2009年12月31日木曜日

終末医療とは?

いま、最期の力を振り絞って妹は病と闘っている。

だが、ほんとうに振り絞れるような環境にあるのか?

昨年亡くなった友と同じように足もお腹もパンパンに膨れていた。

ほんの5日前(12月26日17:00)まで本人から電話があったのがウソのようだ。

身内にガンで命を落とした人をたくさん見てきた姉は
だれだれが死んだときの○日前と同じだ、と言っていた。

おととい、私が行ったときはまだ少し話すことができた。
昨日姉が行ったときはほとんど話らしい話はできなかったそうだ。
呼びかけると応えようとするのだが、瞼が落ちて、それも敵わない。

姉は点滴の中の痛み止め(モルヒネ)の量が多すぎるのでは
ないかと疑っていた。

たしかに、私が行っているあいだも、痛みはほとんど訴えなかった。
痛みより、しきりにあちこちを無意識のうちに書いていたが、それは
痛み止めによる副作用らしい。

姉は経験が豊富で性格も肝っ玉かあさん的だ。

「点滴の中のモルヒネの量は少ないのか多いのか?」と看護士さんに聞いたそうだ。

「少ないとか多いとかという言葉では言えません。適量を与えています」

もし、心臓が止まった場合、延命措置をする必要はないがもう少し
モルヒネを減らして、気持ちというか本人の尊厳を残してほしい。
それによって少し痛みを伴ってもそのほうが人間として最後まで生きられる。
そういうことを希望したい、と私に電話で言っていた。

モルヒネの量について質問したとき、明らかにいやな顔を
されたので希望を言うことができなかった、そうだ。

もし、言ったとしても、その思いが医療者に素直に伝わるのか
どうか私も疑問に思う。

私の知人はお母さんが末期がんで亡くなるとき苦しむのを見て
いて、かわいそうで、 苦しまないようにしてほしい、と医療者に頼んだ。
そのためにお母さんの命を早めたのではないかと
数年たった今でも後悔の念にかられるという。

実際に苦しむのを目の当たりにしたら、見ているほうがどれだけ
耐えられるのか、疑問だが・・・。

苦しい、痛い、とすでに妹は何も言わないので、ガンになったら
苦しむ、という知識だけが入っている頭には不思議にうつる。

姉はガンになったら病院では死にたくない、と言った。
尊厳が残る形で死にたい、と。

難しい問題だ。

2009年12月22日火曜日

柏崎市へ申し入れ&友の墓参

風の強い22日、首都圏の消費者として地震により営業運転を中止していた柏崎・刈羽原発の営業運転をまだ認めないように、柏崎市長に申し入れを行った。

奇しくもこの日、刈羽・柏崎原発6、7号機の運転再開を新潟県知事らが認めた

ちょうど、市役所についたとき、運転再開を認めましたが 地元民としてどう思われますか?

といきなり入口に立っていた男性が聞いてきた。
新潟日報の記者だったのだが、
東京から来たのですが、というと残念そうに引き下がった。見ているとなかなかインタビューに応じている人がみつからないようだった。

待ち合わせのため市民コーナーに行ったがまだAさんはきていない。
ふと思って、記者に近づき、かくかくしかじかで柏崎までわざわざ
来たのだが、と話しかけてみた。
そうですか、とだけの返事。

次に、持っていたチェルノブイリ救援カレンダーを見せて、現在のチェルノブイリの様子を話し、カレンダーのことを紙面に載せてもらえないか、と話してみた。

カレンダーのことは関心を示してくれて、約束はできないが、
データを送って、ということになった。

そうこうしているうちに約束の時間が。
もう一人、福島からの友人も到着。

知事は今日予定があるとかで副知事が対応。
肝心のAさんはすでに副知事室に仲介してくれた市議と共に
部屋にいた。

副知事は、私はあまり詳しくないので、と正直だった。
Aさんの話には真摯に耳を傾けていた。

話の間、責任は国にあるので・・・、と
繰り返し述べていたが。

国、電力会社、自治体、それぞれに責任転嫁する姿勢は
変わらないようだ。


この日、もう一つの目的は友の墓参だった。
Aさんと共に「東電と共に脱原発をめざす会」の
代表世話人だった友は、昨年の今頃、病に倒れた。
柏崎のお墓に亡き父親と共に眠っているという話は
夏のころから聞いていた。

本来は嫁ぎ先のお墓に入るのだろうが、家族の思いやりか?
あるいは本人の希望だったのか?

最後までふるさと柏崎の原発の行方を心配していた友。
Aさんはたびたび原発のことで柏崎を訪れているが、まだ墓参を
果たせていないから年が明ける前にぜひ、と願っていた。
それがやっと実現。

お墓には前日までの寒さで雪がまだだいぶ残っていた。

1周忌を行ったばかりだろうか。
新しい塔婆とお花が供えてあった。

私たちもお花を供えて、Aさんが新潟市で買い求めたという
絵ろうそくを飾った。

このお寺は、地震のあと、倒れたブロック塀を直したそうで新しい
塀は木だった。

町のあちこちにまだ地震の痕が残っていた。

今日のニュースによると、6号機は不具合がみつかり、24日に予定
していた性能検査を延期するそうだ。
東電発表

2009年12月19日土曜日

天才映画監督 清水宏の映画

「親友・小津安二郎、先輩・溝口健二、鬼才・山中貞雄が
“天才”と呼んだ男」とチラシコピーに。

すでに先週の話になってしまった。
13日の日曜日に久しぶりに2本立てを見た。

★有りがたうさん(1936/松竹) 
★風の中の子供(1937/松竹)

詳しくは新文芸座のHPをみてもらえばよいが、文句なく
おもしろかった。

名匠・清水宏 その感動の世界へ

原作は川端康成と坪田譲治。

「有りがたうさん」は若き上原謙が主役で乗り合いバスの
運転手さん。

バスに乗り合わせた人たち、あるいはバスにお金を払って乗れず
伊豆の山道を歩く人たちのそれぞれの人間模様を描いていた。

都会に働きに行く若い娘の話が主題で、働きといっても女中奉公
ではなく売られて行く娘と不憫に思い、駅まで送っていく母。

ところで私の母は結婚前、東京のお屋敷に女中奉公に出ていた。
そのとき一緒に働いていた同郷の友達とは今(いや、数年前まで)
もつきあいがある。

この映画の娘たちを思えば、女中奉公は恵まれていたことになる。

山道を歩いている一群の中に朝鮮人のグループがいた。
家財道具、布団などもかついで集団で歩いていた。

バスの運転手さんはだれにでも親切だ。

この一群の娘に父親の墓にときどき花を供えてやってほしいと
頼まれて承諾する。
娘は、「私たちは道路を作るとその道路を自分で歩くことはできず、
次の新しい場所へ行くのよ」と話す。
運転手は乗せてあげようとするが、みんなと一緒に歩く、
と言って断る。

旅芸人は後から歩いて来る自分の子どもに今晩は予定を変更
してお客がたくさんいる**温泉に行くから、と言伝を頼む。

また、娘たちが、駅についたら、新しいレコードを買ってきてと頼む。
みんなでお金を出し合って買っている。
楽しみはレコードぐらいしかないから、流行っているレコードにしてね、と。

それぞれ歩いている人たちにすれ違うたびに
ありがとうさん、と言って追い越していく。

上原謙さんはこの映画が初主演だそうだが、ほんとにすてきな人だった。

赤ん坊は増えているけど、農村の二男、三男には仕事がなく
娘を売らないと一家は食べていけない・・・
戦争前の不況の時代。

この映画の中で売られていく娘も結局は幸せな結末になるのだが
世相を反映した厳しい映画ながらほのぼのとしていて
ユーモアもあり素晴らしい映画だった。
当時の日本映画界では画期的であったという全編ロケーションでの撮影。
山道のロケなど大変な苦労だったと思う。
伊豆の風景だが、新潟の山奥の我がふるさと共似ていた。
日本の原風景ともいえるのかも知れない。
ゆったりした時間が流れていた。


「風の中の子供」は、児童文学の名作を原作にしているだけあって
子どもたちの描き方が心にしみた。
涙涙・・・

後年戦争孤児らを引き取って育てたという清水宏。
知らない監督だったが思いがけず、いい映画(監督)に出会えた。

明日まで特集を組んでいて、どれも見たい映画ばかりだったが
初日しか見られなかったのが残念。
再度の上映を期待したい。

2009年12月3日木曜日

耳が遠い人は長生き?

母は難聴だ。
年をとると耳が聞こえにくくなる人は多い。
昔は耳が遠くなる人は長生きをする、とか言っていた。
聞こえにくくなっても長生きするんだからあきらめなさい、という
ことか?

母が老人性のうつになったときすでに耳が遠くなっていた。
一緒にいる家族とのいさかいも耳が遠いせいではないか?
全部をきちんと聞かないで(聞こえないので)、間違って聞いて、いたずらに妄想をふくらましている、そんな感じだった。

都合のよいことは聞こえて都合の悪いことは聞こえない、
ほんとのところはわからないよ、と、これも昔から
よくいっていた。
でも、それは正常な人の言うことであって
実際に聞こえたり聞こえなかったりするのだから
言われる本人にとってはなんとも理不尽な言い方だろう。

耳の遠いのが治ったら、家族との会話もスムーズにいくのではないか?と補聴器を買ってあげることにした。

普段一緒に住んでいないし、何もしてあげていないから、と奮発して高い補聴器を買った。たしか、片方が15万円。両方で30万円だった。清水の舞台から飛び降りるつもりで買った。

そのころ、介護まっさかりの友達に、理由を話して、だから補聴器を買ってあげたら病気も軽くなるのではないかと思うがどう思う? と意見を聞いた。

買ってもあまり変わらないと思う。というのが友の意見。それなのにその意見を聞かなかった。

人間っておろかなものだ。意見を求めながら、自分の思うような意見でないと受け入れないのだから。

2年ぐらいは文句を言いながら使ったが、補聴器は精密機器で結局手に負えなかった。今思えば、家族がきちんとケアしてあげなければ、豚に真珠だったのだ。

仕事をしている人ならいざ知らず、お年寄りで補聴器を使いこなしている人をついぞみかけたことがない。

耳が遠い人同士が隣に座っていて話ははずまない。

ケアする人が間に入ってそれぞれの通訳みたいなことをしてくれれば少しは会話が成立すると思うが、人手が足りない現状では、それは夢物語りだ。

足の悪い人なら車椅子、あるいは軽度の人は杖をつく、とか外から障がいがわかるが耳が遠いのはまったくわからない。

前の施設ではボランティアの人たちによる、楽器演奏や朗読があった。それもまったく楽しむことはできない人もいる、ということをボランティアの人たちは理解していただろうか。

全く聞こえないのではないので耳のそばで話してもらえば聞こえます、伝えてあるのだが、大きな声を出せば聞こえると錯覚して顔を見ながら話している。

病院に入院しているときも、だいきらいな点滴や注射のとき、ちゃんと話せばある程度理解できるのだが、看護士さんは話したつもりでも本人には伝わってないときが多々あった。

本人もわかったようにうなずいたりするからややこしい。いちいちわからないというのも面倒だったりプライドもあるのだろう。

認知症でない入所者が母のことをおとなしいですね、という。いえ、耳が遠いだけでおとなしくはないのですよ。

耳の側で話してもらえばおしゃべりしますよ、と言ってみるのだが。

会話が成り立たないし、テレビも聞こえないから、結局母の場合、寝ている、ということになる。

2009年11月30日月曜日

昼夜逆転の母

明日はもう12月。
月日のたつのはほんとに早い。

今年最後の連休、といっても祭日なんて関係ない人も大勢いるわけだが。
うちもそうだ。
毎日が日曜日の連れ合いなどがそれにあたる。

もとい、その連休の11月22日、新潟から姉と甥と姪の子どもが来た。
高速道路の通行料が1000円になってから3度目の上埼だ。

1000円でなかったらこんなに気軽には来なかったに違いない。

その前日に泊まりにきた娘と我が孫もいて、一緒に母も連れ出して
レストランでの大昼食会。

陶器窯のあるレストランで、ランチの器はみんなオーナー(?)手作りの
器。朝霞ブランド「朝霞浜崎焼」。
民家の2階がギャラリーになっており1階がレストランになっている。
古い足踏みミシンや鏡台などの調度品が心地よい。

20食限定のランチ。おいしかった。
床暖房になっていて、眠ってしまった6カ月の孫はその床の上に
寝せておいた。

「かふぇぎゃらりー&陶芸工房 八右衛門」

私たちは大満足したのだが、一人母は浮かない顔をしていた。
その日、施設に行ったら荷物をまとめてあった。

職員の方が、いま、昼夜逆転しているようですと話す。

昼夜逆転すると、寝静まった夜中にいろいろ考え出す。
だれでもそうだと思うが、夜中に考え出すと妙に神経がとがって
鋭敏になってくる。

何か考えて荷づくりが始まる。
母にとってはまことに正常な状態となる。

夜中の仕事のあとだったので昼間はくたびれて不機嫌になっていたというわけか。

娘がおばあちゃん体の調子はどう? と気遣って聞いたが、
よいわけないでしょう? と言わんばかりの表情で黙って見返した。

眠っていた孫を見て、生きているのか? と聞いてきた。

姉の孫は3歳でおしゃま盛りだから、さすがに笑顔を向けられて
にこっとしていたが。

前回、姉が来た時「また来てね、待っているから」と言ったことなど
どこ吹く風だ。

あのお昼の日からちょうど1週間目の今日、母と会ってきたが
今日はおだやかな表情だった。

お昼を食べていかないのか? と聞いたがこういうときは
機嫌がいいとき。

今日はお昼を頼んでないから、また来るね。
とさよならをしてきた。
お隣に座っているおばあちゃんたちにもバイバイをすると
母よりいつまでも手を振ってくれていたりする。

2009年11月27日金曜日

バザーは今年も繁盛

21日のバザー、今年も始まる前から長蛇の列が・・・

いや、長蛇ではないが、小さな列ができる。

9時半からしか会場が使えないので11時オープンまで秒読みだ。

今回は前に手伝ってくれた若い男性が一人応援にきてくれた。

いつもより、きれいに洋服とか並んでいる。

100円均一とか200円均一コーナーでは
つい、まとめてバサッと置けばよい、どうせひっくり返してみるのだから・・・
ぐらいに考えている私たちとは大違い。

彼は会社員をやめて今介護の仕事をしている。
細やかなやさしさがある人だ。
夜勤もあるから、今回は休みにあたってラッキーだった。

もう一人若い女性も前回から手伝ってくれている。
チラシを各戸配布すれば十分、と思っている私たちだが、
主だったところの掲示板に、許可をとってくれて
貼ってくれた。

さあ、オープン。

しばし、混み合い、めぼしいものはお昼までに売れる。

手作りパン、クリスマスリース、お茶、小田原の低農薬みかん
なども売れた。

かつては1000円、2000円のコートなど売れたが、
バザー会場も今はデフレだ。
洋服は高くても500円どまりか。
洋服類はもうみんなたくさん持とうとしなくなった。

そこへいくと食器類はあきてくるので
自分のを出して、目新しいものを買うとかするから
まだ循環する。
よいものは高い値段(と言っても500円、1000円どまり)で
売れる。
毛布、シーツなどの新しいものも比較的よい値だ。
アクセサリーは300円が相場。
掘り出し物が多い。

差し入れのお昼を食べて、ぼちぼち午後から来た人たちが
残り物に福があるとばかりに、探している。

最後に片付けのときにまた、いいものが出てくる。

というわけで、今回は6万円の収益が出て、チェルノブイリの
子どもたちのためにすでに寄付をした。

また、「かにた」に衣類を5箱、「寿町」に2箱、カンパも3000円、2000円をそれぞれ送る。
ペシャワール会にも3000円送る予定。

以前だったらアフガンに冬物衣類をたくさん送っていたが、
今は世話をする人がいなくなって送ることができなくなった。

靴などもたくさん集めたときがあったが。
今でもきっと必要としている人たちがたくさんいるだろうに・・・

地域の障害者と共に運営しているお店「よろづや」に
食器、雑貨類6箱ほど引き受けてもらった。
よろづ市に私たちが出店することもあるので
お互い様ということで物品の提供だけで特にカンパは
していない。

たくさんの品物を引き受けてくれるところが
あるおかげでバザーを続けることができる。

2009年11月15日日曜日

チェルノブイリ救援クリスマスバザー

早いものだ。

初夏のバザーがついこの間だと思ったら
もうクリスマスバザー。

年2回のバザー、待っている人がいてくれる。

そろそろ準備しなくては、とぼんやり考えているころ
今度はいつですか? と問い合わせの電話があったりする。

今日は市内の環境フェスタで少し宣伝できた。

買うのを待っている人もいるが、品物を出すのを待っている人もいる。

いつも助かっていますよ、と環境フェスタで会った人に言われた。


助かっている、というのは、家の片づけができて、お役にも立てる、
という意味なのだろう。

私は初対面と思ったが、バザー参加者だった。

チラシを配布してから当日まで、家の前に品物を置いてってもらう方式。
みなさんほとんど黙って置いて行かれる。
もっとも声をかけていただいても留守が多いからお互いそのほうが合理的だ。

仕事から帰るとドアの前に品物が置いてある、という光景が1,2週間続く。
今年はわが集合住宅は大型修繕中で、エレベーターも共通廊下も
何かと足もとが悪い。

だから、受け入れ期間を短くしたので品物の集まりがちょっと気になる。

でも、今まで品物に不自由したことがないので今回も何とかなるだろう。

2009年11月8日日曜日

愛の街コンサート

今日は前からひいきにしている「コーラス横丁」というグループの定期演奏会にご近所さんと連れだって出かけた。
2年に1回の演奏会、今年は11回目、ということは結成して22年という歴史あるグループだ。

