2009年5月23日土曜日

風呂に入っていったら

母のところに寄った。

ちょうどお風呂に入った直後のようだった。
さっぱりした顔で食堂のテーブルに座っていた。

まず、座っていることが珍しい。

そして私の顔を見るなり、お前もお風呂をもらったら。

あの~、これもお風呂に入れてもらっていいですか?

と職員に声をかける。

じゃ、後でね。と職員。

今まで、ほとんど会話らしい会話を職員との間で交わしているのを
見たことがなかった。それに自分から声をかけている・・・

20日に入居して、翌日も心配でのぞいたが、そのとき、男性職員が
手をつないでくれたのでこちらもびっくりしました、と。

男性の方が苦手です、と伝えてあった。

特に体の大きいむっつりしたタイプは苦手だ。
ま、職員の方はみな、にこにこと接してくれるからあまり心配はない。

昨年も新築したばかりの施設に入り、今また新しい建物で、カーテンもピンクの花柄。
母は恵まれている。

今度のところは洗面所に鏡もついている。

今までのところは洗面所はあったが鏡はついていなかった。
たぶん、割れたときの危険と経済的なことと両方の理由からだろう。
実際には割れることなんて滅多にないことだと思うのだが、予防に越したことはないのかな?
また、水道も自動のタイプだった。水温もあったかいちょうどよい温度のが1年中でている。手を出せば自動で出る。
閉め忘れはないし、使いすぎもない。

今度のところは普通の水栓だった。お湯も自分で調整するようになっている。
自動で慣れていたからどうかと思ったが、大丈夫、もう慣れたらしい。

民間は経済的に厳しいから何かと先回りして合理的にしようとしているのか。

母にとって大きく違ったことがある。
それは失禁のためにパッドをあてていたがとれたこと。

昨年の秋、雷の日が続いたことがあった。
グループホームでは何人かが怖がったり、動揺したり、ちょっと大変だったと聞いた。そのときに、失禁して、以来パッドをあてるようになった。

お医者さんに聞いたら、「薬(精神を安定させるための)をやめたら、失禁は治りますよ」と言っていたので、もう、いいのではないかな、と思ったがなかなか家族からは言い出しにくい。
それとなく言ってみたが、あったほうがよいでしょう、というような判断。
家族より多くの時間を過ごすのだから、あまり口出しはしにくい状況だ。

特養に移り、まっさきにそのことを話した。もし、しなくてもよいと判断したらとってください、と。

昼間も夜も一度も濡れていなかったのでとりました。と2日目にしてあっさりとったらしい。

予防的なことはしないのが特養か。それとも施設の種類に関係なく、民間か公的なところかの違いか。

いずれにしろ、進むいっぽうなのだから、先回りしての予防より、そのつど、対処してほしい。

帰り際、ありがとね、と言った。
う~ん、うれしいけどちょっと怖い。

2009年5月20日水曜日

母の移転

無事終わった。
朝、病院に行き、脳のレントゲンを撮った。

正常な脳と母の脳と両方の画像を並べて説明を受けると一目瞭然。

かなり委縮しているという。認知症は確実に進んでいるということだ。

ただ、日々の行動にはすぐに結び付くとは限らない。

母の場合も、委縮してきていてもおだやかに過ごしているので
今のところ大きな問題はない。

大好きな孫の○○○ちゃんが来てくれて、母は安心していた。
今までのところを出るとき、病院に行くとき、
新しい施設に入るとき、○○○ちゃんがしっかり手をつないでそばにいる。

私が新しい施設で職員と話をしている間、
○○○ちゃんはおばあちゃんと同じベッドで寝ていた。

私にもまれに、気分がいいと、寝ろと勧める。

母にとって、寝ることが最高の幸せなのでそれを分けたいのだろう。

実際には母の横で寝る気分にはなれないが、
○○○ちゃんはそれを実践して、あとで、マジで寝てしまった、と言っていた。

もう一つ、母を安心させる要因があった。

今度のところは100床ある特養だが、10人ずつのユニットになっている。
母と同じテーブルに座っている人たち、みなさん好意的な目を向けてくれた。
隣の人が話かけてきた。

