年をとると耳が聞こえにくくなる人は多い。
昔は耳が遠くなる人は長生きをする、とか言っていた。
聞こえにくくなっても長生きするんだからあきらめなさい、という
ことか?
母が老人性のうつになったときすでに耳が遠くなっていた。
一緒にいる家族とのいさかいも耳が遠いせいではないか?
全部をきちんと聞かないで(聞こえないので)、間違って聞いて、いたずらに妄想をふくらましている、そんな感じだった。
都合のよいことは聞こえて都合の悪いことは聞こえない、
ほんとのところはわからないよ、と、これも昔から
よくいっていた。
でも、それは正常な人の言うことであって
実際に聞こえたり聞こえなかったりするのだから
言われる本人にとってはなんとも理不尽な言い方だろう。
耳の遠いのが治ったら、家族との会話もスムーズにいくのではないか?と補聴器を買ってあげることにした。
普段一緒に住んでいないし、何もしてあげていないから、と奮発して高い補聴器を買った。たしか、片方が15万円。両方で30万円だった。清水の舞台から飛び降りるつもりで買った。
そのころ、介護まっさかりの友達に、理由を話して、だから補聴器を買ってあげたら病気も軽くなるのではないかと思うがどう思う? と意見を聞いた。
買ってもあまり変わらないと思う。というのが友の意見。それなのにその意見を聞かなかった。
人間っておろかなものだ。意見を求めながら、自分の思うような意見でないと受け入れないのだから。
2年ぐらいは文句を言いながら使ったが、補聴器は精密機器で結局手に負えなかった。今思えば、家族がきちんとケアしてあげなければ、豚に真珠だったのだ。
仕事をしている人ならいざ知らず、お年寄りで補聴器を使いこなしている人をついぞみかけたことがない。
耳が遠い人同士が隣に座っていて話ははずまない。
ケアする人が間に入ってそれぞれの通訳みたいなことをしてくれれば少しは会話が成立すると思うが、人手が足りない現状では、それは夢物語りだ。
足の悪い人なら車椅子、あるいは軽度の人は杖をつく、とか外から障がいがわかるが耳が遠いのはまったくわからない。
前の施設ではボランティアの人たちによる、楽器演奏や朗読があった。それもまったく楽しむことはできない人もいる、ということをボランティアの人たちは理解していただろうか。
全く聞こえないのではないので耳のそばで話してもらえば聞こえます、伝えてあるのだが、大きな声を出せば聞こえると錯覚して顔を見ながら話している。
病院に入院しているときも、だいきらいな点滴や注射のとき、ちゃんと話せばある程度理解できるのだが、看護士さんは話したつもりでも本人には伝わってないときが多々あった。
本人もわかったようにうなずいたりするからややこしい。いちいちわからないというのも面倒だったりプライドもあるのだろう。
認知症でない入所者が母のことをおとなしいですね、という。いえ、耳が遠いだけでおとなしくはないのですよ。
耳の側で話してもらえばおしゃべりしますよ、と言ってみるのだが。
会話が成り立たないし、テレビも聞こえないから、結局母の場合、寝ている、ということになる。
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