子育ての仲間同士で始めたのだそうだが、いわゆる一般的なママさんコーラスとは一味も二味も違うコーラスグループ。
大きな特徴は毎回、反戦の歌をメインに据えることだ。

「愛の街コンサート」というタイトルがつくこのコンサート、毎回「愛」がテーマで、今年の1部は母にまつわる歌。

おかあさんへ、未来へ、アベマリア、ママン など。

高田敏子さんの詩に指揮者の安藤由布樹さんが作曲した2曲(アイスクリームほか)はかわいらしい歌だった。

2部は、反戦の歌のオンパレード。
特に感動したのは茨木のり子さんの詩『わたしが一番きれいだったとき』に
安藤さんが作曲した歌。合唱によって、より詩の内容が鮮明になっていた。

ソロの部分があるから、と友から聞いていたのはこの部分だったのか。
友人のほかにもう一人それぞれがソロで歌う場面があった。

まるで自分が戦争時代に青春を送ったかのように歌っている二人の歌に、聞いていて思わず涙がこぼれた。
確かな反戦の思いが伝わってくる。

もうひとつ、フランスの歌だそうだが『脱走兵』という歌。
大統領閣下への手紙という形で語りかける歯切れのよいコミカルな歌。
初めて聞いたが気に入った。

そのほか、リメンバー ザ キッス、アルゼンチンよ泣かないで など。

合唱の合間に詩的な紹介が団員たちによって紹介。
全員が何かしらの持ち場・見せ場があった。
構成もなかなかのもの。

総勢21人。おや? 前回より増えたような気がする。
若い人もちらほら。

1部はカラフルなTシャツと真っ白なズボンの組み合わせ。
2部は白いロングドレスにラメ入りの上着。
手作りで工夫しているとか。毎回衣装を見るのも楽しみにしている。

手ごろな場所が抑えられなかったそうで、800人も入る会場。
近隣市の中でもひときわ評判のよいホールでの公演。
席は6、7割は埋まっていたと思う。

有名な人がいなくとも、継続してこれだけお客を呼べるのだから
大したものだ。

やわらかなそれでいて、強い意志をもった合唱。
心地よいひとときを過ごすことができた。
よいコンサートをありがとう。

2009年11月5日木曜日

プルサーマル試運転開始 佐賀・玄海原発で

テレビのニュースではほとんどのところでとりあげてないと友人の話。
今、たまたまついていたニュース23では報じていた。
さらに放射性物質を積んだワゴン車が東北道(?)で後続車と接触事故との報。
おきまりの放射能漏れはありませんと言っていたが。

プルサーマルのこと、ネットでは朝日、中日などでとりあげている。

プルサーマル始動 佐賀・玄海原発
2009年11月5日 夕刊
 一般の原発でプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料を燃やす国内初のプルサーマルが5日、九州電力の玄海原発3号機(佐賀県玄海町、加圧水型軽水炉、118万キロワット)で事実上スタートした。
 午前11時に3号機の制御棒を引き抜いて原子炉を起動し、核分裂が開始。同日深夜にも核分裂が連鎖的に起こる臨界に到達する見通しだ。九電によると作業は順調に進んでいるという。
 プルサーマル実施は、電力業界として当初計画より約10年遅れ。核燃料をリサイクル使用する国策「核燃料サイクル」の実現に向け、九電は最後の一歩を踏み出した。
 九電は9日に発電を開始し、その後、段階的に出力を上げ、調整運転に入る。12月2日に出力の安定性や炉心の性能などを調べる経済産業省の「総合負荷性能検査」を受けて合格すれば、同日中に通常運転に戻し、プルサーマルによる発電が本格稼働する。
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2009110502000244.html

asahicom
http://www.asahi.com/business/update/1105/SEB200911050003.html

こっちは国側の科学技術振興機構というところhttp://scienceportal.jp/news/daily/0911/0911051.html

2009年11月4日水曜日

今年と来年のチェルノブイリカレンダー

我が家のカレンダーのかける場所2つは決まっている。
台所兼居間とトイレと。

メインはもちろんチェルノブイリ救援カレンダー。

つい、先日までは六ヶ所の写真だった。
と書こうと思ったが、確認のため見たらまだそのままだった。

子ども基金のカレンダーは先月と次月が小さく併記してあるので
月が替ったからと言ってすぐにめくらなくとも支障はない。

だいぶ日にちが経ってから次の月に替えることもしばしば。

家族の中で耐えられなくなったものが替える。

事務局ではもちろん、2日の月曜日から新しい写真に替っているからもう、我が家も替っている気になっていたが・・・

10月は六ヶ所村の核燃施設に反対するデモの風景。
雲と夕陽と沼と。その沼のほとりをデモの人たちが歩いている。
「しん」とした緊張感が伝わってくる。

11月は一転してベラルーシの秋の風景。
野良仕事に使う馬車に夫婦らしき人たちが乗っている。

放射能は目に見えないから、のどかとしていいようのない
おだやかな風景であるが・・・

不思議なものだ。
どちらも撮影月日はかなり古い。
たぶん、1989年前後の写真。
だから、六ヶ所村にはまだ放射能はない。
ベラルーシには放射能がある。
それなのに受ける感じは反対・・・


さて、来年のカレンダーは「いのちの輝き」というタイトルがついている。

かつて、広河さんのスライド講演に接したとき
もっとも印象に残ったのは3人きょうだいの2人の姉妹が写った写真とニーナ先生の結婚式の写真だ。
ウェディングドレスと緑の大地。
その色鮮やかな美しさに魅せられた一人としては待望のカレンダーだ。

汚染された大地で2人の子どもを育て、夫と共にその地に暮らし続けているニーナ先生。

病気と闘いながら懸命に生きる子どもたち、それぞれの
“いのちの輝き”をカレンダーに込めている。

数年前、3人きょうだいについて焦点をあてたカレンダーも作った。
それから数年経た長女・ナージャが自分の子どもと写っている
写真も来年のカレンダーに出ている。

来年のカレンダーをかけるのも楽しみにしている。

子ども基金のHP「最新情報」欄に詳しい情報と申し込み先が
載っているので、まだの人はぜひ検討を。

2009年10月26日月曜日

台風被災した、フィリピン・ルソン島のパソドン村民への支援を

今、我が家のある集合住宅は大規模修繕中。
ビル全体をネットで覆ってあり、うっとうしいことこの上ない。

新築で入居以来28年目の住宅、毎月引き落とされる修繕費は管理費ともどもばかにならない金額である。

ま、そのおかげで、個人で考えなくとも、全体で定期的な大小さまざまな管理計画があり安心して住んでいることができる。

ベランダーの植物ほかもろもろ一切合財を片づけなければならない。
洗濯も干せない日々も続く。

昨日までは10日間、ベランダの窓自体を目張りされて開けることもままならなかった。寝ていても息詰まるような気がした。

とりあえず、目張りははずされたがまだ洗濯物は干せない。

今日は屋上の洗浄があり、異臭、水漏れがあるかもしれないから気をつけるようにという達しがあった。

しかし雨のときは順延、この時期、雨も多く、いろんな作業が遅れ気味のようだ。

今日も結構なドシャ降り。
台風が近づいているとか。


さて、ここから本題。

前回の台風17号で被災したフィリピンの被害者に義援金を、というメールが知人から届いた。

「北ルソンで映画を制作しフィリピン北部山岳地帯で映画巡回上映のボランテイア活動をしている今泉光司です。この山岳地帯は終戦時多くの日本兵が飢えと病気で亡くなった最後の山です」

という出だしで始まるこの手紙は『アボン小さい家』という映画を作った今泉監督からのもの。(私は見ていないが・・・)

私自身も監督に転送お願いのメールを出して、OKの返信をもらったが、下記ブログで監督自身の手紙や、現地での活動の様子など詳しく載っている。
http://pasdonrescue.blog96.fc2.com/blog-entry-2.html

http://pasdonrescue.blog96.fc2.com/

ところで話は初めに戻るが、この集合住宅の大型修繕は入居してから2回目になる。ご近所の方とベランダの植物をいつまでに、指定された地面に運ぶか、とか相談していたとき、居合わせた連れ合いのことば。

え? 1回目ではないの?

え何言ってるの??? と私とご近所。

出張がない仕事場だったから毎日家に帰っていた。

でも、会社のことしか関心がないということはこういうことなんだ。

サラリーマンほとんどがそうだとは思わないが似たりよったりの方もいらっしゃるだろう。

2009年10月22日木曜日

また来てね、待っているから

きょうみたいな日を小春日和というのだろうか。
ほんとにおだやかな日だった。

母と60代の娘2人と施設の近くの蕎麦屋で昼食。
その後、近くの公園で小鳥の声を
聞きながらぼーっとしていた。

母には小鳥の声は聞こえていない。

でも耳の近くで話すことは聞こえる。

先週退院してから、毎日のように様子を見に通ったが
病院と違って痛くされるという恐怖がないせいかおだ
やかな表情になっていた。

そして、今日は新潟から姉が出てきた。

1回目の手術のときにも上京し、立ち会ってくれたが、
その日は用事があり手術中に帰ってしまったから母に
とってははっきりとは記憶に残ってないに違いない。

お蕎麦やさんで私と姉がおしゃべりしている間、
母はゆっくりと黙々と箸を進めていた。
ご飯付きのお蕎麦セットを完食。

いわゆる三角食いをしない。前はそうではなかったと思うが
今はできない。

ご飯だけを食べ、その次、おつゆを飲み、おかずを一皿ずつ
片づけて行く。

おかずは口に合わないと残すが、ごはんはよほどのことが
なければ一粒残らず、食べる。


お腹もいっぱいになり、散歩もして、
そのあと部屋に戻ればお決まりのお休みだ。

満足げに横になった。
姉の方をじっと見ている。

そして帰るとき「また来てね、待っているから」と
はっきりした声で言ったのだ。

ついぞ聞いたことのない言葉で正直驚いた。
姉に対しての言葉だったがうれしい驚きだった。

2009年10月16日金曜日

母のいえ

母が退院した。
結石は2度の破砕手術でようやくなくなった。

病院でお昼ご飯を食べたあと、ぐーぐー寝てしまった。
何しろベッドの上で食事だから、すぐに寝たい症候群の母にとって
ちょっと目を離すともう横になっている。

それを無理やり起こして、退院の支度。

今日は、どこへ行くのか? と聞く。

いえに帰るんだよ。

母にそう言いながらなんだかむなしい。

母にとってのいえとは?どこなんだろう?

子どものとき過ごした生家。
嫁いだ家。
女中奉公で数年間東京に暮らした以外は雪深い田舎で
50年以上暮らした。

その後、小都会に出て3女と住み始めた家。
区画整理で引っ越しを余儀なくされた家。

3女が病気になって、新潟市に嫁いだ長女の家、
大阪に住む長男の家、そして埼玉にいる次女の我が家。
ここ数年子どもたちの家を転々とした。

我が家からグループホームに入り、やっと慣れたと思ったら
1年足らずで特別養護老人ホームに移った。

せっかく入れる機会、逃したくはなかった。
母の希望などでは決してない。

病院にいる間、どこから出てどこから入ったらよいか
わからないようなあんな大きな家に戻るのはイヤだ、と言っていた。

その家に戻った母は憮然としていた。

職員の人たちはお帰りなさいと口々に笑顔で迎えてくれたが
母は固い表情のままだった。

病院では点滴の針でさえ、刺す時に、痛~い、助けてください、と
大声で叫んでいた。
とにかく少しでも痛いのは我慢ができない。
点滴が多いときには看護士さんの顔をみるたびに、
針は刺さないでください、と言っていた。

一度は点滴しようとしたときにイヤだと必死でもがき、点滴がはずれて血が出た。
その直後、シーツが汚れたばかりの時に私が行った。

母曰く。
殴る蹴るの暴力を振るわれて鼻血を出した。
こんな暴力をふるう家から早く出たい、と。

まさかその通りはうけとらないが、何かの拍子に鼻血を
出したかと思って看護士さんに聞いたら前述のとおり。

大きな家に戻った母は大声を出すでもなくみんなと一緒におやつを食べた。
明日また来るね、と言ったらうなずいていたが。

2009年10月10日土曜日

認知症は治るのか?

昨日は衝撃的な映像を見た。

女優・南田洋子さんを介護する長門裕之さん。
くり返し流す、目をそむけたくなるような認知症の映像。
あ~ 母と同じようだな と思う場面もあった。

あんなきれいなはきはきした女優さんだったのに。

しかし同じようにくり返し流す今の映像はもっと衝撃的だった。

認知症が回復しているのだ。

尋ねてきた元のスタッフらからもらった花束をうれしそうに受け取った。
「あら、あなた顔色悪いわよ」と一人のスタッフの健康を気遣う。

目もしっかりと相手をみすえて、和気あいあいと話がはずむ。

長門さんが 

お前、女優に戻るか?

いいえ、戻りませんよ。

セリフの一言や二言はまだ言えるだろう?

(ややマがあって)

もっと言えますよ、と言い返す姿がかわいらしかった。

あなたはダラシがないから・・・

あなただけボケていれば・・・

などとまるでどっちが認知症かわからないような
発言が飛び出す。

南田さんの顔がとても美しかった。

きれいですね~ と褒めるスタッフに
いえいえ、と首をふる南田さん。

番組中に、専門医のコメントが挿入されていたが

肝臓の機能が改善されると症状が緩和される可能性がある。
(もっとよくなるかも?)

肝臓が悪くなって「肝性脳症」になると認知症の症状が出るらしい。

以前、雑誌に出ていた長門さんのインタビュー記事を読んだが
肝臓が治ればよくなる可能性もあるかも知れない、というようなことが
そう言えば書いてあった。

原因は何にせよ、認知症についてもっと深い認識があれば
洋子をここまで悪くさせないで済んだかも知れない。
それよりも自分が生きているのは洋子のおかげだから、
一日も長く自分のほうが生きて洋子を介護するのが自分の仕事だ。
それがなかったら、まったく自分の存在価値なんてないにも等しい。

と何度も言われていた。

番組でも浮気、借金、暴露本、とこれでもかこれでもかというほどの
悪の限りをつくした長門さんの姿を再現していた。
長門さん自身それを見て、こんなのはほんの一部だから、と。

南田さんはそういう長門さんを見捨てなかったけれど
体の方が尽き果てた、ということなんだろうな、と思いながら見ていた。

母の場合は脳が委縮しているのがはっきりとわかってしまったから
治ることはないと思う。
でもときおり、はっとするような鋭い発言をしたりするので
まだまだその部分を生かすようなことはできるのだろうな、と
少し、前向きな気持ちになった。

昨日の母の迷言
「自分の体であっても、みんなが(自分の体を)支配しているのよ」

看護婦さんが点滴の様子を見にきて体に触ったとき、強い調子で言った。

同室の若いお姉さんがクスッと笑っていた。

2009年10月8日木曜日

祝島と母の入院その後

2~4日にかけて、全国から反原発・反核の団体が勢ぞろいした。
5年ぐらい前に代々木公園で全国集会があったときにも
もちろん参加したが、今年ははるかにたくさんの人々が
集まった。

なかでもプルサーマル受け入れ目前の玄海原発、増設が待ったなしの川内原発
それらを抱える九州勢。
再処理工場・核燃施設のある青森・東北勢。
そして祝島島民挙げて反対運動をしている上関原発予定地の中国勢。

問題を抱える地域の人たちの心意気は強く高かった。

そして、昨日ついに中国電力のだまし打ちのような強行ブイ打ち。
池田香代子さんのブログに詳しい。

なんだかんだの毎日だが、母のほうは25日より入院中である。

高熱も治まり、尿も順調に出ていることから
ステントを尿路に挿入、という計画はなくなり
お腹の中にある石を破砕する、ということになった。

昨日それが行われた。

病院には診療室のほかにレントゲン室やリハビリ室など
いろんな部屋があるが、結石破砕室というのがある。
今まで見たことのない名前の部屋、それがそう。

先生の話によると埼玉県内でこの機械を持っているのは
この病院とあと1か所だけ、とちょっと自慢そうだった。

普通の人(?)だったら、1泊2日で済む場合もあるという。

高齢と認知症とあとは石の大きさ、位置などにより
やってみないとわからない部分がある。

約1時間じっとしていないといけない。かなり痛い。
鎮静剤は使うが耐えられるかどうか。

新潟から私の姉つまり母にとっては一番頼りにしている
長女がでてきた。

母の認知症歴は長く、大体様子も分かってきたが、
眠い日と興奮の日が3:1の割でくる。

きのうはうまい具合におとなしい日だった。

いつもは、私が行っても淡々とした表情で帰るときも明日また来るね、と
行ってもうなずくだけ。

だが、姉の顔をみたらにこっと笑った。

ふーん、やっぱりあてにしているんだな。
姉もまんざらでもなさそう。

処置前に鎮静剤の注射を打つ時、手をにぎっていただけで
そのあと、すぐ眠気がきたらしく
そのまま処置室に入り、私たちは部屋の外で待機していた。

なんかあったら(ぐずるとか?)呼びます、と言われたが
呼ばれることもなく、気がついたら自分が居眠りをしていて
終わりました、と起こされた。
姉は夜用事があるということで処置の途中で帰って行った。

肝心の石は?

大体3分の2ぐらいはとれました。
大きいので・・・。

明日レントゲンを撮ってみて、その後のことを決めます、と看護師さん。

今日お昼に母のところに行ったら
何しにきたの?

