2008年6月29日日曜日

今年の東電株主総会

28日の日経新聞に「株主提案不発、波乱少なく」という記事が。株主総会の主な株主提案内容が出ていた。新聞に載っていた20社のうち、わが東電を含む6電力会社が全国の脱原発株主たちによるもの。かつては北海道電力も株主提案をしていたが、今は力がない、という。

さて、今年の総会だが、昨年は長年使っていた日比谷公会堂から変わって商業会場になり、ちょっと新鮮だったが、今年は昨年と同じ、芝公園にあるザ・プリンス パークタワー東京の地下2階。昨年は隣で別の会社の総会があったが、今年は東電だけだったからあんなにたくさんの案内する人が必要なのだろうか。日比谷公会堂と違ってホテル側の案内人もいて、うるさいぐらいだった。

今年もシャンデリアは燦然と輝いていた。

提案株主は前のほうに用意されていたので後部の席を見るのを忘れてしまったがほぼ満員だったと思う。

2008年6月26日木曜日

昨年の総会の感想

そういえば、ミニコミ誌に頼まれて、昨年原稿を書いたのが出てきた。
以下転載。
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~~シャンデリアの下で行われた東京電力株主総会~~

 東京電力の株主総会に出席するようになって初めて今年は遅刻した。
 わが、脱原発・東電株主運動のサイトを見ると、「私たちは1989年以来、株主の立場から脱原発を訴えています」と書いてある。そうすると、私は19年間も株主総会に出席していることになる。脱原発株主が参加した1回目の会場は東電本社だった。初めて参加した総会のありかたに不満をもった私たちは閉会宣言をしてもその場所を動かなかった。最後はたしか、私も含めて7、8人が長時間会場に居残った。翌年から占拠を恐れてか、会場は日比谷公会堂に移った。以来一般株主が着く前に私たちは会場入り口に陣取り、チラシを配った。

 時が経つにつれ、勉強会をさぼるようになっても、総会の出席とチラシ配りは欠かさなかったのに……。
 なぜ、遅刻をしたのか。ひとつは、勉強会に今年もまた参加していない、行っても総会の内容についていけるかな? と気後れしていたことと、場所が今年から[ザ・プリンスパークタワー東京 B2Fボールルーム]というわけのわからない会場になったから、たどり着けるかな? という不安もあった。でも、とにかく参加することに意義がある、と出かけることにしたが、実際に日比谷より遠かった。

 10時開始に20分遅れで会場に着いた。同じホテルの隣のコンベンションルームでは三菱商事の総会が行われていた。都心のホテルというのは大きいんだな、と感心というよりあきれた。
 一般株主がまだぞくぞくと詰め掛けていた。入り口には昨年までなかったコーヒーのサービスがある。おみやげは例年と同じ扇子のみ(正確には、いつもよりやや高級そうだった)。
 長く広い会場はすでに満員に近い状態。日比谷は劇場だから後ろでも良く見えたが、今年の会場は平面に椅子が置いてあるだけなので見えにくいし、おまけに長い部屋なので壇上の役員たちは豆粒のよう。大きなスクリーンが4カ所に設置してあって、議長の顔と答弁する役員の顔だけはアップで見えるようになっている。

 なんと言っても特筆すべきは燦然と輝くシャンデリア。省エネを訴える東電としてはそれでも輝きを抑えたのか、あれが普通なのかは定かではない。広い会場はいくつにも仕切れるようになっていたから夜な夜な資金集めパーティとやらが開かれているのだろうか? 
シャンデリアのせいで、総会の間、雑念がわき集中できなかった(と言い訳をしておく)。
 3000人も入る会場はそうそうなく、数年前に建てられたこのビルの建設には東電も参画したという。ということはすべてオール電化なのか!
 私のまわりも一人暮らしや老夫婦だけの家庭が多くなってきた。心配だからガスは止めて電気にした、という声をよく聞く。当の年寄りはそんな選択を出来る人は少ないだろう。
息子や娘たちがとりつけてやっている、という例が多いのではないだろうか。コマーシャルの影響は大きいと思う。少し前までは熱効率のよいガスレンジだけだったのに。
 オール電化についてはわがグループが議案提案をしている。その議案も含めてどんな提案をしたか以下に掲げます。紙面の都合により一部割愛しますが、脱原発・東電株主運動のサイトには全文が載っています。

【株主提案議案の要旨】(中略)
        
上記は全株主に配布された「第83回定時株主総会開催ご通知」に会社提案と共にすべて掲載されている。私たちの提案に賛成した一般株主も含めた提案株主数は671名であった。株主総会では否決されても、議決権を行使できる株主数563,618名が私たちの主張を目にしたわけで、その意味するところは大きい。

