2009年8月24日月曜日

実家の位牌

お盆に田舎の仏壇にある位牌をとくと眺めてみた。
合計5個。どれも木彫りの質素な位牌だ。


ひとつは父の妹きくさん。昭和19年没。
看護婦だったきくさんは今でいう院内感染か?

大勢のきょうだいの中で一番気立てがよく優しかったという。
ウラ若き身で惜しまれて亡くなってしまった。

一番下には信女という文字が読める。


次の位牌の最後の文字は大姉位。
私の祖母、64歳。昭和30年没。

子どもたち10人を育てたゴッドマザーだ。

祖母の実家は親分筋の親戚が日光にいる、と
よく父が自慢げに話していた。


私が子どものとき、祖母と長岡の親戚まで行ったことを覚えている。
十分な年寄りだと思っていたが64歳とは・・・
今の自分の年齢とそんなに違わない。

祖母は糖尿病を患っていたらしいが寝込んだのは覚えていない。
普通に生活していたように思う。
軽度だったのだろう。

それに引き替え祖父の死は悲惨だった。
祖母が死んだ翌年74歳で死んでいる。
祖父の位牌には居士の文字。

祖父は小学校の校長をしていた。
私がものごころついたときはすでに退職していた。
祖母と違って家にいることが多かった祖父は口やかましかった。

階段の雑巾がけなども力を入れてこういうふうに拭くんだ、と、
小学生になったばかりの私に体で教えた。

2度ぐらい自殺を図っている。
一度は包丁で手首を切った。
母が嫁ぐころーーまだ戦争が終わる直前だったようだがーー
村一番の恩給取りだから、というふれこみで仲を取り持つ人がいて
見合い結婚をした。

それが戦争に負けた翌年に通貨切り下げになった。

恩給で楽々家族を養える予定だったのが、一夜にして紙屑同然になってしまったのである。

農家でない家が田舎で暮らすのは並大抵のことではない。

晩年、中気を患い動くのもままならず、お金もなく、
そりゃ自殺も図りたくなる気持ちもわかる。

ちなみに祖父と祖母は10歳ぐらいの年の差があり、祖母が嫁いできたが子どもになかなか恵まれず、子宝が授かるようあちこちお参りしたということだが何のことはない、ただ、祖母が若過ぎただけだったらしい。

その証拠に産まれ出したら次から次に子どもが産まれ10人の子だくさんになった。
産めよ増やせよの国策に協力したということで、家には表彰状もあった。

父は長男であるが最初の子どもは赤ちゃんのうちに死亡。次が長女。
3人目にしてやっと産まれた男子ということで☆三郎という名前がついている。

その父は昭和42年1月、51歳で亡くなっている。
死因はくも膜下出血。一度はやや回復したらしいが、何か月後か、2度目の出血でだめだった。
1月、田舎は大雪のとき。東京で働いていた私と新潟市で働いていた私の姉を一緒にして雪道を叔父が連れていってくれた。
今と違って雪が降ると車はすべて止まってしまう。

近くの町で1泊して田舎に向かった。
私たちが着いたときすでに虫の息だった父が、待っていたかのようにカッーと大きな目を見開いた。
それが最期だった。

妹は中学生、弟はまだ小学生だった。

父の死により、母は苦労はしただろうが、経済的にはずっと楽になった。
背広を着る人がいない田舎でなぜか紳士服の仕立て業だった父。
東京・新宿の洋服学校で学んだ父の腕は確かだったらしい。
しかしほとんど仕事はなく母と一緒に直し物をしたり、母が行商をしたりして何とか食いつないでいた。

父の死により寡婦年金をもらい、さらに町が仕事まで世話してくれたのだから生活は安定した。

耳の悪い父は勤め人にはなれないと洋服学校に行かせて、仕立て屋にした祖父のことつまり自分の父のことを死ぬまでうらんでいた。

そもそも耳が悪いのも医者に診せるのが遅れたのも父のせいだ、と。
あちこちの小学校を転々とした父に従って、上の子ども3人は父の世話のため家を離れさせられていた。
下にはまだ子どもが6人もいたのだから祖母つまり父の母は家を離れられなかった。

長女はすでに観念していただろう。
でも、長男である父はあるときまではちやほやされ、母に甘えていたのに甘えられなくなった、それも教師である父のせい、と思っていたに違いない。

長女のしずさんは92歳で2004年に死亡。
私が身元引受人で特養で葬式を挙げた。

しずさんのことはまた機会を見て書きたいが、昨年10人目の末っ子がガンで亡くなり残ったのは叔母が2人。

父の男きょうだいはみんな早死にした。
私と姉を雪道案内してくれた叔父はその数年後に40代で心不全のため死亡。
直接の死因は心臓かもしれないが、強い酒を飲み続けた人生だった。

父と一番若くして亡くなった叔父の間に3人の男がいるが3人共ガンで死んでいる。
3人に共通しているのはやはりお酒好き。
ただし、私の父だけはお酒は飲めなかった。

そうだ、父の位牌には信士と最後に書いてあったが妙法蓮華経の文字で始まっている。
あのときは日蓮宗のお寺で葬式をしたが、今はできない人が大半ではないのか?
草場の蔭から父は何を思っているだろうか?