こういう言い方をするときはあまり機嫌がよろしくない。

今日は体を拭くときも大声で止めてください、と
叫んでいました。
○子さん、○子さん、助けてください、と言ってました。
姉の名前を読んでいたらしい。

お昼は要らない、と言っていたが
食べ始めたらごはんはきれいに食べた。
おかずも少し。
母の好物のフキ味噌を許可してもらって
それをごはんの上に乗せて食べる。
昔の人だから、いつもご飯粒は一粒残らずきれいに食べる。


お吸い物、お味噌汁はしょっぱいと言って
あまり飲まない。

最近、おかずは私が食べる。

結構、おいしいのだ。
肉も多く、味も濃い。量もかなりの量。
これが病人用とはとても思えない。

連れ合いが入院していた時、薄味で食べられないと
文句を言っていたが、ここなら満足するだろう。

施設では薄味に慣れているから
濃いのは食べにくいらしい。
看護士さんには伝えたが、変った病院だと思う。

お昼にはまだ、担当医がレントゲン結果を見ていない、ということで
今後の予定についてはまだわからない。

2009年10月2日金曜日

10月2,3,4はノーニュークスフェスタに

今日、総評会館で広河隆一チェルノブイリ写真を展示した。

1階入り口ロビーという絶好の場所なのだが
残念ながら一般の人の出入りは少ない。

しかし、2日夜は全国の原発現地、再処理現地から人々が集まる。

その方たちに写真を見てもらい、地元での活動に
写真展開催を検討してもらいたい。

今年3月広河さんが取材・撮影した写真12点を加えた22点を展示。
また、出来上がったばかりのカレンダーも各月ごとに展示している。

事故から24年目に突入したチェルノブイリ。

人々の健康障害は増える一方だ。
住みなれた土地も家も奪われた人々。

その現状を知ったなら、とても原発推進など言い出せないはず。

事故は起きない、などという保証はどこにもない。

いや、事故は起きる、と考えるほうが賢明だ。
起きるからこそ、その前に止めたい。

実行委員会企画、関連自主企画、2日から4日にかけて
たくさんの企画が目白押し。
http://www.nonukesfesta2009.com/

どれか一つ気になるところがあったら出かけてみてほしい。

3日のパレードは、サンバあり、かぶり物あり、楽しいパレードになること請け合い。

2009年9月25日金曜日

母の入院

災難はいつどこで起きるかわからない。

母が緊急入院した。

22日の祭日、新潟から姉と姉の娘一家が車でやってきた。
高速代1000円になってから3度目の上京だ。

環境に優しくない政策かも知れないが、5人でも6人でも
いっぺんに来られるから、ありがたいのには違いない。

敬老の精神で会いにきたわけだ。

いつものように、施設のすぐそばのレストランで
食事をした。

母はかなり多目のごはんもきっちり食べた。
顔の色つやもいい。

その前日、私と連れ合いは義父の墓参りも兼ねて
母のところに行ってきた。

同居の義兄夫婦はかなり疲れていた。

義母の認知症は進んでいた。
私の母と5歳違いだからその差は大きいのかも知れない。

それに比べて母はとても元気だと思った。

それが今日、急に発熱し、午後になってさらに高熱になり体もふるえてきた。
で、病院に。

夜は10・3ノーニュークスフェスタの実行委員会があり参加の予定だったが
急きょ病院に向かった。

心配されていたインフルエンザではなく、病名は水腎症。
調べてみたらそんなに珍しい病気ではないようだ。

 ヤフーヘルスケアより;
  腎臓でつくられた尿が下流に順調に流れないために、
  腎盂(じんう)が膨らんだ状態をいいます。
  尿管が生まれながらに細かったり、尿管や腎盂の出口に石がつまっていたり


母の原因は石だった。大きな石が尿の通路をふさいでいる。
つまったところに感染して、血液に入ったときが、高熱・ふるえになって
表れたということらしい。

今後の予測としては敗血症による血圧低下などが心配されるという。
高齢なのと認知症とで、予測つかない面もある。

いろいろ万が一のことなど、述べられたがとりあえず
今日明日がどうということはなさそうだ。

姉に電話をしたがいない・・・おかしいな、と思ったら
娘ムコの祖母(89歳)がおととい亡くなって、今日が通夜だったという。

う~ん、年寄りも何が起きるかわからないものだ。

2009年9月24日木曜日

アンビリーバボ、まさか自分に?

今は番組改編時ということで各局とも特番が多い。

今日のフジテレビの番組もその一つで7時から9時まで「アンビリーバボ・・・衝撃映像絶体絶命55連発SP!!」というのを見た。

ずっとみていたわけではないが夕食の支度をしながら夕食を食べながら、 結局7時から8時過ぎまで見ていたことになる。

次から次へと息もつかせぬ感じで衝撃映像を繰り出す。

カーレースの惨事、災難、自身の挑戦による事故、よくもまあ集めたもの。
怖いもの見たさでついつい目はテレビに。

しかし、その後、まさか自分に惨事がふりかかろうとは・・・

夕方福島の知人から野菜が届いた。昨日電話があったから中は見なくともわかっている。夕食が終ってから、開けた。
その直後、虫がいると連れ合い。
たぶん、段ボールの中から出てきたに違いない。

ゴキブリや虫がきらいな連れ。
自分では始末したくない。
廊下の薄暗い隅っこにいる動いているものに目をこらすと虫ではなく、チョウチョだった。
それも見たこともないような黄色のきれいな蝶。
羽をそっとつまんで逃がそうと思った。
でも誰かに見せたい。あいにくちびっこはいないが下の人に見せにいった。
孫が来ていれば喜ぶけどね。と。

そのまま放してあげようと1階に下りた。
どこが適当かちょっと茂みを探して石畳のところを歩いたとたん、つまづいて四角の石畳の上、3つぐらいを顔からこすりながらころんだ。
手にしていたチョウチョも半分つぶしてしまった。

ボーゼン自失とはこのこと。
夜だったので誰もいなかった。
無様な姿は見られてないのがせめてもの救い。

番組風に言えば「幸いにして命に別条はなかった・・・」

いや、かすり傷だが、
顔の左下と唇の左上、右手にかすり傷。
顔は結構赤い。朝までにひくだろうか?

左手小指にもかすり傷。付け根のところが痛い。
打ち所が悪かったら骨折か?

一番ひどかったのはズボンの下の両足の膝。
赤くすりむいているし、今もヒリヒリする。

ここは見えないところだからよかった。

というわけで結構なカ所が傷ついた。
どれも浅かったからよかったが。

番組を見続けた祟りか?
それにしても福島から旅をしてきた蝶があわれ。

2009年9月18日金曜日

19日の催しものいくつか紹介

19日は種々のイベントが予定されている。

その1
DAYS JAPANより

【緊急報告】9月19日(土)18:30~「祝島住民はなぜ、原発建設に反対し、20年以上も闘い続けるのか」

スライド報告 広河隆一

中国電力はいよいよ上関原発建設のための埋め立てに着手し、島民は今、体を張って抵抗している。人々は何を守ろうとして闘っているのだろうか。祝島を孤立させないために、私たちにできることとは。

9/13(日)本誌編集長広河が山口県、祝島を訪れ、そこで今起こっている大変な事態を実際に目で見てまいりました。何が起こっているのか、私たちにできることとはなにか、緊急報告会を開催致します。祝島から離れた地にいてもできることはあります。ぜひご参加ください。

【主催】DAYS JAPAN、現代史研究会

【賛同】チェルノブイリ子ども基金、七つ森書館、グループ現代、週刊金曜日、原子力資料情報室、ピースボート、たんぽぽ舎、ストップ・ザ・もんじゅ東京、原発いらん!山口ネットワーク、ふぇみん婦人民主クラブ、PEACE LAND、ジャビルカ基金、原発いらない!ちば、核燃やめておいしいごはん、空と海の放射能汚染を心配する市民の会、福島老朽原発を考える会、脱原発全国会、東電と共に脱原発をめざす会、原発・核燃とめようかい、花とハーブの里、広河隆一 非核・平和写真展開催を支援する会、高木仁三郎市民科学基金、さようなら柏崎刈羽原発プロジェクト、ストップ再処理工場・意見広告の会、グリーンピース・ジャパン、反原子力茨城共同行動、日本消費者連盟、核のゴミキャンペーン、脱原発・東電株主運動、原発を考える品川の女たち、ほか

【協力】DAYS JAPANフォトジャーナリスト学校有志 

【日時・場所】2009年9月19日(土)18:30~20:30(18:00開場)
場所:明治大学 駿河台キャンパス リバティータワー 1021号室(270名)

【お申し込み方法】席確保のため、事前に予約くださいますよう、お願いいたします。Email: kikaku@daysjapan.net (デイズジャパン 企画室)FAX: 03-3322-0353 
【お問い合わせ】同上


その2
9/19 (土) 開場12:30

問い続けよう!JCO臨界事故JCO臨界事故10周年集会
集会後にデモ

会場/東海村・文化センター 大ホール(東海村船場768 029-282-8511)
常磐線 東海駅下車 東口から徒歩5分

・シンポジウム「東海村臨界事故は私たちに何を教えたのか」パネラー・七沢潔さん(NHK文化研究所主任研究院「東海村臨界事故への道」・相沢一正さん(脱原発とうかい塾)「臨界事故から10年・今、東海村は」・伴英幸さん(原子力資料情報室・共同代表)「臨界事故・その後の原子力政策」司会・河野直践さん(茨城大学教授)

主催/原水禁国民会議・平和フォーラム/茨城平和擁護県民会議/原子力資料情 報室/反原子力茨城共同行動


その3
9/19 (土) 開場13:30

武力で平和はつくれない「アフガニスタンに緑と命を」
ペシャワール会現地報告会

会場 社会文化会館ホール
参加費 800円
主催 World Peace Now


その4
9/19 (土) 開演13:30

レ・スプレンデル音楽コンクール入賞者披露演奏会

会場 日暮里サニーホール
主催 東京国際芸術協会 03-3809-9712

ウクライナ出身のステパニュック・オクサーナさん(ソプラノ)が
アヴェマリアほかを歌う

※自分が参加したいイベントだけでもこれだけある。
 もちろん全部は参加できないが。
 チェルノブイリ関連ということでその4とその1に参加の予定。

2009年9月12日土曜日

ボランティアの味方、ぼらせん

[チェルノブイリの子どもたち・78号]を発行。
今回も大勢のボランティアさんの手により、発送終了。
その報告は子ども基金のブログに後日掲載される。

東京市民活動センター・通称「ぼらせん」には土日ともなると
大勢の老若男女でにぎわう。

会議室は3つあるが、4か月前の予約申し込み時は
人気のチケットを取るときと同じで瞬時の差で予約終了となる。

今日の会議室は一番狭い部屋。満杯となった。
午前はロビーでの作業。
ロビーもいろんなグループで満杯。

土曜日はいつも日本語講座を開いている。
会議室がとれなかったのか今日もロビーでの講義。
聞くともなく聞いているとなかなかおもしろい。
たぶん、講師の人たちはボランティアなんだろうと思う。

語学は何でもそうかもしれないが繰り返し習うことが
最も重要だろう。

無料(たぶん)の日本語講座はありがたい存在に違いない。

いまどきは公民館、地域センターなど、どこの会議室を借りても
有料なのに、ここ、ぼらせんの会議室は無料だ。
もちろんロビーも無料だ。
だから、人気がある。

平日は年配の人たちが比較的多い。
ロビーでお弁当を広げるのも自由。

無料である上に、あまり規制がないのも人気のゆえんだろう。

印刷室には印刷機のほかに折り機があり、重宝している。

折り機は無料だし、印刷もインク代実費で格安だ。
しかし、来月から印刷代値上げのお知らせが貼ってあった。

製版代は1枚40円から80円に。
この価格は妥当と言えよう。
印刷代は今までの5倍に一気に跳ね上がる。

何で?

今までが安すぎたかも知れないがこれは飛躍過ぎる。

そのうち会議室も有料に・・・ということになるのだろうか?

2009年9月5日土曜日

隣町の花火

今日は隣の隣の三好町の花火を裏の土手から見た。

先週は反対隣の新座団地の花火を見た。

新座団地のは
8月の最後の土曜日、三好町は9月の第一土曜日と
毎年決まっている。

ここに越してきたばかりのころ
約27年前だが、そのときはベランダから新座団地の花火は
とてもよく見えた。
いまでは市の境界のところに高い建物ができて
ベランダからは見えるには見えるが一部欠けてしまう。

土手まで行った。割と近くのところであげているので
音も大きい。土手にすわって1時間以上、たっぷり見た。
昨年に比べて観客少ない。どうしたことだろう?
風もあり、花火日和だったのだが。

今日は満月。でも花火のあがるころは月が隠れてちょうどよくなっていた。
風もそこそこありやはり花火日和だ。

新座団地より少し三好町のほうが少し遠いので
音は小さい。

かつてはよく見えた位置で、向こうの樹が大きくなって
少し見えにくくなった。

しかし、こっちは少し移動したぐらいでは変わらないので
我慢した。観客は数名しかいない。
そうか、三好町のは土手側の高層住宅の人たちは
家の中でよく見えるに違いない。

それにしてももっと観客がいてもいいのに・・・

新座団地は一戸あたり500円を負担と聞いた。

三好町は企業の倉庫や工場などがあり、町の財政が豊か。
だから毎年豪華な花火をあげられるのだそうだ。

それにひきかえ、我が市は企業がほとんどなく財政は厳しい。
花火も3年に1回か?
商店街主催の花火もあがっていたころもあったが、
すっかりシャッター商店街になってしまった今は
花火どころではない。
どっちにしろ、自分のふところに関係なく
花火をたのしまさせてもらっている。

2009年9月3日木曜日

たそがれ泣き

赤ん坊はお腹がすくか眠いときにギャッーと泣き出す。
うちの孫も例外ではない。

とにかく、思いっきり泣く。
最後はおっぱいをくわえながら寝るというのが
大泣きのあとのパターン。

娘は野菜とご飯をたくさん食べる。
肉は食べないし魚も少しだけ。
助産院ではご飯を食べていれば間違いないのよ、と
指導されたそう。

おっぱいはよく出るが、娘が留守のとき哺乳瓶で冷凍した
おっぱいを温めて、娘に代わって飲ませる、ということを
数回やった。

よく哺乳瓶では飲まない、という赤ん坊もあるようだ。
最初こわごわ与えたがすぐに飲んだ。

適応性も高い子だと安心していた。

ある暑い日、夕食のとき私がビールを開けた。
つい、1杯飲む? と娘に言ってしまった。

娘はアルコール類は飲む方だと思うが妊娠してから止めている。
産まれてからは、どうしても飲みたいときは授乳と授乳の間に少しだけならいいいと助産院で指導され、2回ぐらい口にしている。

この日はうん、と言ってコップに3分の1ぐらい飲んだ。

その直後、寝ていたはずの赤ん坊が起き出した。

ごめんね、ごめんね、と赤ん坊に言っている。

何をぐずぐずしているの早くおっぱいをあげればいいじゃない、とのんきな私。

そうか、アルコールか。
では、冷凍しているおっぱいを哺乳瓶であげるか、と飲ませてみた。

ちょっと飲んだがすぐに泣きだした。

娘がいるのだから、と娘があげたが、もっと泣きだした。

なんで、目の前におっぱいがあるのに哺乳瓶なのだ! と言わんばかりの泣き方。

とうとう負けてアルコールがまだ分解されていなかったかもしれない
おっぱいを飲ませて機嫌がおさまった。

このときは大いに反省した。

最近は突然泣き出すことがある。
お腹でもおむつでも眠いのでもない。
理由もなく泣きだす。

たそがれ症候群というらしいよ、なんかの育児書に出ていたと
涼しい顔で娘は言う。

ネットで調べてみたら、正確には夕暮れ泣き、たそがれ泣き、というらしい。

生後3か月ぐらいから突然泣き出す症状のこと。

そのうちおさまるらしいが命名のおかしさに笑ってしまった。

ところで、赤ん坊は1週間前に引っ越した。
首都圏なのでいつでも行けるが片道2時間となるとそうそうは会えない。

5月から約4か月近く、そばにいたのでさみしいが
毎日親子3人で暮らせるのだからこんな幸せのことはない。

ご近所のおばちゃんたち、いやおばあちゃんたちにも
かわいがってもらっていた。
そのご近所さんたちからはお餞別に、とお米をもらった。

早く同じようなおばちゃんたちを新しいところでみつけなくては、と言っていたが
見つかっただろうか?

2009年8月24日月曜日

実家の位牌

お盆に田舎の仏壇にある位牌をとくと眺めてみた。
合計5個。どれも木彫りの質素な位牌だ。


ひとつは父の妹きくさん。昭和19年没。
看護婦だったきくさんは今でいう院内感染か?

