じようにお義母さんを有料老人施設に入所させている友だちからは、いいわね、あとで、様子を教えてね、と言われていた。

午後の予定だから、1時か2時ごろだろうと、勝手に思い込んでいた。
土曜日は「みえない雲」の上映会が都内であり、もう一度大きな画面で見たいと思っていたのだが、そちらをキャンセルして家族会に。

案内をよくみたら、3時半になっていた。そうか、お昼の前後やらおやつの時間やら、入所者や職員の時間の兼ね合いでそんな時間になったのか。

早めに行って食堂でほかの人と話したり、きれいに飾り付けられた七夕飾りを眺めたり。竹はきょうとってきたと職員さん。かなり豪華な竹だった。七夕飾りを楽しんだ年代ではないのに、保育園と同じような行事でいいのかな? 5月には新聞紙で兜を作って頭に載せた写真が壁に貼ってあった。

でも、子どもに返るというから、いいのかな? 飾りをみたりするのはうれしいのかもしれない。

さて、いよいよ会議。
みんなの家は一つのフロアに2グループが分かれている。あちらのグループが母たちのほうにきて、会議はあちらのテーブルで行なわれた。

かなりの人数がいる。
席について進行の紙と出席者名簿を見て、驚いた。

地域の町会長、民生委員2名、地域の関連施設の人、市役所職員、オーナー側2、こちらのホーム長と職員と本社職員の計3名、それに「ご家族様」と書かれた2人。

私がきちんと読まなかっただけで、よく見たら「運営会議」と書いてあった。

家族と職員で話し合いをもつのかと思ったらそうではなかった。
だからほかの皆さん来られなかったのか?

同じ町内の仲間として、施設が位置づけられるのはいいと思う。回りの理解は必要だ。町内の夏祭りのとき、みこしは来られないが、お囃子隊は敷地内まで入ってきてみんなにふんいきを味わってもらいましょうかと町会長。

オーナーとというのは土地持ちの大地主さんで、今は土建屋さんのようだった。作業服を着た社長と従業員が1人来ていた。敷地内には樹齢何百年という楠木(市指定の木)だけがぽつんと1本残っていて、あとはすべて整地されているが、この辺は狸も出たんだよ、と前に地元の人が言っていた。

民生委員はいかにも、なんでも相談してくださいよ、というふうの女性2人。

市役所職員は若手の男性。高齢者ふれあい課というところの人。自分は普段は○○の書類担当で現場は慣れていません。今日は勉強のために来ました、と。慣れている人を寄こせばいいのに?

一番頼りになりそうな発言をされたのは、地域包括支援センターの女性職員。ここはどこの市町村にもある「社協」が運営している。
みんなの家にも近く、体操とかフットケアーなどの医療相談とか、入所者か職員が代表して行けば何でも相談にのってくれるという。

ちなみに入浴サービスなど私たちも利用できる。何歳からですかと尋ねたら60歳から誰でも利用できるとのこと。ふ~ん。

最後に「ご家族様」からの発言を求められた。隣の方は、「父の状態が良くなった、とても助かっている。ここに入る前、いかに大変だったか」と縷々述べられた。

出されたおやつ(わらび餅)は入所者も一緒に作ったという説明があったので、私は、団子作りなど得意だからどんどんやらせてほしい。草取りも得意だからそれもさせて、とだけ話した。

終ったあと、隣の家族の方から声をかけられて、やっと家族間のふれあいが少し実現した。

認知症と一口に言ってもそれぞれみんな違う。

彼女はいつも陽気に歌を歌っているおじいちゃんの娘さんだった。最近になって怒りっぽい、ということがわかった。将棋を1人で楽しんでいる人の側に言って、自分で勝手に打ち出して、思うようにいかないと怒り出す。相手の人は大人しい人なので喧嘩にはならない。職員の人が何とかなだめるとすぐに直るのはいいところ。
娘さんの話しを聞いてわかった。植木職人だったのだ。鼻歌を歌いながら植木を切っていたのだろうか。母と同じくこの人も草取りが得意だと職員の人が言っていた。

しかし、娘さんはよくなったと言っていたが・・・

実はこの前、夜の時間に母のところへ行ったとき、職員の人が机、テーブルなど、使っていない部屋に詰め込んでいた。くだんのおじいちゃんが8時ごろになると興奮して椅子などを投げ出すのだとか。一つ壊されたので、しまうことにした、と。
ま、興奮するのは毎日ではないだろうが、予兆があるときとないときとあるから予防しておいたに越したことはない。

なかなか難しいものだ。