2009年8月17日月曜日

お盆と義母

特にお盆休みがあるわけでもないが
いつも恒例としてお盆は田舎に行く。

今年も週末行ってきた。

信仰心が強いわけでも故郷思いでも先祖に対する崇拝の念も
強いわけではない。

ひとえに長女である姉の指示に特に逆らわないだけだ。

いい歳をして、自分の意思はないのか? と問われれば
一連の行動が嫌ではないからだろう。

若いときは反発して、親族のいない海外にでも住んだら
どんなによいだろう、と夢見たこともある。

でもそんなこと無理に決まっている、と自分で思っていたが
それは自分が芯から思わなかったからなのだろうと
今になってみればそう言える。

昨年から、実家に母がいなくなり(我が家が実家?)、
姉も田舎の好きな義兄も行く張り合いが減っているとは
思うのだが、毎年寄る親戚もあり、それなりに準備をしている。

次女の私はそのお膳立てにのるだけだから気楽といえば気楽。

昨年同様、埼玉の北にある夫の実家に寄り
先祖を参り、義母を見舞った。
連れ合いはまだ長く歩くと出血するからと
行かなかった。

義母は相当認知症が進んできた。
母よりかなり達者だったのだが
高齢になって認知症になったせいか
腰もまがり歩くのもやっとという感じ。

私の母の話をしたら
お母さんは何歳?

87歳です。

そう、私よりずっと年上だ。
私はまだ78歳だから、何でもできるわよ。

いやいや、義母は92歳なのだがいつのころからか
77歳か78歳と言い張るようになった。

何でも自分でやる人だったから、できなくなっているのに
自分は若いと思って、同居の嫁さんと息子に、
世話してもらうことを極端に嫌がる。

ディサービスも行きたがらない。

無理やり連れて行ってもらったが
行っている間中、玄関に椅子を出して、迎えにくるから、と
動かなかったとか。

何回か試みたが同じ状況だったので
行かせるのを今は断念したらしい。

聞くと薬を5種類飲んでいるという。
義兄に何の薬かと尋ねたら
ちょっと詰まって「認知症の薬」という。
そんな・・・

薬はあっているのだろうか?
でも毎日みているわけではないから余計な口出しはできない。

話していても人の話は聞かず目をつむっていたり。
黙っていて、今話をしているから、と
幻聴の人とぶつぶつと会話している。
こんな症状もなかったことだ。

昼寝をすることを昔からしなかった人だから
うとうとしているのも椅子の上。

確実な義母の衰えを目の当りにして
厳粛な気持ちになったが
どうすることもできない。

2009年8月9日日曜日

痕跡と呻吟

毎年作っているチェルノブイリ救援カレンダー。
今年もその時期がきた。

来年はチェルノブイリ24周年。

毎年頭を悩ますが今年のタイトルは?

いろいろ案が出たが、帯に短しタスキに長し。

広河さんの写真を使うのだから
DAYS JAPAN 8月号特集のタイトル「核の痕跡」はどうか?

ほぼそれで一致したところに
当の広河さんから

あれは評判がよくない、と。
理由は字を読めない人が多いから。

みんなが読める字でないとどうしょうもない。
また、振り出しに戻って検討中である。

ところでチェルノブイリに限らず広河さん撮影の写真を貸し出す事務局が三重県津市にある。
正式な長い名前があるのだが、通称広河隆一写真展事務局
その事務局で出しているパンフレットをこのたびりニューアールすることになり相談を受けた。

現在のパンフのうたいもんくはこうだ。
 チェルノブイリ----再生産される悲劇
 アフガニスタン----空爆の爪痕
 パレスチナ・イラク----平和への呻吟

なかなかいい文句だと思っていたが「呻吟」これが意外と読めない人が多いのがわかった。

まず、娘が読めなかった。連れ合い、息子、仕事場のスタッフ、
まさかと思って聞いたご近所の熟年の友人たち。

私が聞いた人全員が読めなくて愕然とした。

堂々とパンフの表に書いてあっても読めないのでは意味もわからないだろう。
う~ん。
今の時代はそうなのか・・・

漢字離れ、読書離れが言われて久しいが、認識を新たにした。
でも娘も息子も結構本を読むほうなのだが
読む本の傾向が違うのか。



明日(いやすでに今日だが)は長崎忌。
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世界平和アピール7人委員会は、「核兵器廃絶実現への日本の具体的行動を呼びかけるアピールを発表した。

アピールは、核廃絶にたいする「抵抗勢力」への警戒をよびかけ、日本にかんしては、6月に衆参両院でそれぞれ全会一致で可決された「核廃絶決議」にのっとれば、日本政府はオバマ米大統領の打ち出した核廃絶への姿勢を支持するよう拘束されており、アメリカの核廃棄を妨げる根拠はないことを指摘している。
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7人委員会では広く転送・転載を呼び掛けている。

2009年8月6日木曜日

広島忌

今日は広島忌。

朝、ニュースを見ていたら

麻生首相が「唯一の被爆国として・・・」と演説していた。

この言葉にはいつも違和感を覚える。

核の問題は国の問題ではなく人間の問題だ。
原爆により日本人ならずアジアの人々、アメリカの人々たくさんの人たちが被爆した。

さらに原発による被曝を加えると国ではくくれない。

そんな単純なことがどうしてわからないのだろう。

わからないふりをしていたほうが好都合だから?

私たちは真実を知りたいと思う。

池田香代子さんのブログに核のことが書かれている。

「ふり」ではなくほんとにわからないことがわかったら市民は強い。

今日は丸木美術館のひろしま忌の日でもある。

仕事は休みだし久しぶりに行ってみようかと思っていたが
連れの退院とぶつかった。

今日はおとなしく家で、迎えてあげよう。

朝の広島からのニュースでは子ども代表の話がよかった。

被爆した人たちの痛みにふれ、まだ「戦争は終わってない」と
言っていた。

過去のことを忘れようとしている一部の政治家やその他の人たち、
この言葉をどんな思いで聞いただろうか。