大勢のきょうだいの中で一番気立てがよく優しかったという。
ウラ若き身で惜しまれて亡くなってしまった。

一番下には信女という文字が読める。


次の位牌の最後の文字は大姉位。
私の祖母、64歳。昭和30年没。

子どもたち10人を育てたゴッドマザーだ。

祖母の実家は親分筋の親戚が日光にいる、と
よく父が自慢げに話していた。


私が子どものとき、祖母と長岡の親戚まで行ったことを覚えている。
十分な年寄りだと思っていたが64歳とは・・・
今の自分の年齢とそんなに違わない。

祖母は糖尿病を患っていたらしいが寝込んだのは覚えていない。
普通に生活していたように思う。
軽度だったのだろう。

それに引き替え祖父の死は悲惨だった。
祖母が死んだ翌年74歳で死んでいる。
祖父の位牌には居士の文字。

祖父は小学校の校長をしていた。
私がものごころついたときはすでに退職していた。
祖母と違って家にいることが多かった祖父は口やかましかった。

階段の雑巾がけなども力を入れてこういうふうに拭くんだ、と、
小学生になったばかりの私に体で教えた。

2度ぐらい自殺を図っている。
一度は包丁で手首を切った。
母が嫁ぐころーーまだ戦争が終わる直前だったようだがーー
村一番の恩給取りだから、というふれこみで仲を取り持つ人がいて
見合い結婚をした。

それが戦争に負けた翌年に通貨切り下げになった。

恩給で楽々家族を養える予定だったのが、一夜にして紙屑同然になってしまったのである。

農家でない家が田舎で暮らすのは並大抵のことではない。

晩年、中気を患い動くのもままならず、お金もなく、
そりゃ自殺も図りたくなる気持ちもわかる。

ちなみに祖父と祖母は10歳ぐらいの年の差があり、祖母が嫁いできたが子どもになかなか恵まれず、子宝が授かるようあちこちお参りしたということだが何のことはない、ただ、祖母が若過ぎただけだったらしい。

その証拠に産まれ出したら次から次に子どもが産まれ10人の子だくさんになった。
産めよ増やせよの国策に協力したということで、家には表彰状もあった。

父は長男であるが最初の子どもは赤ちゃんのうちに死亡。次が長女。
3人目にしてやっと産まれた男子ということで☆三郎という名前がついている。

その父は昭和42年1月、51歳で亡くなっている。
死因はくも膜下出血。一度はやや回復したらしいが、何か月後か、2度目の出血でだめだった。
1月、田舎は大雪のとき。東京で働いていた私と新潟市で働いていた私の姉を一緒にして雪道を叔父が連れていってくれた。
今と違って雪が降ると車はすべて止まってしまう。

近くの町で1泊して田舎に向かった。
私たちが着いたときすでに虫の息だった父が、待っていたかのようにカッーと大きな目を見開いた。
それが最期だった。

妹は中学生、弟はまだ小学生だった。

父の死により、母は苦労はしただろうが、経済的にはずっと楽になった。
背広を着る人がいない田舎でなぜか紳士服の仕立て業だった父。
東京・新宿の洋服学校で学んだ父の腕は確かだったらしい。
しかしほとんど仕事はなく母と一緒に直し物をしたり、母が行商をしたりして何とか食いつないでいた。

父の死により寡婦年金をもらい、さらに町が仕事まで世話してくれたのだから生活は安定した。

耳の悪い父は勤め人にはなれないと洋服学校に行かせて、仕立て屋にした祖父のことつまり自分の父のことを死ぬまでうらんでいた。

そもそも耳が悪いのも医者に診せるのが遅れたのも父のせいだ、と。
あちこちの小学校を転々とした父に従って、上の子ども3人は父の世話のため家を離れさせられていた。
下にはまだ子どもが6人もいたのだから祖母つまり父の母は家を離れられなかった。

長女はすでに観念していただろう。
でも、長男である父はあるときまではちやほやされ、母に甘えていたのに甘えられなくなった、それも教師である父のせい、と思っていたに違いない。

長女のしずさんは92歳で2004年に死亡。
私が身元引受人で特養で葬式を挙げた。

しずさんのことはまた機会を見て書きたいが、昨年10人目の末っ子がガンで亡くなり残ったのは叔母が2人。

父の男きょうだいはみんな早死にした。
私と姉を雪道案内してくれた叔父はその数年後に40代で心不全のため死亡。
直接の死因は心臓かもしれないが、強い酒を飲み続けた人生だった。

父と一番若くして亡くなった叔父の間に3人の男がいるが3人共ガンで死んでいる。
3人に共通しているのはやはりお酒好き。
ただし、私の父だけはお酒は飲めなかった。

そうだ、父の位牌には信士と最後に書いてあったが妙法蓮華経の文字で始まっている。
あのときは日蓮宗のお寺で葬式をしたが、今はできない人が大半ではないのか?
草場の蔭から父は何を思っているだろうか?

2009年8月17日月曜日

お盆と義母

特にお盆休みがあるわけでもないが
いつも恒例としてお盆は田舎に行く。

今年も週末行ってきた。

信仰心が強いわけでも故郷思いでも先祖に対する崇拝の念も
強いわけではない。

ひとえに長女である姉の指示に特に逆らわないだけだ。

いい歳をして、自分の意思はないのか? と問われれば
一連の行動が嫌ではないからだろう。

若いときは反発して、親族のいない海外にでも住んだら
どんなによいだろう、と夢見たこともある。

でもそんなこと無理に決まっている、と自分で思っていたが
それは自分が芯から思わなかったからなのだろうと
今になってみればそう言える。

昨年から、実家に母がいなくなり(我が家が実家?)、
姉も田舎の好きな義兄も行く張り合いが減っているとは
思うのだが、毎年寄る親戚もあり、それなりに準備をしている。

次女の私はそのお膳立てにのるだけだから気楽といえば気楽。

昨年同様、埼玉の北にある夫の実家に寄り
先祖を参り、義母を見舞った。
連れ合いはまだ長く歩くと出血するからと
行かなかった。

義母は相当認知症が進んできた。
母よりかなり達者だったのだが
高齢になって認知症になったせいか
腰もまがり歩くのもやっとという感じ。

私の母の話をしたら
お母さんは何歳?

87歳です。

そう、私よりずっと年上だ。
私はまだ78歳だから、何でもできるわよ。

いやいや、義母は92歳なのだがいつのころからか
77歳か78歳と言い張るようになった。

何でも自分でやる人だったから、できなくなっているのに
自分は若いと思って、同居の嫁さんと息子に、
世話してもらうことを極端に嫌がる。

ディサービスも行きたがらない。

無理やり連れて行ってもらったが
行っている間中、玄関に椅子を出して、迎えにくるから、と
動かなかったとか。

何回か試みたが同じ状況だったので
行かせるのを今は断念したらしい。

聞くと薬を5種類飲んでいるという。
義兄に何の薬かと尋ねたら
ちょっと詰まって「認知症の薬」という。
そんな・・・

薬はあっているのだろうか?
でも毎日みているわけではないから余計な口出しはできない。

話していても人の話は聞かず目をつむっていたり。
黙っていて、今話をしているから、と
幻聴の人とぶつぶつと会話している。
こんな症状もなかったことだ。

昼寝をすることを昔からしなかった人だから
うとうとしているのも椅子の上。

確実な義母の衰えを目の当りにして
厳粛な気持ちになったが
どうすることもできない。

2009年8月9日日曜日

痕跡と呻吟

毎年作っているチェルノブイリ救援カレンダー。
今年もその時期がきた。

来年はチェルノブイリ24周年。

毎年頭を悩ますが今年のタイトルは?

いろいろ案が出たが、帯に短しタスキに長し。

広河さんの写真を使うのだから
DAYS JAPAN 8月号特集のタイトル「核の痕跡」はどうか?

ほぼそれで一致したところに
当の広河さんから

あれは評判がよくない、と。
理由は字を読めない人が多いから。

みんなが読める字でないとどうしょうもない。
また、振り出しに戻って検討中である。

ところでチェルノブイリに限らず広河さん撮影の写真を貸し出す事務局が三重県津市にある。
正式な長い名前があるのだが、通称広河隆一写真展事務局
その事務局で出しているパンフレットをこのたびりニューアールすることになり相談を受けた。

現在のパンフのうたいもんくはこうだ。
 チェルノブイリ----再生産される悲劇
 アフガニスタン----空爆の爪痕
 パレスチナ・イラク----平和への呻吟

なかなかいい文句だと思っていたが「呻吟」これが意外と読めない人が多いのがわかった。

まず、娘が読めなかった。連れ合い、息子、仕事場のスタッフ、
まさかと思って聞いたご近所の熟年の友人たち。

私が聞いた人全員が読めなくて愕然とした。

堂々とパンフの表に書いてあっても読めないのでは意味もわからないだろう。
う~ん。
今の時代はそうなのか・・・

漢字離れ、読書離れが言われて久しいが、認識を新たにした。
でも娘も息子も結構本を読むほうなのだが
読む本の傾向が違うのか。



明日(いやすでに今日だが)は長崎忌。
 .....................................................................

世界平和アピール7人委員会は、「核兵器廃絶実現への日本の具体的行動を呼びかけるアピールを発表した。

アピールは、核廃絶にたいする「抵抗勢力」への警戒をよびかけ、日本にかんしては、6月に衆参両院でそれぞれ全会一致で可決された「核廃絶決議」にのっとれば、日本政府はオバマ米大統領の打ち出した核廃絶への姿勢を支持するよう拘束されており、アメリカの核廃棄を妨げる根拠はないことを指摘している。
.....................................................................

7人委員会では広く転送・転載を呼び掛けている。

2009年8月6日木曜日

広島忌

今日は広島忌。

朝、ニュースを見ていたら

麻生首相が「唯一の被爆国として・・・」と演説していた。

この言葉にはいつも違和感を覚える。

核の問題は国の問題ではなく人間の問題だ。
原爆により日本人ならずアジアの人々、アメリカの人々たくさんの人たちが被爆した。

さらに原発による被曝を加えると国ではくくれない。

そんな単純なことがどうしてわからないのだろう。

わからないふりをしていたほうが好都合だから?

私たちは真実を知りたいと思う。

池田香代子さんのブログに核のことが書かれている。

「ふり」ではなくほんとにわからないことがわかったら市民は強い。

今日は丸木美術館のひろしま忌の日でもある。

仕事は休みだし久しぶりに行ってみようかと思っていたが
連れの退院とぶつかった。

今日はおとなしく家で、迎えてあげよう。

朝の広島からのニュースでは子ども代表の話がよかった。

被爆した人たちの痛みにふれ、まだ「戦争は終わってない」と
言っていた。

過去のことを忘れようとしている一部の政治家やその他の人たち、
この言葉をどんな思いで聞いただろうか。

2009年7月31日金曜日

入院

火曜日は長い1日だった。
月曜日に入院して火曜日が手術。

連れの前立腺肥大のこと。

いよいよ、おしっこ袋ともおさらばの日が。

待ちに待った手術、と言いたいところだが、心臓のことがあり
万が一のリスクを考えると手放しでは喜べない。

本人は手術前数日間、相当緊張の様子だった。

とにかくその日は来た。

12時に手術室に入る。11時頃なら面会できると前日、本人から言われた。
普通なら来なくてもいいよ、大した手術ではないから、というのに
よほど心配だったらしい。

11頃病室に。するべき準備は万端に整えて待っていたが
12時半ごろになります、と看護士さんから。
そのあとまた45分ごろになると伝えに来た。

その病院の泌尿器科は火曜日と金曜日が手術日で金曜日は外来がない日だが
火曜日は外来が終わったあとの手術になるのでどうしても時間がずれ込んでしまう。
ま、仕方がないのだろう。

手術と言ってもメスをふるうわけではない。

内視鏡手術が一般的になってきているようだ。

少しずつ削り取っていくので時間は結構かかるし出血をともなう。
場合によっては輸血が必要なときもある。

連れは、心筋梗塞を起こさないよう、血を固まらないようにする薬を飲んでいたので
普通の人より血が止まりにくい状態だ。

輸血の確立は2割。ビミョーな数字だ。
輸血した場合、まれにHIV感染になる可能性もある。

など、患者を不安にさせるようなリスクを並べたてていろいろ聞かせておくらしい。

手術当日はすっかり洗脳されて不安な状態に陥っていた。

手術は1~2時間かかるというのでお昼を食べて待っていることにした。

ころ合いを見計らったつもりで待合室に行ったのだが、
なかなか終わったと言いにこない。

15時半、ようやく終わりましたと声が。

ICU(集中治療室)に1日入ることになっていた。

病院側も患者もICUにいたほうが安心する。

本人と面会したがまだ麻酔が効いていて口がきけない。
とりあえず命に別条はないようだ。

手術は普通だったの?
と聞いても本人はわからないとかぶりをふる。

看護士さんが、先生と話されましたか?
と聞く。

何か重大な話か?と少し不安になる。

先生は次の手術に入ってしまいましたので
しばらくお待ちください。

何時ぐらいに?

時間はわかりません。
2時間後ぐらいかもしれません。

仕方ない、また時間を外でつぶすことに。

美術館もそばにあったが、何となく落ち着かず見る気にはなれない。

2時間後に戻ったがまだ来られないという。
また、待合室で待った。

しかし、本人も明日になれば聞けるだろう。
待たせるのもいい加減にしろ、という気持になり
もう、連れに会って帰ろうと思い、ICUに入った。

と、先生らしき人がいらっしゃる。
看護士さんが私を認めて
あのー、家族の方がお話しを聞きたいと待っていらっしゃいます、と
先生に告げている。

え? お話しを聞かれましたか? と言われたので待っていただけなのに・・・

手術は順調に済みました。
あと、なん言か言われて話はあっという間に済んだ。


次の日以降の日々は順調と言えよう。

血圧が低すぎるとか出血がまだある、というのは想定範囲内のようだ。

1週間~2週間という入院期間がどっち側に近くなるのか?
わかるのは月曜日以降らしい。

2009年7月26日日曜日

久しぶりに2本立て映画を

飯田橋のギンレイホールで見た。

ただ今、上映中 7月25日(土)~8月7日(金)

 ホルテンさんのはじめての冒険
  ノルウェー映画 1時間30分
 英国王 給仕人に乾杯!
  チェコ・スロヴァキア合作チェコ映画  2時間00分

どちらも2007年の作品。
英国王・・・のほうは以前、映画評を読んでぜひ行きたいと
思っていた。
そうか、もう2年前の作品なのか!

アメリカ映画でなければだいたい面白い、というのは
あまりに大ざっぱすぎるか?

しかし、この前の日曜日にも同じギンレイで2本立てを見たが
ひとつはちょっと話題になったアメリカ映画だった。

 チェンジリング 
  アメリカ映画
 そして、私たちは愛に帰る 
  ドイツ・トルコ合作映画

池袋・新文芸坐でチェンジリングは上映中。ただし、7月28日(火)まで。
 ある公爵夫人の生涯(2008・英=伊=仏)と2本立て。

ギンレイと新文芸坐が私の行動範囲にあるので行きやすい映画館だ。

最近目にした話題の映画から:
 バーダー・マインホフ 理想の果てに ドイツ映画
 ドイツ赤軍、リアルな闘争史(日経の見出し)

 セントアンナの奇跡 アメリカ映画

 ロシア革命アニメーション
 これはギンレイチラシ置場からみつけたもの。
 めちゃくちゃ面白そう。
 アップリンクXで毎日15:00から1回上映。
 AプログラムとBプログラムがあり毎日、日替わりとか。
 ちなみに今日7月26日はBプログラム。8月28日までは上映が決まっているとか。

 嗚呼(ああ)満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)
岩波ホールで6月13日から上映していたらしいが7月31日で終わる。
これが名画座にくるのは時間がかかるのかな?

最後にぜひ見たい映画
 花と兵隊 
 あの「蟻の兵隊」を上映した映画館「シアター イメージフォーラム」
 8月8日からロードショー
 60余年後に届いた「未帰還兵」の遺言。
 20代の監督・若松要樹がとらえたドキュメンタリー映画。


新聞や雑誌で映画評を目にすると、やはり評判のよいのは見に行きたくなるが、なかなかロードショー期間中には行けないものだ。

でも、待っていればすぐに名画座でそれも2本立てで見ることができる。
実際には2本立てはめったにみることができない。

それなのに何で立て続けに2本立てを見ることができたのか?

夏は子ども基金主催の「夏の特別保養」をウクライナ&ベラルーシのサナトリウムで実施している。
今年は施設の都合もあり、夏の保養がいつもより早く終わった。

保養の様子は「神楽坂事務局だより」に載っている。

子ども基金のスタッフやボランティアが現地に行っている間は何かと気が抜けないが、一大イベントが終わって事務作業も気持ちも楽な今年の夏。今だけ・・・。

来週からは公私ともにまた忙しいことが待っている。

2009年7月18日土曜日

おばあちゃんたちに大人気の赤ん坊

夕方自転車で母のところへ行ってきた。
土手を自転車で走るのは心地よい。
今日は過ごしやすい陽気だった。

持参したマンゴウプリンを母と一緒に食べた。
さすがに固いとか文句は言わない。
おいしそうに食べた。

つい先日の木曜日には娘と赤ん坊と初めてタクシーに乗って行ってきた。
かなり暑い日だったが、タクシーだから楽々。
帰りはバスを使った。
(タクシー代を払って、車を出してくれるご近所さんの
ありがたみが倍増)

暑いのに行かなくともいいのでは?とおじいさんは渋い顔。
なんてったって、夫は母とは他人だ。

でも娘は孫だし、赤ん坊はひ孫だから。(だから?)

赤ん坊が生まれて2回会いに行っているが、お昼を外で
姉の一家と一緒に食べたときなので姉の孫もいたから
そんなに赤ん坊に興味は示さなかった。

赤ん坊がいるの? 相手は誰?
娘の彼も実は、母を訪問しているし、写真も何度も見せているが
初めて聞いた、というふうに2回共聞いた。

今度は母の部屋に連れて行ったのだが、そんなに驚いたふうはなかった。
赤ん坊は2か月半になるが、よく笑うし、おしゃべりもする(もちろん赤ちゃん語で)。


知人が言っていたが、世界中の赤ちゃんは何語だってわかるんだそうだ。
何か月までか何歳までそうなのか忘れたが。


うちの赤ん坊は2か月足らずで話しかけたりすると笑うようになった。
赤いてんとう虫の絵本を読んであげるとじーっと見ている。


懺悔の気持ちと共に思い出すのは、長男が赤ん坊のころ、いつも母子家庭同然だった我が家、台所をするときとか、用事をするときテレビの前にラックに乗せた息子を座らせておいた。

ぐずっていてもテレビを見ていると機嫌が直る。
特にコマーシャルのときになると強い興味を示した。

長じて、息子はどちらかというとテレビ、パソコン好きのお宅族だ。

話しを元に戻すと、母のところで赤ん坊は大人気だった。
母に赤ん坊のほうから笑いかけたので
仕方ない、という感じで母も笑いを返した。

抱っこさせたらこわごわと抱っこしていた。
満面の笑みではなかったが、ひ孫を実感しただろうか?

