2009年12月31日木曜日

終末医療とは?

いま、最期の力を振り絞って妹は病と闘っている。

だが、ほんとうに振り絞れるような環境にあるのか?

昨年亡くなった友と同じように足もお腹もパンパンに膨れていた。

ほんの5日前(12月26日17:00)まで本人から電話があったのがウソのようだ。

身内にガンで命を落とした人をたくさん見てきた姉は
だれだれが死んだときの○日前と同じだ、と言っていた。

おととい、私が行ったときはまだ少し話すことができた。
昨日姉が行ったときはほとんど話らしい話はできなかったそうだ。
呼びかけると応えようとするのだが、瞼が落ちて、それも敵わない。

姉は点滴の中の痛み止め(モルヒネ)の量が多すぎるのでは
ないかと疑っていた。

たしかに、私が行っているあいだも、痛みはほとんど訴えなかった。
痛みより、しきりにあちこちを無意識のうちに書いていたが、それは
痛み止めによる副作用らしい。

姉は経験が豊富で性格も肝っ玉かあさん的だ。

「点滴の中のモルヒネの量は少ないのか多いのか?」と看護士さんに聞いたそうだ。

「少ないとか多いとかという言葉では言えません。適量を与えています」

もし、心臓が止まった場合、延命措置をする必要はないがもう少し
モルヒネを減らして、気持ちというか本人の尊厳を残してほしい。
それによって少し痛みを伴ってもそのほうが人間として最後まで生きられる。
そういうことを希望したい、と私に電話で言っていた。

モルヒネの量について質問したとき、明らかにいやな顔を
されたので希望を言うことができなかった、そうだ。

もし、言ったとしても、その思いが医療者に素直に伝わるのか
どうか私も疑問に思う。

私の知人はお母さんが末期がんで亡くなるとき苦しむのを見て
いて、かわいそうで、 苦しまないようにしてほしい、と医療者に頼んだ。
そのためにお母さんの命を早めたのではないかと
数年たった今でも後悔の念にかられるという。

実際に苦しむのを目の当たりにしたら、見ているほうがどれだけ
耐えられるのか、疑問だが・・・。

苦しい、痛い、とすでに妹は何も言わないので、ガンになったら
苦しむ、という知識だけが入っている頭には不思議にうつる。

姉はガンになったら病院では死にたくない、と言った。
尊厳が残る形で死にたい、と。

難しい問題だ。

2009年12月22日火曜日

柏崎市へ申し入れ&友の墓参

風の強い22日、首都圏の消費者として地震により営業運転を中止していた柏崎・刈羽原発の営業運転をまだ認めないように、柏崎市長に申し入れを行った。

奇しくもこの日、刈羽・柏崎原発6、7号機の運転再開を新潟県知事らが認めた

ちょうど、市役所についたとき、運転再開を認めましたが 地元民としてどう思われますか?

といきなり入口に立っていた男性が聞いてきた。
新潟日報の記者だったのだが、
東京から来たのですが、というと残念そうに引き下がった。見ているとなかなかインタビューに応じている人がみつからないようだった。

待ち合わせのため市民コーナーに行ったがまだAさんはきていない。
ふと思って、記者に近づき、かくかくしかじかで柏崎までわざわざ
来たのだが、と話しかけてみた。
そうですか、とだけの返事。

次に、持っていたチェルノブイリ救援カレンダーを見せて、現在のチェルノブイリの様子を話し、カレンダーのことを紙面に載せてもらえないか、と話してみた。

カレンダーのことは関心を示してくれて、約束はできないが、
データを送って、ということになった。

そうこうしているうちに約束の時間が。
もう一人、福島からの友人も到着。

知事は今日予定があるとかで副知事が対応。
肝心のAさんはすでに副知事室に仲介してくれた市議と共に
部屋にいた。

副知事は、私はあまり詳しくないので、と正直だった。
Aさんの話には真摯に耳を傾けていた。

話の間、責任は国にあるので・・・、と
繰り返し述べていたが。

国、電力会社、自治体、それぞれに責任転嫁する姿勢は
変わらないようだ。


この日、もう一つの目的は友の墓参だった。
Aさんと共に「東電と共に脱原発をめざす会」の
代表世話人だった友は、昨年の今頃、病に倒れた。
柏崎のお墓に亡き父親と共に眠っているという話は
夏のころから聞いていた。

本来は嫁ぎ先のお墓に入るのだろうが、家族の思いやりか?
あるいは本人の希望だったのか?

