チェルノブイリイベントに娘の出産とで3月から4月にかけて
あわただしい日々をおくった。
母のところには週2回訪問を心がけていたが、この間、それは果たせず、週1回か10日に1回になっていた。
10日ぐらい前のことだが、母のところにお客があった。
私のいとこ達で、母には、実家の姪と甥にあたる。
冬眠から覚めた動物のように、母の意識もしっかりしてきていた。
娘と外食をしたときに、○○ちゃんは来ないのか? と従兄の名前をあげていたので、
私が○○ちゃんとその姉に声をかけた。
母に連休中にも会いにきてくれないかしら? と。
それでさっそく、きょうだい揃ってきてくれた、というわけだ。
母は従兄のほうはすぐにわかった。
従姉のほうは、顔が変った、とすぐにはわからなかったようだ。
母と従姉は18歳しか違わない。母が結婚する前、最も幸せだったころ、従姉にとってはお姉さん的存在として、遊んでもらったり面倒を見てもらったらしい。
母が結婚したのは姉の歳から判断するに、25歳くらいか?(今度確かめなくては)
母の結婚後、私の姉が生まれ、2年後私が生まれた。
私を生んだ直後かその前からか、体調を崩した。
理由はいろいろあっただろうが、敗戦まぎわから21年、22年と都会に出た父の兄弟が家族連れで田舎に帰ってきていた。
田舎にあって、農家でない家の台所事情は苦しい。
嫁入りのときに持ってきた、着物はほとんど米と野菜に代えた、と後年いつもこぼしていた。
舅、姑、小舅(2人)がいる中に、さらに何人もの小舅と家族が増えて、母の苦労がピークに達したころなのだろう。
骨と皮だけのようになって、里帰りしてきたのをよく覚えていると従姉が言っていた。
あるときは従姉の母、つまり母の兄嫁が従姉を連れて、母の嫁ぎ先に母を引き取りにきた。
従姉は階下で待っていたが、2階では言い争いがして、
とうとう母を連れて帰ることはかなわなかったと。
病気がこじれて、精神病院にも入院していたときがある、というのは知っていたが
それが入院の前だったのか? 後だったのか?
わざわざ引き取りにきた、というのは今回初めて知った。
この続きはまたにする。
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