夕食の時間になってみなさんが食堂にいたときに
赤ん坊を見せたら、どのおばあちゃんも大喜び。

赤ん坊も普段ご近所さんや他の人に見せる顔とは違う何だか
自分の仲間だ、というような親しみの気持ちで接していたような気がする。
一生懸命に赤ん坊語で話しかけて笑っていた。

おばあちゃんたちは、特に認知症の人たちは無心のところが
あるから、赤ん坊と気持ちは通じるところがあるのだろうか。

母のとなりに座っているおばあちゃんは、独り言をいつも言っている。

そして、ご飯のとき、自分のひざに犬のぬいぐるみを2つ置いて
自分のご飯をそっと食べさせている。

他の人と話しているのは見たことがないし、
私が挨拶をしても軽く目礼するぐらいで話したことはない。

そのおばあちゃんが、まぁ、元気な赤ちゃんでございますね。
5か月ぐらいかと思いましたら2か月でございますか。
とてもしっかりした大きな赤ちゃんですね、と言いながら
パチパチと拍手までしてくれた。

虚像と実像とちゃんとわきまえている。

娘もすっかり満足してまた連れて行きたいと言っていた。

2009年7月15日水曜日

東電共の会よりお知らせ

東電と共に脱原発をめざす会=略して東電共の会

◆めぐり来る中越沖地震3回目の夏日、明日7.16に東電と経産大臣に申し入れを行います。(11時半~東電)
緊急ですが、経産省にも応援にお出でいただきたく、よろしくお願いいたします。

★◆★7月16日(木)14時半 経産省別館(日比谷公園はす向い)のロビー(もしくは路上にて)

◆東電共の会として次の3点を申入れします。
○柏崎刈羽原発の営業運転再開を認めないでください。
○柏崎刈羽原発の営業運転再開に関する行政庁の評価報告書をパブリックコメントにかけてください。
○首都圏において電力消費者を対象に、柏崎刈羽原発の営業運転再開をテーマとする公開討論会を開催してください。

◆先ごろ、柏崎市における保安院の説明会のさいに、入り口でチラシをまきました。そこには「保安院へ」として、上記の第2と第3の要請事項を書いたのです。そこで、正式に申し入れることにしました。無計画ですみません。
東電共の会では、消費地への説明責任を東電に要求し続けてきましたが、なかなか応じません。柏崎刈羽原発閉鎖はもちろんのこと、首都圏における質疑応答に応じるよう、強く要請してください。

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2009年7月12日日曜日

あざみ野でふぇみん主催のシンポ・分科会・展示会・交流会

わたしの貧困 女の貧困 どうして? どうする?ふぇみん泊まってシンポジウムinあざみ野 というちょっと変わったタイトルのシンポジウムと分科会・展示会などが開かれている。

きょう(11日)のシンポはどうだったのかな?

「わたしの貧困 女の貧困」とどう結びつくのかしらん? と思われる向きもあるかも知れないが、分科会ではエネルギーの話があり、交流広場では、チェルノブイリ写真展、上関原発反対の写真展、辺野古の写真展などが開かれている。

わたしも女も“生きる”ということにつながる。生きるは“いのち”だからいのちを脅かすことに対しては徹底的に問題にしなければならない、という視点からエネルギーや反核についても取り上げたのだろう、と解釈している。

チェルノブイリから23年、もう事故のあったことさえ知らない世代が増えてきている。
だから、機会をみて、写真展などを開きたいところだが、それがなかなか大変だ。
今回のように企画してもらえるのは大変ありがたい。
時間が許せば、こちらも展示を手伝いたい。

物販もありで、11日は行けないがふぇみんの方が売ってくださる、という。
本や絵ハガキに混じって、特別にベラルーシ製のしおり、ウクライナ製のマグネットも入れた。先ごろ現地訪問していたSさんが買ってきてくれたもの。
目新しいから売れるかもしれない。

男女共同参画センター横浜北 2009年度「市民・NPOがつくる男女共同参画事業」とタイアップしているそうで、会場費用などがかからないとか。ラッキーでしたとふぇみんの方。
とても立派な建物だった。

明日12日はどうだろう?
たくさんの人が来てくれるといいけど。

7/12sun ●10:00-12:30 分科会

①エネルギー問題を考えよう ―次世代によりよい環境を引き継ぐためにDVD『ぶんぶん通信No.1』上映(監督:鎌仲ひとみ)トーク:鎌仲ひとみ(映画監督『六ヶ所村ラプソディー』など)(予定)報告:山本由紀子(ふぇみん会員)、笹川栄子(ふぇみん会員)協力:原発を考える品川の女たち

②神奈川の米軍基地を知っていますか? ―船でめぐる横須賀軍港ガイド:新倉裕史(非核市民宣言運動・ヨコスカ)

③アジアの女性・子どもたちの今 -ベトナムとカンボジアからスピーカー:甲斐田 万智子(国際子ども権利センター代表)スピーカー:ファム・グェン・クイ(東京医科歯科大学院生)スピーカー:ホー・ティー・ラン(希望の村卒業生)担当:ふぇみんベトナムプロジェクト

④トーク 女性の貧困はなぜ深刻化したのかトーク:竹信三恵子(朝日新聞編集委員、『ルポ雇用劣化不況』)聞き手:赤石千衣子(女性と貧困ネットワーク)

⑤いまの世の中に自分の居場所、ありますか-セクマイにとっての家族や地域提案:ミナ汰(共生ネット代表)、共生ネット有志運営:共生社会をつくるセクシュアルマイノリティ支援全国ネットワーク(共生ネット

⑥男女共同参画センターで、困難を抱えた女性の就労支援に取り組む -母子家庭そしてガールズに向けてレポート:桜井陽子(NPO 法人全国女性会館協議会常任理事、(財)横浜市男女共同参画推進協会理事)レポート:小園弥生((財)横浜市男女共同参画推進協会職員)レポート:鈴木晶子(よこはま若者サポートステーション事務局長、臨床心理士)ほか運営:(財)横浜市男女共同参画推進協会&NPO 法人全国女性会館協議会<フィールドワーク>

⑦ざっくばらん! -女とビンボー、セックス、労働ゲスト:いちむらみさこ(路上アーティスト)、ゲスト:栗田隆子(フリーターズフリー)

●12:00- ひろがる広場オープン(無料 パネル展示、喫茶など)

2009年7月7日火曜日

金の指輪

日曜日母のところに行ったが眠りモードの日だった。
起こしても起きない。
雨は降っていないのに、窓は閉め切ったまま。
全開にして空気を入れ替えた。

しばらく私も横になることにした。

昼寝用の布団と毛布を、母のところに置いてある。
リサイクルショップで籐のベンチ兼用の物入れをみつけて入居のときに入れておいた。

本を読んだりしながらごろごろしていたがいっこうに起きない。

職員の方がお昼ですよ、とのぞきにきたがまだ起きない。

もう一度来ますから、と去って行った。

なにせみなさんすることがないから、食堂兼居間にボーッと座っている。
まず、おしぼりとお茶を配ってしばらく時間を稼ぐ。

テレビはついているときとそうでないときがあるが、見ている人は少ない。
テレビを見ることができる人というのはほぼ普通人に近い人。

一人だけしっかりしている人が茶碗を洗ったり、縫物をしたりしている。

母もできるはずだが、それには根気よく呼びかけたり見守ったりしてくれる人が必要。

家でできなかったことを他人に求めるのもどうかと思うが、往々にしてそんなものだ。

この日は、やっと起きたと思ったら、いきなりアンタ私の指輪返してよ、ときた。

え、私は知らないよ。

盗ったでしょう?

この前から指輪のことを盛んに気にしていた。

指輪を3つもしている人がいるんだよ。と私に言う。

自分は一つだから少しうらやましそうだった。

もちろん結婚指輪などもっていない。
10年ぐらい前に姉が買ってくれたものだ。
結構気にいっていたようだ。

どうしたのだろう? 
指輪が大事だからどこかにしまい込んだのか?
落としたのか?

無くなってももちろん誰のせいでもない。
出てこなければそれまでだが、一応、無くなったことを職員に知らせた。
後でお部屋を探してみますね、と言ってくれた。

私があちこち探そうとすると母は怒るから。

お昼はうどんだった。うどんは全部食べたがおかず2品は残した。
アンタにあげる、という。

私も一口食べてみたがあまりおいしくない。

いらない、と言ったら、おいしくないよね、と。

帰りがけ、今度はいつ来るのか?と怒ったように聞いた。

木曜日に来るよと言い置いて帰ってきた。

昼寝をしたので長い訪問になった。
受付にいる事務の人はなんと面倒見のよい家族だろう、と思ったに違いない。

2009年6月29日月曜日

土手を自転車で

今日の関東は予想に反して、晴れ。

彼の実家に泊りに行っている娘と赤ん坊の布団も干して、掃除機をかけて、洗濯をしてお昼を作って、久しぶりに主婦の仕事をこなした。

午後になってもお天気が崩れなさそうなので自転車で母のところに行くことにした。

道のりの半分までは土手をひたすら走ればよい。

ちょうど草刈りをしたばかりで、いい匂いがした。
桜の枝が土手にくっつきそうになっている中をこぐのはいい気持ちだった。

残念ながらほとんどが舗装してあったが、途中、舗装のないところもあり、土と葉っぱの上を走るのは、こぐのは大変だけど、よりいい気分になった。

約20分弱で到着。思ったよりスムーズだった。
これなら、天気が良ければ、自転車に限る。

着いた時、遅い昼食を食べ終わってお茶を飲んでいるところだった。

あまり活気はない。でもまあ、険しい顔でもない。

部屋に連れて行き、持参したトウモロコシとさくらんぼを何粒か。

おいしそうに食べた。さくらんぼ、もしかして私に一つくれるかも?と期待したが全部自分で食べた。

そうこうしているうちに早、3時。

今日の3時はバームクーヘンとミルクティーだった。
食堂に行ってみんなと少しおしゃべり。

母は耳が遠いのでおしゃべりには加われない。
おしゃべりするのは私。
隣に座っていた車椅子の女性は、
「いいわね、きてもらえて。私は昨日も待っていたけど誰もきてくれなかった。もうずっときてくれない」
昨日は日曜日なので、家族の人が来ることが多い。

でも先日お会いしましたよ。またいらっしゃいますよ。
となぐさめる。

この前は一番元気なおばあちゃんに、嫁さんのことでさんざん愚痴をこぼされた。
しばらく話したあと、はっとしたように、アンタ嫁さんじゃないよね?

娘ですよ。ご心配なく。

鉄砲百合&連れの状況


友人が送ってくれた百合の花。自宅で咲いているそう。


今日の埼玉は午後からドシャ降りの天気になった。

午前に行けばよかったが、午後に予定していた母のところに行くのは中止にした。

同じ市内だが、電車で一駅乗ってさらにバスで15分ぐらい乗るのは結構時間がかかる。ご近所さんが夕方でよかったら乗せて行くよ、とおっしゃってくださったが、ここのところ基金ニュースの編集でどうしても帰りが遅くなり、よって夜ご飯が遅くなり、連れは不機嫌だった。だから、乗せてもらうのをまたにしてもらって行かなかった。たぶん、明日は行ける。

連れは薬を飲む関係上かテレビの関係上か、7時には食べたいらしい。
心筋梗塞の手術をしたときに、これからはご飯を早く作るようにしなくては、と決心したものの、続かなかった。

通信の編集が終わった来週こそ、早めの夕食をこころがけよう。

連れあいのその後のその後:前回管をとりつけてもらった近くの医者に行き、再度とりつけをお願いした。
私も休みだったので一緒について行った。本人は来なくてよい、と言っていたが医師に直接聞きたかった。

管が詰まらないようにするため、あるいは詰まったときの対処の方法など、家族が何かできることはないのか? 聞きたかった。

診察室に呼ばれて入っていったら、何アナタは? という顔の看護師と医師。

処置しますから出てください。

ちょっと後で質問があるのですが。

今でいいよ、何ですか?

上記のことを言ったら、

ありません、の一言で片づけられた。

根本を治さなくては。

でも、1か月以上は手術はできないと言われています。

無言

結果的には今回は血が出なかった。

何でも先が細い管を使ってくれたらしい。たぶん注意もして刺したのだろう。

で、2日後には都心まで心臓の主治医がいる病院の泌尿器科に行った。
もともと心臓よりずっと先に前立腺肥大を抱えていた。

ときどき数値があがって、そのたびにどうしょうか?不安がっていたが、手術をするほど決定的でなかったので薬でなんとかおさまっていた。

そこに重要な血管の1本の閉塞率が90%という心筋梗塞が起きた。
幸いにして会社のすぐ裏が心臓の手術もするB病院だった。

家で倒れていたらとっくにあの世行きだったに違いない。

そのB病院の前に前立腺でかかっていたA病院があった。

A病院では、前立腺が次第に悪化してきて手術をせざるを得ない状況になっても心臓のリスクがあるから手術するのを延ばしていた。

いや、正確に言うと、延ばし延ばしにしたのは本人の希望もある。

心臓の主治医がいるB病院で前立腺の手術を受けたほうがよい、という最終診断になり、紹介状を先月もらって持っていたところに、肥大がピークに達し今回の騒ぎが起きた、というわけだ。

やっとなんとか管を入れたままでも落ち着いたので行ってきたわけだ。

前立腺のほうは紹介状を持っていたが、心臓病のほうの紹介状はないのですか?と問われたらしい。

同じ病院ですよ、とあきれて返答したとか。

B病院の医師の話では、手術までこのままでいいでしょう。

シャワーも入っていいですよ、とあっさりしたものだったという。

まずは平穏に送っている。

2009年6月22日月曜日

連れ合いのその後と母

さてさて、先週バザーをやったことなどとうの昔のような気がする。

まったく月日のたつのは早いものだ。

母、私、娘、孫、4世代がからみあっている真っ只中にいる。

そのうえ、連れあいだ。

連れ合いのその後は、オシッコの管をとりつけて10日後に無事はずすことができた。
でもまた同じようになりますよ、という医師の言う通り、4日目にして早異変が。
明日はまた病院に行って管をつけてもらう、と宣言。
そうするとまた血が出て、管が詰まって・・・
堂々めぐり。

まだ管がとれないときに、心臓病のかかりつけの医者(目黒)まで電車に乗って行った。

紙袋にそれとわからないようにオシッコ袋を入れて、管も洋服の下に入れると目立たない。

血が出たので血液を固まらないように予防する薬を止めている、と言ったらどっちが大事だと思っているのか、と叱られたとか。

心臓が大事なのはわかるが、オシッコがでないのも苦しい。

家事をするときも管と一緒で動きにくそうだったがそれなりに折り合いをつけていたので、とらなかったほうがよかったかも知れない。
管がついているととシャワーに入れないのが痛く、あせり過ぎたのかも・・・
夜が明けたら医者に行ってもらうしかない。


母のほうは波がある。

昨年もちょうど6月が一番不穏の時期だった。こういう時期はよくないのだろう。

今日はいい方だった。

新潟から姉夫婦と孫2人を連れて、高速道路代1000円(正確には首都圏に入ると別にとられるので合計1600円)で来た。

母のいるところの近くの蕎麦屋さんへみんなで出かけた。
娘と生まれたばかりの孫も連れて。

赤ちゃんが産まれるとは聞いていたが、いつ産まれたの?もうこんなに大きくなったの?とびっくりしていた。
3週間前にも姉一家はやってきて、そのときも娘と赤ちゃんも連れていった。でも、完全に忘れている。

赤ん坊のお父さんは誰だ? 
彼とも一度会っているがこれも完全に忘れている。

しかし、田舎のひ孫2人がおしゃまでその仕草を見ているだけで母の顔もほころぶ。
私たちがメニューを見ていたら、聞きもしないのに、一番安いのにしてください、とお店の人に言っていた。

結局は母は定食を頼んだ。
おかずを少し残したがご飯、味噌汁、お蕎麦をきれいにたいらげた。

母にとってはいいほうの1日だったと思う。

2009年6月16日火曜日

バザー終了

おかげさまで無事終わった。
収益と当日カンパを含めた55,000円を「チェルノブイリ子ども基金」に寄付。

衣類大箱3箱を「かにた」へ。食器&雑貨、みかん箱ぐらいのに入れた7箱を、障害者も共に働いているお店「よろづや」へ寄付。

バザーの後の残った品物、バザーをやったことがある人ならわかると思うけど、それらを引き取ってもらえるところがある、ということがどんなに心強いか。

今回は準備期間が短く、超・省エネバザーだったが終わってみればそれなりの募金になった。

ありがたいことだ。

バザーの翌日、入院中の仲間を見舞いに行ったとき、私ともう一人の仲間はバザーで手に入れた洋服とスカーフを身につけていた。

最後の片づけのときに見つけた品物が意外と似合ったときに、バザーを開いた醍醐味を味わうことができる。
もちろん残り物なので格安にしてもらう(?)というかする。
それぐらいの恩典はある。

バザー会場で余った子どものおもちゃなどは、会場に来られなかった孫のいる友達の顔を思い浮かべて後で安く売りつける。

募金の中にはそういうもろもろがすべて入る。

今年はうれしいことにチラシを見た若い人のお手伝いが数人あった。

宣伝は各戸に入れる小さなチラシだけ。
商店街の掲示も、時間がなく省いた。

今年はうちともう一人が預かっていた食器などすべてを吐きだした。

次にもし、品物が少なかったらいよいよ自分の家の多すぎるモノを
処分しよう、と決めている。

自分たちの身の丈にあったやり方でまだまだ続けられるかな?

2009年6月12日金曜日

チェルノブイリ救援バザー

今年もまたバザーを行う。

何回目か。

もうそろそろ潮時かと思いつつ、続いている。

今年もまたいろいろなことがあり、
休もうかと思っていたが

今年はバザーはないの?

という声に押され、というか
私たちも楽しみにしているので

やっぱりやろうよ、ということになり

明日11時~15時まで

いつものところで。

ギリギリにチラシを入れたのに品物は続々と集まっている。

お天気は晴れそう。

2009年6月10日水曜日

ちょっとしたエピソード?