母は耳が遠いので私が通訳しないとわからない。

母をみて若いね~(それを伝えたら母はにこにこしていた)
いくつ? 88? 私は93だよ。若いね~ とまた。

何でもわからなかったら聞いていいんだよ、お互い様だから。
大変だけどいっしょにやっていこうね。
若いよ。とまた。
遠くから来ている、と言っていた。

見るからに田舎からきたばかりの風情の方で、母は田舎で
くらしていたときのような安心感を覚えたのではないか。

さらにもう一つ安心する要素が。

かつて私はおば(父の姉)の身元引受人になって
おばが入っていた都下の特養に通っていたときがある。

そのときの若い職員が母の特養に課長として赴任。
母と叔母が同じ姓なので、もしかして、と思っていました、と。

知っている人がいるのといないのとでは大違い。
どこにどんな縁があるかわからないものだ。

今日はとにかく朝から連れ出したので
疲れていて、まだわけがわからない状態だ。

だんだん事態を把握してきたら、前のところに
帰る、というのではないか。

しばらく私も通わなければ。

今我が家には里帰りしている娘と生後3週間の赤ん坊がいる。

今日も車を出してくれたご近所さんが
まさに、ゆりかごから墓場まで、だね、と言った。

2009年5月15日金曜日

急運風を告げる?

母のことでにわかに忙しくなってきた。

孫の誕生でなにかと忙しい我が家。
昨日は生協の日で仕事も休み。

産まれたら見にいくからね、と言っていた私のともだちが
3,4人連れだって遠くから我が家にきた。

ついでだからと同じ班の生活クラブ生協の人たちに
今日はオープンハウスです、赤ちゃん見たい人はどうぞ、と
声をかけた。

私は留守がちで最近は生協からとる品物も少なく、ほかのかたに
おまかせでほとんど参加してないようなものだが牛乳当番だけはしている。

うちとお隣が同じ生協仲間なので共通廊下が班配達の場所となり、
木曜日、うちの前はにぎやかになる。

で、品物をとりにきた4,5人も我が家の赤ん坊を見ていった。

何だかみんな、ちぃちゃ~いね、きれいな赤ん坊だね、
しっかりした顔だね、とほめそやしていく。
ま、赤ちゃんは誰でもちいちゃくてかわいいからお世辞というわけではないのかも。

おっぱいをやるママは夜中起きるから昼間も眠いわけだが、狭い家、私や夫も寝不足気味だ。

そこへ、人当たり(?)のようになって、昨日は疲れた。

4月のイベントがそのまま続いているような具合だ。

それだけではない。
母が急に特養に入所できることになり、数日前から落ち着かない。
いや、母には話してないが、私の気持ちと物理的にいろいろ
スケジュールを考えると落ち着かない。

入所のためには健康診断が必要。

そして入所はもう来週だという。

たぶん、少しぐらいの猶予はできるだろうが、特養もせっぱつまって
いる感じ。
4月オープンのこの特養、空き部屋があったらまずいのかも知れない。

せっかく入所を認めてもらったのだからこの機会を逃す手はない。

またまたご近所さんの車と運転手さんを借りて
今日は健診に。無事終わった。

来週もう一度病院に行き、新しい特養に行くことになる。

せっかくなれたのに、また混乱するだろう。

気の毒なことだが、グループホームは終の棲家にはなり得ないが
特養は終の棲家になりうる。

今、少し混乱が戻っても、先にいって落ち着いたほうがいいに違いない、と私自身にも言い聞かせている。

うまくなじむといいのだが。

2009年5月12日火曜日

イトコたちの訪問(つづき)

私のイトコ、つまり母にとっては実家の姪と甥にあたる。
実家の子どもは全部で4人だが、関東にいるのは今回会いにきてくれた2人。

母にとってはある意味、実の子どもより、訪ねてきてくれたことはうれしかったかもしれない。

自分から話すことはあまりなかったが終始にこやかに対応していた。

従姉は職業柄、母のいる施設などに詳しい。

とてもアットホームでいいところね、とほめていた。
また、部屋が広いのにも感心。

母が施設のふんいきになじんでいる様子がわかったようだ。

今日の夕方、母のところに寄った。
例によってほかのみなさんは食堂にいるのに、母は自分の部屋だ。
持参したオレンジを2切れ、食事前だったが食べた。

ふとみると、ベッドの頭のほうに「いつまでも長生きしてね」と書かれたカードが置いてあった。

職員の人が母の日のプレゼントとして、入所者みなさんにプレゼントしてくれたもの。
母は「いつまでも長生きしてね」とうれしそうにその言葉を復唱していた。

今日の午後は大好きなお風呂にも入れてもらって機嫌がよかった。

もうすぐ食事だからみんなのいる食堂に行こう、と促すと、
「お前も食べていけば」と私に言った。

気分がいいときは、だいたいそんなことを言う。

そうね、せっかくだから食べて行こうかな?