最後までふるさと柏崎の原発の行方を心配していた友。
Aさんはたびたび原発のことで柏崎を訪れているが、まだ墓参を
果たせていないから年が明ける前にぜひ、と願っていた。
それがやっと実現。

お墓には前日までの寒さで雪がまだだいぶ残っていた。

1周忌を行ったばかりだろうか。
新しい塔婆とお花が供えてあった。

私たちもお花を供えて、Aさんが新潟市で買い求めたという
絵ろうそくを飾った。

このお寺は、地震のあと、倒れたブロック塀を直したそうで新しい
塀は木だった。

町のあちこちにまだ地震の痕が残っていた。

今日のニュースによると、6号機は不具合がみつかり、24日に予定
していた性能検査を延期するそうだ。
東電発表

2009年12月19日土曜日

天才映画監督 清水宏の映画

「親友・小津安二郎、先輩・溝口健二、鬼才・山中貞雄が
“天才”と呼んだ男」とチラシコピーに。

すでに先週の話になってしまった。
13日の日曜日に久しぶりに2本立てを見た。

★有りがたうさん(1936/松竹) 
★風の中の子供(1937/松竹)

詳しくは新文芸座のHPをみてもらえばよいが、文句なく
おもしろかった。

名匠・清水宏 その感動の世界へ

原作は川端康成と坪田譲治。

「有りがたうさん」は若き上原謙が主役で乗り合いバスの
運転手さん。

バスに乗り合わせた人たち、あるいはバスにお金を払って乗れず
伊豆の山道を歩く人たちのそれぞれの人間模様を描いていた。

都会に働きに行く若い娘の話が主題で、働きといっても女中奉公
ではなく売られて行く娘と不憫に思い、駅まで送っていく母。

ところで私の母は結婚前、東京のお屋敷に女中奉公に出ていた。
そのとき一緒に働いていた同郷の友達とは今(いや、数年前まで)
もつきあいがある。

この映画の娘たちを思えば、女中奉公は恵まれていたことになる。

山道を歩いている一群の中に朝鮮人のグループがいた。
家財道具、布団などもかついで集団で歩いていた。

バスの運転手さんはだれにでも親切だ。

この一群の娘に父親の墓にときどき花を供えてやってほしいと
頼まれて承諾する。
娘は、「私たちは道路を作るとその道路を自分で歩くことはできず、
次の新しい場所へ行くのよ」と話す。
運転手は乗せてあげようとするが、みんなと一緒に歩く、
と言って断る。

旅芸人は後から歩いて来る自分の子どもに今晩は予定を変更
してお客がたくさんいる**温泉に行くから、と言伝を頼む。

また、娘たちが、駅についたら、新しいレコードを買ってきてと頼む。
みんなでお金を出し合って買っている。
楽しみはレコードぐらいしかないから、流行っているレコードにしてね、と。

それぞれ歩いている人たちにすれ違うたびに
ありがとうさん、と言って追い越していく。

上原謙さんはこの映画が初主演だそうだが、ほんとにすてきな人だった。

赤ん坊は増えているけど、農村の二男、三男には仕事がなく
娘を売らないと一家は食べていけない・・・
戦争前の不況の時代。

この映画の中で売られていく娘も結局は幸せな結末になるのだが
世相を反映した厳しい映画ながらほのぼのとしていて
ユーモアもあり素晴らしい映画だった。
当時の日本映画界では画期的であったという全編ロケーションでの撮影。
山道のロケなど大変な苦労だったと思う。
伊豆の風景だが、新潟の山奥の我がふるさと共似ていた。
日本の原風景ともいえるのかも知れない。
ゆったりした時間が流れていた。