きのう、事件は起きた。

帰宅したら連れがあたふたとパソコンで何やら調べている。
2日前の夜中、5分起きぐらいにトイレにかけこんでいた。
オシッコが出ないらしい。
朝になるのを待って近くの病院に行った。
前立腺肥大の症状が悪化したらしい。

痛いとかではなく、苦しいだけなので自分一人で大丈夫だ、というので
私は普通に仕事に出かけた。

帰ってきてみたら、管を入れて袋を下げていた。
とりあえず、その晩は熟睡できたようだった。

次の日、オシッコ袋の中は真赤だった。

連れは心筋梗塞の手術をしており、まだ予断を許さない血管を抱えている
(詰まる可能性のある部分が残っているとのこと)。
それで、薬を毎日6種類ぐらい飲んでいる。その中の一つに血液をサラサラにする薬がある。その薬のせいで、傷をつけたりすると血がしばらく止まらなくなる。

今回管を刺したので、それで血が出てきたらしい。

後からわかったことだが、その血が管の先で詰まって、袋からオシッコが漏れた。

最初は原因がわからず、あわてていたわけだが、かかった病院に電話をしたら泌尿器科の先生はすでに帰ったから診られないとのこと。

医療相談センターなどにも電話をしてみたらこの地域には泌尿器科は少なく遠いところを2つほど紹介された。
119番にも電話をしてみたらやはり大学病院ぐらいしかないですね、と。
それでも結構親切に教えてくれたらしい。
教えてもらった病院に電話をしたら救急医療で受け付けてくれるという。

そこに私が帰宅し、すぐにご近所にSOS。
まだダンナは食事前だから(アルコールが入ってないから)大学病院まで
送っていくよ、と。妻が即断。

大学病院では、当直の医師が入院患者の治療にあたっているからとやや待たされたが、看護師さんと医師は手際よく詰まったところを洗ってくれた。

そして、このエピソードを明日管をつけてくれた所に行って話してください、と。

エピソードじゃないよ、大事件だよ。と連れ。

前立腺の手術をしなくてはいけない状態のまま、心臓病のことがあり、1日延ばしにしてきた結果らしい。

でも、生検とやらを行ったばかりなので後、2か月は手術ができないとか。
(心臓病との関連かよくわからないが)

オシッコ袋は手術するまで、つけていなくてはいけないのではと大学病院の医師。

主治医は目黒なので、ちょっと落ち着くまでは行けそうもない。

私自身もここのところ、だいぶ疲れていて、体を休めるようにとかかりつけの医師ではなく、たまに診てもらっているウリウ治療室で言われたばかり。

しかし、もっと弱い人が家にいるのでそっちを何とかするのが先だ。

2009年6月4日木曜日

おおまくらい

とにかく食べる食べる。
おっぱいをあげている娘のこと。
つられてこっちまで食べる。

なにしろ、夫婦2人で1日2合炊いてもあまっていたのが5合炊いてもあまらない。
娘は菜食主義とまではいかないがほとんど動物性のものと油ものを食べないから、お米とみそ汁を
たくさん食べないと体がもたない。

味噌汁のダシも昆布と干しシイタケのみ。煮干し、カツオ節は使わない。
何かものたりなかったが慣れてくると食べられる。

何でもいいから野菜をたくさん入れた味噌汁を作る。
最初のころはお浸し、煮物、和えもの、と
いくつか小鉢を作っていたが、続かない。
最近は、ぬか漬け+お浸し+味噌汁のみというのも結構多い。

夫はつまりおじいさんだが、心臓の病気をしてから内臓脂肪を貯めてはいけなくなったからカロリーを抑えなくてはならない。
夫の食生活にとっては娘がいることは好都合。

食卓に魚、肉が出ていても娘は食べたくないらしいので遠慮はすることはないのだが、結局少な目かまたは食べない日もある。

たまに洋風スープも作る。

自然食品店で動物性のものを使ってない野菜だけのブイヨンというのを買ってみたが、まだ一度も使っていない。
洋風のときはセロリを必ず入れる。少しのにんにく、しょうがなども。
あとは根菜類、豆、葉物、何でも入れる。
味噌汁より何倍もコトコトと煮込むので野菜の旨みが十分出ておいしい。
味をみて、これならブイヨンを入れなくともよいか、という感じ。

味噌汁にもトマトを少しだけ入れるとおいしい。
ま、新たなレパートリーというかただ煮るだけだが、何でも入れるとおいしいということがよくわかった。

味噌汁は味噌が偉大な味付けをしてくれるので、さっと煮るだけでよいわけだ。
ダシ昆布はできるだけよいものを使う。
六ヶ所の昆布はおいしいのだが今は手に入らない。

そうだ、田舎では大食漢のことを「おおまくらい」と呼んでいた。
くらいは食らう。おおまはたくさんのまんまのことか。

私の父はおおまくらいだった。茶碗に3杯は食べていた。田舎の人はそれぐらい食べるのが普通だが、農家のように労働する人はそれでよかったが、父は無職に近かった。
内臓脂肪を貯めてクモ膜下出血になり、50代初めに亡くなった。

娘はおっぱい工場を操業(?)しているのだから今は食べなくてはならない。

2009年5月23日土曜日

風呂に入っていったら

母のところに寄った。

ちょうどお風呂に入った直後のようだった。
さっぱりした顔で食堂のテーブルに座っていた。

まず、座っていることが珍しい。

そして私の顔を見るなり、お前もお風呂をもらったら。

あの~、これもお風呂に入れてもらっていいですか?

と職員に声をかける。

じゃ、後でね。と職員。

今まで、ほとんど会話らしい会話を職員との間で交わしているのを
見たことがなかった。それに自分から声をかけている・・・

20日に入居して、翌日も心配でのぞいたが、そのとき、男性職員が
手をつないでくれたのでこちらもびっくりしました、と。

男性の方が苦手です、と伝えてあった。

特に体の大きいむっつりしたタイプは苦手だ。
ま、職員の方はみな、にこにこと接してくれるからあまり心配はない。

昨年も新築したばかりの施設に入り、今また新しい建物で、カーテンもピンクの花柄。
母は恵まれている。

今度のところは洗面所に鏡もついている。

今までのところは洗面所はあったが鏡はついていなかった。
たぶん、割れたときの危険と経済的なことと両方の理由からだろう。
実際には割れることなんて滅多にないことだと思うのだが、予防に越したことはないのかな?
また、水道も自動のタイプだった。水温もあったかいちょうどよい温度のが1年中でている。手を出せば自動で出る。
閉め忘れはないし、使いすぎもない。

今度のところは普通の水栓だった。お湯も自分で調整するようになっている。
自動で慣れていたからどうかと思ったが、大丈夫、もう慣れたらしい。

民間は経済的に厳しいから何かと先回りして合理的にしようとしているのか。

母にとって大きく違ったことがある。
それは失禁のためにパッドをあてていたがとれたこと。

昨年の秋、雷の日が続いたことがあった。
グループホームでは何人かが怖がったり、動揺したり、ちょっと大変だったと聞いた。そのときに、失禁して、以来パッドをあてるようになった。

お医者さんに聞いたら、「薬(精神を安定させるための)をやめたら、失禁は治りますよ」と言っていたので、もう、いいのではないかな、と思ったがなかなか家族からは言い出しにくい。
それとなく言ってみたが、あったほうがよいでしょう、というような判断。
家族より多くの時間を過ごすのだから、あまり口出しはしにくい状況だ。

特養に移り、まっさきにそのことを話した。もし、しなくてもよいと判断したらとってください、と。

昼間も夜も一度も濡れていなかったのでとりました。と2日目にしてあっさりとったらしい。

予防的なことはしないのが特養か。それとも施設の種類に関係なく、民間か公的なところかの違いか。

いずれにしろ、進むいっぽうなのだから、先回りしての予防より、そのつど、対処してほしい。

帰り際、ありがとね、と言った。
う~ん、うれしいけどちょっと怖い。

2009年5月20日水曜日

母の移転

無事終わった。
朝、病院に行き、脳のレントゲンを撮った。

正常な脳と母の脳と両方の画像を並べて説明を受けると一目瞭然。

かなり委縮しているという。認知症は確実に進んでいるということだ。

ただ、日々の行動にはすぐに結び付くとは限らない。

母の場合も、委縮してきていてもおだやかに過ごしているので
今のところ大きな問題はない。

大好きな孫の○○○ちゃんが来てくれて、母は安心していた。
今までのところを出るとき、病院に行くとき、
新しい施設に入るとき、○○○ちゃんがしっかり手をつないでそばにいる。

私が新しい施設で職員と話をしている間、
○○○ちゃんはおばあちゃんと同じベッドで寝ていた。

私にもまれに、気分がいいと、寝ろと勧める。

母にとって、寝ることが最高の幸せなのでそれを分けたいのだろう。

実際には母の横で寝る気分にはなれないが、
○○○ちゃんはそれを実践して、あとで、マジで寝てしまった、と言っていた。

もう一つ、母を安心させる要因があった。

今度のところは100床ある特養だが、10人ずつのユニットになっている。
母と同じテーブルに座っている人たち、みなさん好意的な目を向けてくれた。
隣の人が話かけてきた。

母は耳が遠いので私が通訳しないとわからない。

母をみて若いね~(それを伝えたら母はにこにこしていた)
いくつ? 88? 私は93だよ。若いね~ とまた。

何でもわからなかったら聞いていいんだよ、お互い様だから。
大変だけどいっしょにやっていこうね。
若いよ。とまた。
遠くから来ている、と言っていた。

見るからに田舎からきたばかりの風情の方で、母は田舎で
くらしていたときのような安心感を覚えたのではないか。

さらにもう一つ安心する要素が。

かつて私はおば(父の姉)の身元引受人になって
おばが入っていた都下の特養に通っていたときがある。

そのときの若い職員が母の特養に課長として赴任。
母と叔母が同じ姓なので、もしかして、と思っていました、と。

知っている人がいるのといないのとでは大違い。
どこにどんな縁があるかわからないものだ。

今日はとにかく朝から連れ出したので
疲れていて、まだわけがわからない状態だ。

だんだん事態を把握してきたら、前のところに
帰る、というのではないか。

しばらく私も通わなければ。

今我が家には里帰りしている娘と生後3週間の赤ん坊がいる。

今日も車を出してくれたご近所さんが
まさに、ゆりかごから墓場まで、だね、と言った。

2009年5月15日金曜日

急運風を告げる?

母のことでにわかに忙しくなってきた。

孫の誕生でなにかと忙しい我が家。
昨日は生協の日で仕事も休み。

産まれたら見にいくからね、と言っていた私のともだちが
3,4人連れだって遠くから我が家にきた。

ついでだからと同じ班の生活クラブ生協の人たちに
今日はオープンハウスです、赤ちゃん見たい人はどうぞ、と
声をかけた。

私は留守がちで最近は生協からとる品物も少なく、ほかのかたに
おまかせでほとんど参加してないようなものだが牛乳当番だけはしている。

うちとお隣が同じ生協仲間なので共通廊下が班配達の場所となり、
木曜日、うちの前はにぎやかになる。

で、品物をとりにきた4,5人も我が家の赤ん坊を見ていった。

何だかみんな、ちぃちゃ~いね、きれいな赤ん坊だね、
しっかりした顔だね、とほめそやしていく。
ま、赤ちゃんは誰でもちいちゃくてかわいいからお世辞というわけではないのかも。

おっぱいをやるママは夜中起きるから昼間も眠いわけだが、狭い家、私や夫も寝不足気味だ。

そこへ、人当たり(?)のようになって、昨日は疲れた。

4月のイベントがそのまま続いているような具合だ。

それだけではない。
母が急に特養に入所できることになり、数日前から落ち着かない。
いや、母には話してないが、私の気持ちと物理的にいろいろ
スケジュールを考えると落ち着かない。

入所のためには健康診断が必要。

そして入所はもう来週だという。

たぶん、少しぐらいの猶予はできるだろうが、特養もせっぱつまって
いる感じ。
4月オープンのこの特養、空き部屋があったらまずいのかも知れない。

せっかく入所を認めてもらったのだからこの機会を逃す手はない。

またまたご近所さんの車と運転手さんを借りて
今日は健診に。無事終わった。

来週もう一度病院に行き、新しい特養に行くことになる。

せっかくなれたのに、また混乱するだろう。

気の毒なことだが、グループホームは終の棲家にはなり得ないが
特養は終の棲家になりうる。

今、少し混乱が戻っても、先にいって落ち着いたほうがいいに違いない、と私自身にも言い聞かせている。

うまくなじむといいのだが。

2009年5月12日火曜日

イトコたちの訪問(つづき)

私のイトコ、つまり母にとっては実家の姪と甥にあたる。
実家の子どもは全部で4人だが、関東にいるのは今回会いにきてくれた2人。

母にとってはある意味、実の子どもより、訪ねてきてくれたことはうれしかったかもしれない。

自分から話すことはあまりなかったが終始にこやかに対応していた。

従姉は職業柄、母のいる施設などに詳しい。

とてもアットホームでいいところね、とほめていた。
また、部屋が広いのにも感心。

母が施設のふんいきになじんでいる様子がわかったようだ。

今日の夕方、母のところに寄った。
例によってほかのみなさんは食堂にいるのに、母は自分の部屋だ。
持参したオレンジを2切れ、食事前だったが食べた。

ふとみると、ベッドの頭のほうに「いつまでも長生きしてね」と書かれたカードが置いてあった。

職員の人が母の日のプレゼントとして、入所者みなさんにプレゼントしてくれたもの。
母は「いつまでも長生きしてね」とうれしそうにその言葉を復唱していた。

今日の午後は大好きなお風呂にも入れてもらって機嫌がよかった。

もうすぐ食事だからみんなのいる食堂に行こう、と促すと、
「お前も食べていけば」と私に言った。

気分がいいときは、だいたいそんなことを言う。

そうね、せっかくだから食べて行こうかな?

マイ箸があるのでさっそくご相伴にあずかる。

少しつまんだところで、私は家に帰ってご飯をつくらなければ
ならない、また来るね、と伝えた。

案外あっさりとうなずいていた。

どこまでわかっているかわからないがとりあえず
おだやかな日々を母は送っている。

2009年5月6日水曜日

イトコたちの訪問

チェルノブイリイベントに娘の出産とで3月から4月にかけて
あわただしい日々をおくった。

母のところには週2回訪問を心がけていたが、この間、それは果たせず、週1回か10日に1回になっていた。

10日ぐらい前のことだが、母のところにお客があった。
私のいとこ達で、母には、実家の姪と甥にあたる。

冬眠から覚めた動物のように、母の意識もしっかりしてきていた。
娘と外食をしたときに、○○ちゃんは来ないのか? と従兄の名前をあげていたので、
私が○○ちゃんとその姉に声をかけた。
母に連休中にも会いにきてくれないかしら? と。

それでさっそく、きょうだい揃ってきてくれた、というわけだ。

母は従兄のほうはすぐにわかった。
従姉のほうは、顔が変った、とすぐにはわからなかったようだ。

母と従姉は18歳しか違わない。母が結婚する前、最も幸せだったころ、従姉にとってはお姉さん的存在として、遊んでもらったり面倒を見てもらったらしい。

母が結婚したのは姉の歳から判断するに、25歳くらいか?(今度確かめなくては)

母の結婚後、私の姉が生まれ、2年後私が生まれた。

私を生んだ直後かその前からか、体調を崩した。
理由はいろいろあっただろうが、敗戦まぎわから21年、22年と都会に出た父の兄弟が家族連れで田舎に帰ってきていた。

田舎にあって、農家でない家の台所事情は苦しい。
嫁入りのときに持ってきた、着物はほとんど米と野菜に代えた、と後年いつもこぼしていた。

舅、姑、小舅(2人)がいる中に、さらに何人もの小舅と家族が増えて、母の苦労がピークに達したころなのだろう。

骨と皮だけのようになって、里帰りしてきたのをよく覚えていると従姉が言っていた。

あるときは従姉の母、つまり母の兄嫁が従姉を連れて、母の嫁ぎ先に母を引き取りにきた。
従姉は階下で待っていたが、2階では言い争いがして、
とうとう母を連れて帰ることはかなわなかったと。

病気がこじれて、精神病院にも入院していたときがある、というのは知っていたが
それが入院の前だったのか? 後だったのか? 

わざわざ引き取りにきた、というのは今回初めて知った。

この続きはまたにする。

2009年5月2日土曜日

ひまご誕生!