マイ箸があるのでさっそくご相伴にあずかる。

少しつまんだところで、私は家に帰ってご飯をつくらなければ
ならない、また来るね、と伝えた。

案外あっさりとうなずいていた。

どこまでわかっているかわからないがとりあえず
おだやかな日々を母は送っている。

2009年5月6日水曜日

イトコたちの訪問

チェルノブイリイベントに娘の出産とで3月から4月にかけて
あわただしい日々をおくった。

母のところには週2回訪問を心がけていたが、この間、それは果たせず、週1回か10日に1回になっていた。

10日ぐらい前のことだが、母のところにお客があった。
私のいとこ達で、母には、実家の姪と甥にあたる。

冬眠から覚めた動物のように、母の意識もしっかりしてきていた。
娘と外食をしたときに、○○ちゃんは来ないのか? と従兄の名前をあげていたので、
私が○○ちゃんとその姉に声をかけた。
母に連休中にも会いにきてくれないかしら? と。

それでさっそく、きょうだい揃ってきてくれた、というわけだ。

母は従兄のほうはすぐにわかった。
従姉のほうは、顔が変った、とすぐにはわからなかったようだ。

母と従姉は18歳しか違わない。母が結婚する前、最も幸せだったころ、従姉にとってはお姉さん的存在として、遊んでもらったり面倒を見てもらったらしい。

母が結婚したのは姉の歳から判断するに、25歳くらいか?(今度確かめなくては)

母の結婚後、私の姉が生まれ、2年後私が生まれた。

私を生んだ直後かその前からか、体調を崩した。
理由はいろいろあっただろうが、敗戦まぎわから21年、22年と都会に出た父の兄弟が家族連れで田舎に帰ってきていた。

田舎にあって、農家でない家の台所事情は苦しい。
嫁入りのときに持ってきた、着物はほとんど米と野菜に代えた、と後年いつもこぼしていた。

舅、姑、小舅(2人)がいる中に、さらに何人もの小舅と家族が増えて、母の苦労がピークに達したころなのだろう。

骨と皮だけのようになって、里帰りしてきたのをよく覚えていると従姉が言っていた。

あるときは従姉の母、つまり母の兄嫁が従姉を連れて、母の嫁ぎ先に母を引き取りにきた。
従姉は階下で待っていたが、2階では言い争いがして、
とうとう母を連れて帰ることはかなわなかったと。

病気がこじれて、精神病院にも入院していたときがある、というのは知っていたが
それが入院の前だったのか? 後だったのか? 

わざわざ引き取りにきた、というのは今回初めて知った。

この続きはまたにする。

2009年5月2日土曜日

ひまご誕生!

母にとっては3人目のひ孫、私には初の孫の誕生。

いとも簡単に、安産だったらしい。

助産院で普通の畳の部屋で連れ合いと一緒に
普通に産んだ。

上手なお産だ、と助産婦さんに絶賛されたと言っていた。

本人いわく、ここの助産婦さんはほめてその気にさせるのが
上手なの、と。
うん、それがなかなかできない。

子育て、夫育てをもう一度できるものならやり直したいものだ。

娘は上手にほめられて、親の目からみてもあっぱれな産婦生活だった。

アルコールはぷっつりとやめ、母乳によくないから、と甘いもの、油もの
動物性のもの、極力避けた食生活にした。

娘の連れ合いには別の食事も用意したようだ。

直前まで散歩もかかさず、予定日の2週間前には、チェルノブイリ写真展の
受付もやった。

そして、ぴったり予定日の5月1日、に子どもは産まれた。

子どもも親に応えたのか。こちらもあっぱれだ。

赤ん坊は親と一緒の薄い布団に寝ていた。
部屋の窓は開け放して、普通の家そのもの。

母たちの時代は家で産んだわけだが、寝たまま産ませるため
長時間かかったらしい。

今の助産院では、しゃがんだりよっかかったり、好きな恰好をして
赤ちゃんが出てくるのを待つ。

私は、不自然なお産だったことになる。
と言っても今もほとんどが分娩台で産んでいるから
不自然のお産は続いている。