「風の中の子供」は、児童文学の名作を原作にしているだけあって
子どもたちの描き方が心にしみた。
涙涙・・・

後年戦争孤児らを引き取って育てたという清水宏。
知らない監督だったが思いがけず、いい映画(監督)に出会えた。

明日まで特集を組んでいて、どれも見たい映画ばかりだったが
初日しか見られなかったのが残念。
再度の上映を期待したい。

2009年12月3日木曜日

耳が遠い人は長生き?

母は難聴だ。
年をとると耳が聞こえにくくなる人は多い。
昔は耳が遠くなる人は長生きをする、とか言っていた。
聞こえにくくなっても長生きするんだからあきらめなさい、という
ことか?

母が老人性のうつになったときすでに耳が遠くなっていた。
一緒にいる家族とのいさかいも耳が遠いせいではないか?
全部をきちんと聞かないで(聞こえないので)、間違って聞いて、いたずらに妄想をふくらましている、そんな感じだった。

都合のよいことは聞こえて都合の悪いことは聞こえない、
ほんとのところはわからないよ、と、これも昔から
よくいっていた。
でも、それは正常な人の言うことであって
実際に聞こえたり聞こえなかったりするのだから
言われる本人にとってはなんとも理不尽な言い方だろう。

耳の遠いのが治ったら、家族との会話もスムーズにいくのではないか?と補聴器を買ってあげることにした。

普段一緒に住んでいないし、何もしてあげていないから、と奮発して高い補聴器を買った。たしか、片方が15万円。両方で30万円だった。清水の舞台から飛び降りるつもりで買った。

そのころ、介護まっさかりの友達に、理由を話して、だから補聴器を買ってあげたら病気も軽くなるのではないかと思うがどう思う? と意見を聞いた。

買ってもあまり変わらないと思う。というのが友の意見。それなのにその意見を聞かなかった。

人間っておろかなものだ。意見を求めながら、自分の思うような意見でないと受け入れないのだから。

2年ぐらいは文句を言いながら使ったが、補聴器は精密機器で結局手に負えなかった。今思えば、家族がきちんとケアしてあげなければ、豚に真珠だったのだ。

仕事をしている人ならいざ知らず、お年寄りで補聴器を使いこなしている人をついぞみかけたことがない。

耳が遠い人同士が隣に座っていて話ははずまない。

ケアする人が間に入ってそれぞれの通訳みたいなことをしてくれれば少しは会話が成立すると思うが、人手が足りない現状では、それは夢物語りだ。

足の悪い人なら車椅子、あるいは軽度の人は杖をつく、とか外から障がいがわかるが耳が遠いのはまったくわからない。

前の施設ではボランティアの人たちによる、楽器演奏や朗読があった。それもまったく楽しむことはできない人もいる、ということをボランティアの人たちは理解していただろうか。

全く聞こえないのではないので耳のそばで話してもらえば聞こえます、伝えてあるのだが、大きな声を出せば聞こえると錯覚して顔を見ながら話している。

病院に入院しているときも、だいきらいな点滴や注射のとき、ちゃんと話せばある程度理解できるのだが、看護士さんは話したつもりでも本人には伝わってないときが多々あった。

本人もわかったようにうなずいたりするからややこしい。いちいちわからないというのも面倒だったりプライドもあるのだろう。

認知症でない入所者が母のことをおとなしいですね、という。いえ、耳が遠いだけでおとなしくはないのですよ。

耳の側で話してもらえばおしゃべりしますよ、と言ってみるのだが。

会話が成り立たないし、テレビも聞こえないから、結局母の場合、寝ている、ということになる。