母にとっては3人目のひ孫、私には初の孫の誕生。

いとも簡単に、安産だったらしい。

助産院で普通の畳の部屋で連れ合いと一緒に
普通に産んだ。

上手なお産だ、と助産婦さんに絶賛されたと言っていた。

本人いわく、ここの助産婦さんはほめてその気にさせるのが
上手なの、と。
うん、それがなかなかできない。

子育て、夫育てをもう一度できるものならやり直したいものだ。

娘は上手にほめられて、親の目からみてもあっぱれな産婦生活だった。

アルコールはぷっつりとやめ、母乳によくないから、と甘いもの、油もの
動物性のもの、極力避けた食生活にした。

娘の連れ合いには別の食事も用意したようだ。

直前まで散歩もかかさず、予定日の2週間前には、チェルノブイリ写真展の
受付もやった。

そして、ぴったり予定日の5月1日、に子どもは産まれた。

子どもも親に応えたのか。こちらもあっぱれだ。

赤ん坊は親と一緒の薄い布団に寝ていた。
部屋の窓は開け放して、普通の家そのもの。

母たちの時代は家で産んだわけだが、寝たまま産ませるため
長時間かかったらしい。

今の助産院では、しゃがんだりよっかかったり、好きな恰好をして
赤ちゃんが出てくるのを待つ。

私は、不自然なお産だったことになる。
と言っても今もほとんどが分娩台で産んでいるから
不自然のお産は続いている。

2009年4月26日日曜日

雨の中、原発止めよう!集会&パレードに参加

今現在、26日だから今日が正式にチェルノブイリ事故から23周年だ。

26日前後に毎年、「原発止めよう!東京ネットワーク」主催で
脱原発のための集会&パレードが開かれている。

脱原発、反原発、なぜか、2つの名前があり、
私も意識しないままに両方を使ってしまう。

きのうの25日、恵比寿区民会館で開かれた「柏崎刈羽原発運転再開NO!」に参加。ほとんどドシャ振りの中、パレードにも一部参加した。
出席者60名ぐらい。

実は23周年イベントのために、仲間のTさんが、4月26日、日比谷公会堂が空いているなんてこれはこの日に集会をしろ、ということでしょう? すでに秋に会場を押さえていた。

2074席という大ホールは単なる市民グループが借りるには大きすぎる。

しかし、チェルノブイリ子ども基金では一度、4月に救援コンサートを
開催したことがある。
17年周年救援コンサート「チェルノブイリと地球」。

このときはエゴラッピンのよっちゃん、という人気歌手、ダブルフェイマス&リトルクリチャーのメンバーから4人、それにナターシャ・グジーという豪華な顔ぶれだった。

6月発行の基金ニュースには来場者1200人のお客様を迎えて、成功だった、との記載がある。1階が1000席だから1階が埋まればもちろん上出来というところだ。

事故2年目に、今は亡き原子力資料室代表の高木仁三郎さんらが中心となって、脱原発全国集会があり、日比谷公園と公会堂を全国の人たちで埋め尽くしたことがあった。

私もこのとき、埼玉の人たちと参加した。以来、反原発市民の一員となった。

その後、もう一度、日比谷公会堂で脱原発集会があり、チェルノブイリ被災者も招かれて講演した。

草の根的に広がった、脱原発、反原発運動がピークのころだろうか。
日比谷公会堂を借りるだけの勢いがあったのだ。

その後、原発はさまざまな問題をかかえ、ひずみを露呈しながらも、日本は着々と原発を建設し続け、とうとう55基もある原発大国になってしまった。

そして、反比例するように反原発運動は衰退の一途をたどっている。

いや、衰退という表現は正しくはないかも知れない。
首都圏の反原発運動は衰退していても、全国の反原発運動は根強く続いているのも事実だ。
原発や核施設の近くで暮らしている人々と安全な電気だけを享受している都会の市民との違いか。

集会出席者60人という数字。若い人は少ない。

それでも今年の秋には、全国的によびかけて、東京で大きな脱原発集会を開く予定だ。全国の人ではなく首都圏の人たちがどれだけ集まるか、集められるか?

チェルノブイリ救援には関わっても脱原発運動にまでは関われない、という人たちもまた多い。
実際、限られた時間の中、あれもこれも関われない、というのも事実・・・・・・・

2009年4月19日日曜日

母はいたって元気

先週、久しぶりに母と外食した。

娘も大きなおなかで参加してくれた。
と言ってもいまどきは目立たないような洋服を着るから
とてももう間近、とは思えない。

娘は写真展の当番にも2日間、入ってくれた。
さすがに20日の夜はこないという。

さて、母は長い冬眠から覚めて、いたって元気。
暖かくなりかけのころ、ん? もしかしてまた妄想か? 
と少し心配な時期もあったが、また落ち着いてきた。
木の芽どきは誰もがやや不安定になるらしい。
職員の方が言われていた。

グループホームから歩いて7,8分のところに
うどん屋さんがある。
外食はだいたいそこに決まっている。

念のため、帰りに必要かと車椅子も借りたが
自分で歩いた。足腰もかなりしっかりしている。

薬が効きすぎていたようなときは、足取りもおぼつかなかった。

今は最低の量の薬を飲んでいる。
それで妄想から解放されているのだからちょうどよい
塩梅なのだろう。

うどん屋はすごく混んでいた。だいぶ待たされた。
「けな所にこなくてもいいのに」・・・と母。
通訳すると「こんなところにわざわざ来て、お金を使わなくとも
よいのに」
ということを言いたかったと思う。

素直にありがとう、と言えないのが母。こなくてもいいのに、と私に投げかけた
ことばこそ、母らしく元気な証拠だ。

うどん屋は座敷風になっていて、靴をぬぐ。
靴を揃えたか、と私に確認。

うどん屋の帰り、民家に見事な桜の花が。きれいだね、と母もしばし
足を止めて眺めた。

いたって正気な証の数々。

私と娘が帰るとき、「ありがとね」と孫娘に向かって声をかけた。

孫娘には礼をわきまえているらしい。

いたって正気だ。

もうすぐ母の誕生日。ホームでは4月生まれの人の誕生会が
ある。保育園と同じだ。

25日、参加しようと思っていたがその日は首都圏の脱原発グループの
集会&デモがある。

4月のチェルノブイリ関連イベント、10月の反原子力の日イベント
この2つは、参加を欠かさないようにしているから
誕生会は欠席。違う日に行くことにする。

2009年4月18日土曜日

なんと早、4月の例の日も間近

例の日というのは例年関わっているチェルノブイリ救援
イベントのこと。

あたふたと過ごしているうちに明後日に迫った!

今年のチェルノブイリ救援イベントは昨年とまったく同じ場所で
写真展を開き、同じ場所で講演会を行う。

写真展は昨年は2日、今年は3日間。
昨年と大きく異なるのはウクライナ刺繍の実演と展示が
加わったこと。
それと日本の原発についてのパネルも展示したこと。

何よりも3年ぶりに取材したばかりの広河さんの新しい写真12点を展示したこと。

たまたまとおりがかって入ってみたら、思いもかけない展示物に出合って、驚きながらも、じっくり見て、心を動かされた、というようなケースが多かったようだ。

それは何よりも募金に反映されていた。

世の中、不況というのに会場に置いた募金箱には、
昨年よりずっと多い額が集まった。

入場者数3日間で600人。昨年より比率はやや多い。
3年前の事故20周年目に行った写真展では
1週間で1500人の入場者があった。

このときは日本のメディアの特徴、節目の年はこぞって取り扱う、という点を反映して、各新聞に、写真入りで大きな記事になった。

NHKも取材にきた。期間も長かったし、それなりに人数が入ってもある意味当然とも言える。

しかし事故20年目の前年も、後年も、ましてや今年は、記事に
してくれるところなどありはしない。

それでも、インフォメーション欄にはほとんどの新聞が情報を掲載してくれた。

しかし、いまや新聞に載ることと、ネットに載ることと、どっちが有利か。
ネットのほうが宣伝価値があるかもしれない時代だ。
かつてA新聞のインフォメーションの欄に載ると、その日は電話が鳴りやまないというときもあったが、最近では載ったその日でも数件しか問い合わせがない、というのも珍しくない。

などとずらずら書いているうちに時間切れ。

終わった写真展のことを書いている場合ではない。
これからある講演会の宣伝、宣伝。

あと2日。

★^★^広河隆一 チェルノブイリ最新報告会★^★^

4月20日(月)開場 18時半 開演19時~

前売り1000円 当日売り1300円

ゲスト 石川逸子(詩の朗読)
     須山真怜(ピアノ)

直前まで前売り受け付ける。
090ー3539ー7611まで

詳細はチェルノブイリ子ども基金のHP・最新情報欄
ブログ・神楽坂事務局だよりを見てほしい。

2009年4月8日水曜日

例によってチェルノブイリ救援イベント

4月は毎年忙しい。

必ず、チェルノブイリ○周年救援イベント、というのが
あるから。

7周年目ぐらいからかかわって、今年は23周年だ。
こんなに長くかかわるようになるとは夢にも思わなかったこと。

中心となって活動した初期のころ。

ボランティアとしてかかわった中期(?)のころ。

そしてまた中心となって活動している後期(?)。

後期というのはチェルノブイリ活動が後期という意味ではない。
私のかかわるのがそろそろかな、と思っているので。

なにしろ、目がしょぼしょぼ。パソコン用、紙の文字用、話し用と
微妙にメガネを代えないときちんとものごとが進まない。

これが一番物理的にきついことだ。

だから、急いでたくさんの仕事はもうこなせない。
若い人にやってもらうしかない。

それでも急がないで少しの仕事ならできるから
外から支える役に回りたいと思っている。

いや、そんなことをぐずぐず言っているときではない。

今は1枚でもチケットを売らなければ。

でも、忙中閑あり、明日は母とお昼を一緒に食べる予定。
できれば髪も切ってやりたいと思っているが
ちょっと時間的に無理かも。

午後は久しぶりに東電交渉に行く・・・。
4月20日の宣伝のため、なんとしても行かなければ。

2009年3月23日月曜日

絵本『金の輪』&お彼岸

また、母のところで絵本を読んできた。

今度は家から持参。

数少ない手持ちの絵本から選んだのは『金の輪』
小川未明作、絵は吉田稔美さん。
彼女とはイラク開戦のときの反戦運動で知り合いになった。
シンプルで力強くかつ愛らしい絵を描く。

小川未明はあまりに有名な人だ。
新潟県上越市の出身でもある。

そう言えば小川未明館というのが高田城址公園内にあった。

旧かなでこそないが、そういう言い回しの、ていねいな
日本語で書かれている。

母のほかに2人の聴衆がたまたまソファーにいた。
耳の遠い母が中心だが2人ぐらいだと声も聞こえたと思う。

絵本も大型なのでよく見えたと思う。
まあまああきないで3人とも聞いて、見て、いた。

この調子で次回も絵本を持って行ってみようか・・・

しかし、元気になった母にはやや不安材料も。
それはまた追って。

ところで昨日は連れの実家へお墓参りに行ってきた。

盆と春秋のお彼岸には必ず実家に連れだって行く。
というか、それ以外は行かないというか。

幸いにして、義兄夫婦が義母を見ていてくれるので
私たちはあいさつに行く程度で済んでいる。

行くたびに義母の衰えが目立つ。
しかし、本人はいつまでも自分で何でもできると思っているらしい。

一緒に住んで面倒をみている人しかわからない苦労がどんどん
増えてきたことが会話を通して垣間見える。

何とかできているうちはいいが、いつか破綻の日が来るか?

こっちもやや心配な状況になってきた。

2009年3月21日土曜日

春はチェルノブイリイベント

例年のごとく忙しい日々だ。

昨年4月、チェルノブイリ救援イベントに向けて
つたないブログを立ち上げた。

1枚でもチケットの売れ行きにつながればよいと願って、はじめたのだった。

甲斐あって、いや、ブログのせいではまったくないが、

みえない雲という映画と池田香代子さんのお話という組み合わせが
よかったのか、会場はほぼ満員に埋まった。

今年はどうだろう?

広河さんの2年ぶり(と思っていたがどうも3年ぶりらしい)のチェルノブイリ取材報告と詩人石川逸子さんの朗読、若きピアニスト 須山真怜さんによる“思い出”の「チェルノブイリ鎮魂曲」と詩のコラボレーション。

思い出と書いたのはかつてチェルボナ・カリーナというウクライナの少年少女合唱団を招いてコンサートを開催したとき、作曲家の山田泉さんよりプレゼントされた曲だから。

事故10周年の96年に初めて東京と小田原で披露された。

その2年後に再び来日した子どもたちを中心としたコンサートのとき、た弾いてもらった。

このときは埼玉公演だけがこの曲をプログラムに加えた。

山田泉さんは曲を創ってくださった数年後に病気で亡くなられた。

さらにもう一度埼玉公演のときに、この曲を弾いてもらった。
その際、山田さんをご招待しようと思って手紙を出したら、山田さんの両親から亡くなったことを知らされた。

代わりにとご招待したが、「老齢のため、遠慮したい。しかし、このような曲があることさえ知らなかった。弾いていただけてうれしい」というハガキが届いた。

「鎮魂曲」は他に広まることなくひっそりと眠っていたわけだが、今回で4回目の登場。

4月20日、広河さんの最新報告、石川さんの詩、そしてこの鎮魂曲、
これらをシビックホールで聞くのを心待ちにしている今日このごろである。

2009年3月13日金曜日

絵本 半日村

半日村

前にどこかで読んだような気がしないでもないが
母のホームにあった絵本の名前。

今日は時間をたっぷりとって行ったので、そのつもりでゆっくりしてきた。
ちょうど10時のお茶の時間に到着。

カボチャビスケットという子どもだましのようなお菓子をみなさんに、

少しずつあげた。もちろん職員の方の了解を得た上。


今日は何もないね~ と言っていたところよ、と職員さん。
原則、10時はお茶だけのよう。差し入れなどがあるとたまにそれがでたりする。 
みなさん喜んで食べてくれた。
お茶の後は、このごろよくやっているというラジオ体操。
テープがかかって立ってやる人、座ったままでやる人、いろいろだがみんな参加している。

が、2人がトイレタイムになってしまった。
2人に職員の方がそれぞれついてしまったら体操をする人がいない。
私が先生になります、と手を挙げて前に出て、始めたが、いざとなるとわからないものだ。途中つっかえつっかえて1回目が終わった。
もう1回テープが流れた。いつも2回は繰り返すそうだ。

職員の方も戻ってきて、今度はしっかりできた。
ラジオ体操のあと、母はおやつを食べた口の中をきれいにしたくなったらしく洗面所にいた。前はこんなにマメに歯磨き(入れ歯磨き)をしなかったが、すっかり習慣として身についたようだ。ホーム内でも ピカ一の歯磨き好きになっている。


そうそう、この前娘がおむつをおばあちゃんに縫ってもらうと、
材料一式もってきていた。

娘が来たときは眠い時だったようで、ほとんど関心を示さなかったとか。
その縫い残りがあるはずだ。おばあちゃんにも半分を縫ってもらって、2枚完成した。

それでもお昼まではまだ時間がある。時間があると、
すぐ寝ると言い出しかねないから、散歩に誘った。
行ってもいい(=行ってあげてもいい・・・)と母。

近くの公園まで連れだした。大根の花を見てきれいだ、と言った。
気がないときはこちらがどんなにきれいだね、と言ったところでまったく表情を変えないのだが。

今日はすっかりまともな感じがした。

標題について書く時間がなくなった。
おなじみの切り絵作家、滝平二郎さんが絵を、齋藤隆介さんという人が文を書いている。

この本を読んだ。母だけに聞こえるように耳元で読んだ。
これが、おもしろかった。途中、母は飽きてきて本を見てなかったのだが、
おもしろかったのでとにかく最後まで読んだ。
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=4919

2009年3月4日水曜日

韓国の伝統芸能

先週の土曜日、娘と一ツ橋にある教育会館のホールに出かけた。

この“つながるコンサート東京”は「戦争と女性の人権博物館」建設のためのチャリティコンサート。


1週間前にチケットは売り切れたとか。
900席のホールだからすごいことだ。

趙寿玉(ちょうすおく)さんのサルプリ舞い、安聖民(あんそんみん)さんのパンソリどちらも初めて見て聞いたのだが、すばらしかった。

特に、パンソリのおもしろさったら・・・
日本の落語と講談と掛け合い漫才を足して3で割ったような。

表情豊かに手振り身振りも加えて・・・

パンソリの古典演目の一つ「水宮歌」を熱唱した。
ただし、前段だけだったので続きが聞きたい。
娘もそう言っていた。

神秘的なサルプリ舞いにも魅了された。
軽やかでかつ荘厳な舞にひきこまれた。

李政美(いぢょんみ)さんはそんな2人をあったかく包んで
やや緊張の面持ちだったように思う。

歌はのびやかにやさ~しく歌った。

趙寿玉さん、安聖民さん、楽士の方々それぞれ、在日2世、3世の
人たちが母国の韓国に留学して伝統芸能を学んでいるという。

韓国民族の底力に圧倒された。

楽しんだ上に、4月のチェルノブイリ救援イベントのチラシ900枚を
折り込みさせてもらった。

日本の伝統芸能を学んでいる友達からこんなコンサートがある、
と教えてもらった。
残念ながら行けないが。

3月5日、紀尾井ホール「オーケストラアジアジャパン」 コンサート

日本・中国・韓国の伝統楽器群による管絃楽団「オーケストラ アジア」の日本メンバーによるコンサート。

おもしろそう。
まだまだ知らない世界がたくさんある。

友達が参加している邦楽合奏団織座の定期演奏会の案内も届いた。
4月4日(土)都営新宿線船堀駅前の船堀タワーホール5階大ホール。
午後2時ー4時。

こちらもチェルノブイリ23周年イベント実行委員会と
重なり行けない。

2009年2月23日月曜日

コンサートの紹介

つながる歌 つながる舞 つながるいのち―戦争と女性の人権博物館建設のためのチャリティーコンサート

日時■2009年2月28日(土)18:00開演会場
■東京一ツ橋ホール(東京都千代田区一ツ橋2-6-2 日本教育会館3F) 
出演■趙寿玉(ちょうすおく/サルプリ舞い、その他)   ■李政美(いぢょんみ/歌)     ■安聖民(あんそんみん/パンソリ)主催■つながるコンサート東京実行委員会
このコンサートを教えてくれたKY生さんのブログ黙々と-part3
詳しい紹介が載っている。

李政美さんの歌は何回か聞いたことがある。CDも2枚持っている。
人柄も歌も柔らかでのびやか。
多くの熱狂的ファンがいるらしいが、KY生さんもその一人。

韓国の本格的舞を見るのは初めてでとても楽しみだ。
このブログでも紹介したいと思っていたが、今になってしまった。
もう、席は完売とのことで、見ようと思っていた人、いる人には
残念な知らせ。


もう一つ、コンサートのお知らせ。

こちらはウクライナの民族楽器・バンドゥーラの弾き語りで人々を魅了している ナターシャグジーのコンサート。
ナターシャ・グジー公式ホームページ

★来日10周年記念コンサート ナターシャ・グジー
~伝えたい想い~ こころに響く歌声とバンドゥーラの音色にのせて
2月26日(木) 東京都台東区東京文化会館 小ホール
主催 東京労音

ところで知人のブログでナターシャ・グジーのことを紹介している。

 ブログプロフィール;
<家族九名の『九条の会・きゅう』です。憲法九条への思いを表したくてつい【九・きゅう】のつくものコレクションをはじめてしまいました>
9★Collection
で、何でナターシャかというと、CDが9枚になったので取り上げたというわけだ。

いろんな9のつくモノ、9のつくコトを探しては、ブログに取り上げている。

平和、いのちに関したものが多いのは必然だ。

そのコレクションが376にもなっている。その内容は圧巻!

順番が後になったが、「黙々と」のプロフィールには<デモと映画と卓球と本と旅と音楽と友と花と旨いもん> と載っている。

どちらも見やすくきれいなブログで感心至極。

2009年2月22日日曜日

チューリップのプレゼントが届いた


写真は娘の結婚式の翌日、届いたチューリップの鉢植え。

式は神社で厳かに執り行われたが、いわゆる披露宴はしなかった。
だから、両親への花束贈呈の代わりみたい。

思いもかけないプレゼントでうれしかった。

ちゃんと手紙もついていた。


ところで、今日は娘の式の様子ではなく・・・
私たち親の根性物語を披露。

夫つまり花嫁の父は近年とみにお腹がでてきた。
持病もあり、あまり太ってはいけないのだが、散歩にカロリー制限に涙ぐましい、ではなく、そこそこの努力をしているがなかなかやせず、おかしいな、と体重計に乗っては常に首を傾げている日々。

式には正装でなくともよい、と、両家で暗黙の了解だったが、黒の礼服を着る、という。
若いころ買った1着しかない礼服。サイズがまったくあわない。

ズボンは直してもらったがそれでも入らない。

仕方ない、買うか、とデパートなど物色したようだが、かなり高いことに気がついた。
いまどきだから安いのからいろいろあるのだが、この年になってあまり安いのは着たくないという。

娘にみっともない思いはさせたくないという親心?

しょうがない、ズボンは他の黒いので間に合わせることにし、上着のボタンがはまるまでやせることを決意。

あるとき、何だかあまり食べないことに気がつき、食べないようにしているの?
と聞いたら、「うん」との答え。

甲斐あって見事、式前日には4キロ減。
上着のボタンがはまった。

いや~、お金と愛情がからむと強いものだ。
そのまま、キープすれば大したものだが、辛かったからもういいんだと、体重は元に戻りつつある。

そして、花嫁の母は、ハナから着物、と決めていた。
洋服も着物も最近買ったことがない。

私に限らず、どの家にもたいがい着物の数枚はある。
タンスの肥やしになっているままではあまりに着物がかわいそうだ。

いまどきの洋服を買うとなるとそれなりの金額を出さないとならないだろう。

その点、着物はよい。
何年経っても、形そのものに流行などない。
年齢に不足はなし。着物もそれなりに似合うに違いない、と自己判断。
幸いご近所に着せてくれる人がいる。
当日、朝7時には我が家にきてくれた。

そんな人がいなかったら、着物など着る気も起きなかったに違いない。
帯はきついかも知れないけど、これぐらいがいいですよ、と言われ、きついとは言いだせず、大丈夫です、とつい言ってしまって、後でちょっと後悔。
しかし、やせ我慢もときには必要。

着付け終了。
雨の中、電車に乗って、階段を歩いたりできるのか?
不安もあったが、根性で歩いた。
食べるのは少し苦しかったが、食事も食べた。
帰宅までまったく着くずれしなかった。

というわけで、めずらしく親が根性を出した1日だったのである。

そうそう後日談がある。

娘が写真を持っておばあちゃんのところに見せに行った。
「この端に写っているおばあちゃんは誰?」
「お母さんだよ。アナタの娘」
着物を着ると、誰でもよく言えば落ち着いて見えるが老けて見えるのもたしか。
母はしっかりしている。

2009年2月20日金曜日

富士山と河津桜





見事な写真が送られてきた。

撮ったのは神奈川に住むNさん。

うまい!

撮影がうまいという意味だが、思わず食べたくなるような
富士山だ。

美しくてうまそー。


2009年2月18日水曜日

チェルノブイリは今

例年のことながら、4月26日前後に救援イベントを行う。
今年も早、その時期になった。

世の中は、チェルノブイリのことなど忘れたかのようだ。

100年来の経済危機?

まるで天変地異のごとくそれ一色。

それに加えて日本は内閣が崩壊するかしないか。

大変な事態である。

23年も前の原発事故のことなど思いだすどころではない。

しかし、今も汚染地に住む人々がいる。

日々、内部被曝し続けている人々がいる。

事故のときの子どもが大人になり、大人のガンが増えている。

次世代の子どもが病気になっている。

ウクライナだけで250万人の被災者がおり、そのうち28万人は
事故処理作業者で55万人が子どもたちだ。(2008年ウクライナ政府発表)

ロシア、ベラルーシ、ウクライナ合わせて700万人ぐらいの人々が
被災者あるいは汚染地域の住民ということになっている。

京大原子炉研究所の今中哲二さんらが事故20年目の2006年に
発表した報告に詳しい。

しかし、「汚染地域の住民数」と「チェルノブイリ事故被害者数(事故放射能の影響を受けた地域に住んでいたか住んでいる住民数)」の違いがよくわからない。

こちらの報告を読めばわかる人はわかるのだろう?

いずれにしろ、2年前と今と数字的にはあまり変わってないようだ。

細かなところは誰もわからない、というのが真相かもしれない。

2009年2月10日火曜日

「美しき天然」の歌

昨年の9月ごろだったか。
母のグループホームでKさん(男性)が歌を歌っていた。
その歌、知ってる知ってる、小学校で習いましたよ。とS(女)さんが。

声を合わせて歌い出した。
メロディーもどこかで聞いたことがあるな、とボーッと聞いていたが
「美しき天然」というのよ、Sさんの言葉が頭に残っていた。

ちょっと変わった題名だな、とそのとき感じた。

その後、新聞のコラムで歌手の沢田研二さんがその歌について書いていてその切り抜きをとっておいた。

この歌は明治33年ごろに作られたらしいが、沢田研二は木下サーカスで流れていた曲として知っていたのだった。
曲に美しい詩がついていたのを知ったのは小学校3年のときに、先生がオルガンを弾きながら歌ってくれたときだそうだ。

ずっとその切り抜きを持ち歩いていたのだが、なんだかその機会がなく日曜日に母のところに行ったとき、やっと職員の方に見せた。

普段歌うのを聞いたことがないTさんが、知ってます、と歌い出した。
Tさんは母のお仲間では最高年で89歳。

私はオンチで有名でした、と言いながら、ほぼ歌詞を覚えていた。

私たちのころは歌が少なかったから、ほとんどの人が知っているはずですよ。とも言われた。
件のSさんも交えて、何人かで合唱になった。

昔の歌というのは体に沁み込んでいるのか?
好きな日本の歌はと聞かれたらこの歌ははずせない、と沢田研二さんが述べているように「よい曲」だからなのだろうか?

検索したら歌詞が出ていた。歌も聴くことができる。

美しき天然

youtubeでは田谷力三が歌っている画像も見ることができる。

おばあちゃんたちに見せてあげたいものだ。

2009年2月2日月曜日

粕汁

あっという間に2月。

30日に娘の結婚式があった。

娘の友達のブログにこんなことが載っていた。
晴レとケ「今年の初めでたい」

浅草神社での式の様子などはこの次に書くとして。
昨日の日曜日は母のところへ行ってきた。

前日、つけな(漬け菜)を煮た。
野沢菜(田舎ではつけなと総称)のしょっぱいのを姉が送ってきたのだが、 ちょっとやそっとでは塩が抜けない。

そうだ、昔、酒粕けを加えて母が煮ていたな~
と思いだして、酒粕をスーパーから買ってきて、つけなと大根・里芋・人参・ キノコ・ネギなどある野菜何でもいれて、ぐつぐつと煮込んだ。
煮えた野菜の中に粕を入れてさら煮込んで出来上がり。
味はつけなの塩味のみ。

連れも息子も、実は粕や麹の味付けが好きではない。
しかし、珍しかったのか2人ともそれなりに食べた。
正確に言うと具だくさんの汁物だから、食べて飲んだ。

というかほかに大したおかずもなかったから
それを食すしかなかったか・・・

昨日は母のお昼に合わせて、粕汁を瓶に詰めたのを持参した。

案の定、母は寝ている。
起きないんですよ、と職員の方。
ほんとにいつ行っても大体熟睡している。

しょうがないから母の仲間の人と世間話をして時間を稼いだ。
外から入っていくと汗が出るぐらい暑い。

それなのに母はしこたま着込んだままベッドに入っている。
寝るときは1枚脱いで寝てね、といつも言うのだが。

職員の人に言わせると、ご本人は寒いとおっしゃるので、と。
そういう意思は尊重しないで脱がしてくれるといいのだが・・・
無理やりやるわけにもいかないのだろう。

洋服をたくさん着てふとんに入ると熱がこもって体温が上がる。
田舎にいたときも、たくさん着こんで寝ていた。
その上、電気毛布も使っていたからよく熱を出していた。

今は、電気毛布やアンカなど使ってないのでまだましかもしれない。

配膳のころになって、ようやく起きた。
私も隣に座らせてもらう。

持参の箸で一緒につまむ。

おばが特養に入っていたころ、食事は寝たきりの人も、寝たまま座れる椅子に座らせて食道で職員の方が食べさせていた。
お連れ合いらしい人が通って食べさせている人もいた。

母のところはそんなに重症の人はいないのでみんな一人で食べられる。

全体のカロリーは1日1500kcalぐらい。
いつも結構な品数と量だ。

職員の方も一緒に食べているが若い人は足りないだろう。
でも母のように寝てだけいる人には十分な量。
きらいなものは食べなくとも残してもいいと思っているが
そうはいかないか?
それぞれに声掛けをして食べた量を最後にチェックする。

母は自分がきらいなものとかは私に食べろ、と勧める。
大体が揚げ物など好きではない。

また、変ったものにも手を出さない。
昨日はデザートに出た桃の缶詰をカブの煮物と思ったか。
いきなり手を出して一口食べて確かめて
ごはんの上にのせて食べた。お口にあったのだ。

そろっと粕汁を出してみた。ちょっと野菜をつまんだ。
汁も少し飲ませた。
おいしくない、とはっきり言った。
そのあと、箸をつけなかった。

もうしばらく食べてないから、まったく異質な味と思ったのか。
しょっぱかったから受け付けなかったのか。

しょうがないから自分で食べた。
そんなにうまくはないが、この味はなつかしいだろう、と思ったのも
勝手な思いに過ぎなかった・・・

そう言えば、酒粕もなんだが薄味だった。
粕は、もっと酒臭い濃厚な味だと思ったが・・・

人の記憶が変わるのかも知れない。

2009年1月22日木曜日

最近の母

最近の母を語る前に〔正月の母--その3〕

なぜ、天袋の中をかき回していたかというと
正月だから着物を着て出かける、と娘。

それで帯やら小物やらを母のベッドの端に上って
探していた。

娘は深謀遠慮のたくらみがあって、着物をおばあちゃんに着せてもらうという。

きっと、体で覚えているからできるに違いないと。

娘・私・母の3代が揃ったわけだが、私は着せることができない。
娘は何とか自分で着ることができる。

でも、おばあちゃんのために、着せてもらおうと思ったわけだ。
で、娘が着物を着たいというから着せてくれない?
と耳元で訴える。

ややしばしうなっていたが、「できない」ときっぱり。

でも、ちょっと帯を見てくれるだけでいいからお願いだから、と
無理やりベッドから起こして娘が着物を着ているところに連れていった。
しょうがない、と帯に手をかけてまわし出したが何としても力が入らない、

苦笑しながら、「アンタきれいに着せてやって」と投げ出した。

やはり無理だったか? ま、着せてやって、という言葉が聞けただけでもうれしい変化だった。

しかし、娘はまだたくらみがあった。
マフラーの端を縫ったので、今度はおむつを縫わせるという。

娘は自分で考えて、助産院で子どもを産み、おむつは布を使いたいと言っていた。
1枚縫えばいいわけではないので、何枚も縫うことができるかどうか疑問だが試みる価値はあるかも知れない。

さて、最近の母だが、かなり正気に戻ってきた。
○○○ちゃんをいじめないで、とかわいい唯一の孫の名前が久しぶりに母の口から出た。でも、対して強い口調ではなかった。

薬を半錠に減らしただけで、こんなにも違うのか? と思う。

ほんとは統合失調症の人も服用しているというこの安定剤は頓服としてもらっているのだから、様子を見て飲ませない日もあってもいいのだ。が、大勢の職員、パートの人たちが交代で介護にあたっている現状では、様子を見て、ということは容易ではないようだ。

1日何錠とか、飲まないとか、決まってないと難しいらしい、ということがだんだん私にもわかってきた。
高い費用を払っているのだから個別に対応してくれないと困るのだが、やりやすい方法を選択するのもしょうがないか。

そんなわけで暮れから半分に減らし、結構言葉も返ってくるようになった。
過度の興奮とボッーとしたのがなければ、ま、会いにいきがいもある。

2009年1月15日木曜日

正月の母――その2

先日の続き。

正月泊まりに来た母はまれにみるはっきりしている状態だった。

1日目は長いマフラーの4つの端を全部縫った。
2日目はなます大根を刻んでくれた。

大きな大根をほぼ1本、千切りにした。

私が子どものころ、雪国の冬は大した野菜はなく
保存のきく根菜類がおもなおかずだった。

いろりのそばにまな板を台所から持ってきて、切っていた。
そして、いろりにかかっている鍋にそのまま刻んだものを入れる。

味噌汁用に、大根を薄い輪切りにしたものを重ねて、そしてちょっとだけずらしてトントントントン切っていくのをよくみていた。

子どもごころにうまいものだな~と感心しながら見ていた、と、思う。

前にも書いたが、父が亡くなってから、町の教員住宅の寮母として賄いをしていたときが母の人生で最高の時だった。

そのときの先生方からはいまだに年賀状も届く。

縫い物は本職だったが、あまりに田舎のため、仕事がなかった。

ところで正月は娘も泊りにきた。

母と私と娘と3人がリビングに寝た。母には折りたたみ式の簡易ベッドを使った。

グループホームでは広い個室に入っている。

田舎ではもちろん、個室があった。
2階に母の部屋があったが、足を骨折した後(驚異的な回復力ですぐに治ったのだが)、1階の仏間で寝ていた。

だから、我が家が一番狭くてある意味、居心地はよくないかもしれない。

母が寝ているベッドの端に私が乗っかって、天袋の物を探したときにはボー然とした顔で私を見上げていた。

おちおち寝てもいられないと思ったのではないかな。

なぜ、天袋を探していたか、というつづきの話はまた。

2009年1月13日火曜日

奇跡か? 普通なのか?

もう、1月も早半ば。

月日のたつのはほんとに早い。

母の正月の様子を書いておく。

三が日、我が家で過ごした母は、ご近所の方の車で、無事3日のお昼
「みんなの家」に送り届けた。

「お帰りなさい」という職員や入居の方たちの声に迎えられ、
すんなりと何事もなかったかのように、戻った。


暮れの31日、我が家に着いたときも意外とスムーズに家に入った。
ご近所の方に、いつもお世話になります、とあいさつをした。

私と一緒にホームにご近所さんが行ったとき
ただ笑っているだけで言葉はなかったのに。

家に入って、まずベッドに向かったがやや興奮していたのか。
寝ないですぐに起きてきた。

部屋を眺めていたが、針と糸を見てやおら手にとった。
何か縫うの?
「別に縫うのはないけど、針と糸をみたらなつかしくなって」
(こういう言葉が出てくることがすでに驚きだった)

じゃ、これ縫ってくれる?
ちょうど、長いウールの布をマフラーにでもしようかと思って
出しておいたのがあったので頼んでみた。
いいという。

針に糸を通すのはできないらしく私が通してその後は長い端を淡々と縫い始めた。
何度か糸を替え、1時間以上、ひたすら縫った。

夕御飯の時間になり、あとは明日にしようと、キリのいいところで終わりにした。
御飯のあと、いったんベッドに入ったが、気になったらしくもう少しだからと
起きてきてまた縫い始めた。

さらに30分ぐらいかけて縫い終わり、マフラーとして仕上がった。
ホームで縫物をみんなでするときもたまにあるが、ほとんど寝ているので
なかなか縫物の日に参加できることは少ないと聞いていた・・・。

耳が遠いだけのどこにでもいるような針と糸をもったおばあちゃんの風景。

奇跡のような光景に接して、少しじんときた。

そして、夕御飯のあとは普通に茶碗を片づけて洗っていた。

ホームでは一切それがない。
御飯が目の前にくるのを待って、食べ終わったら職員が片づける。

みんながそうだから、それに従っている。

家に戻ってきたら元の感覚が戻ったのか?

でも、2日目の夜から片付けなくなった。
緊張が解けてホームにいるときの感覚が戻ったのか?

その後行ってみたときも、様子を職員に聞いたときも
特に変わったところはないようだ。

我が家では、狭いところに寝かされているが、ホームでは広い個室があり
戻ってほっとしているのかも知れない。

なにはともあれ、正月のお泊まりは成功だった。

2009年1月5日月曜日

チャップリン映画と現代の状況


年末年始大変な事態が起きている。

イスラエルによるパレスチナナ・ガザへの空爆。

地上戦もはじまった。


民間人を攻撃しないようにしているとかイスラエル側は言っているようだが
いっせい空爆でそんなことができるはずがない。

三が日、我が家で過ごした母は、ご近所の方の車で、無事3日のお昼
「みんなの家」に帰って行った。

それで、昨日はヒマができ、新文芸坐でチャップリンの映画『独裁者』(1940年作)を見た。

  「世界には人類を幸せにする富がある。 

  国境はいらない。  

  若者に希望を。 

  老人に保障を。」

チャップリンが演説する場面に、息をのむ思いで観ていたのは私だけでは
ないと思う。

パレスチナ市民の苦難を、日比谷年越し派遣村に集まった人たちの苦難を、
思い浮かべずにはいられず、映画館は重苦しい静けさに包まれた。

チャップリンの偉大さにも改めて畏敬の念を抱いた新年だった。