最後に、東電の株主総会は会長が議事進行を行うが、一番多く発言するのは社長だ。勝俣社長は回答中、ヒューマンエラー、という言葉を再三使った。これって何? また、リターン運転? コーポレントガバナンス? エネルギーセキュリティ、あ、これはエネルギーの安全保障のことです、と自ら解説したが、それなら最初からそう言えばよいのに。
みなさまにわかりやすい表現を使い、より理解していただくように努めます、とも言われた。矛盾していないか? 猛省を促したい。
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第84回 東京電力定時株主総会がある

きょう、10時より開催。
昨夜、私たち脱原発東電株主運動のメンバーで打ち合わせを行なった。
と言っても私は最近は例会にもほとんど参加していなくて、毎月送ってくれる通信もざっと目を通すだけの不良会員である。
かつての総会には私たちのメンバーが百人以上出席していた時代もあった。
この運動が始まってから19年が経ち、すっかりさま変わり。

今年は何と私たちの会用に、東電が用意した席は12席。これは東電がいじわるをしているのではない。私たちの仲間が出席しなくなっただけのこと。株を手放した人ももちろん多い。

ごたぶんにもれず、メンバーの高齢化と運動の長期化(あ、これは連動するか)により、自然現象と言うべきものかも知れない。

しかし、私たちが行なう株主提案には496名もの株主が名前を連ねている。
これは長年の経験と地道な努力が実を結び、一般株主の同意を得ているからだ。
詳しくは脱原発東電株主運動のページに書いてある。
http://blog3.fc2.com/todenkabu/

今年も4つの株主提案を行なった。

総会では、あらかじめ郵送された開催ご通知というのに議案が記されている。
私たちの議案ももちろん同じ通知書に書かれている。
総会ではその議案をもとに、趣旨説明がそれぞれ許されていて、ことしも4つの議案について説明する。私自身も説明者になったことがある。たくさんの人数が出席していた頃は順番だった。今は出席者が少ないのでいつも同じような人が説明せざるを得ない。でも、私はほとんど内容に踏み込めないので説明者は避けていたが、今年は趣旨説明を書いた人に代わって代読することになった。

大丈夫かな?

もう一つ今日の大事な仕事はチラシを配ること。
脱原発運動の歴史やきょうの見どころなどを書いた冊子を仲間は配る。
私は? チェルノブイリ救援の募金を訴えるチラシを配る。

さて成果は?

2008年6月21日土曜日

忙しかった1週間

6月は1年の救援活動の中でも一番ほっとしているときかもしれない。

4月のイベントは一大事業だから半年ぐらいは大変。

7月になると現地での一大事業のひとつ、甲状腺手術後の子どもの保養(特別保養と呼んでいる)が始まる。現地とのやりとりやらこちらからもスタッフが出かける準備やら、何かと大変になる。

ベラルーシ、ウクライナそれぞれの保養所により、期間も違うので8月も子どもたちの保養がある。

日本からはスタッフのほかにボランティアも訪れて、保養の期間中子どもたちに日本の文化や遊びを教えたりすることを、1997年以来続けている。多いときは10人以上、最近は2,3人という少ない人数になってきたが何とか続いている。この期間、子どもたちはもちろん大喜びの保養になる。

現地での保養期間中は、残っているスタッフがのんびりと夏休み、という気分にもなれず、8月が終るまでは留守番の事務局も緊張がとれない。

今年は幸か不幸か保養が縮小になったので、事務局も夏休みをとる。
子どもたちにとっては不幸なことだ。

というわけで、上半期で6月は余裕がある時期なわけだが、ニュースの発行があり、まったくのんびりとはいかない。

その上、今年は母のことで何かと時間をとられる。
昨日も編集の真っ只中だったが姉一家が来たため、事務局には行かなかった。
幸か不幸か今はパソコンのメールを使って居ながらにして仕事ができる。
朝のうちにメールで必要なものを送り、印刷の段取りをして、休んでも大丈夫という状態に。

昨日の「みんなの家」での様子はまた後で書く。

そうそう、昨日の朝は、お姑さんの世話のために引っ越していったSさんも突然見えた。
お互いの母の情報交換する間もなく、姉達が現われた。


もう一つ忙しかったのは、同じ棟に住んでいたやはり高齢の方が昨年末有料のホームに入られて、このほど家を処分するということになり、家具や食器など使ってくれる人はいないだろうか、という話が持ち込まれたためだ。2年前に夫さんが亡くなられて一人暮らしだったが、その方の前の家のIさんが何かと面倒を見ていた。我が家もそうだが、世話になるのは遠い家族(親戚)より近くの他人である。

チェルノブイリのためのバザーを行なっていることを、その家の子どもさんにIさんが伝えてくれて、少しでもカンパになるのなら幸いだ、ということになった。急きょ、何人かに声をかけて家具を見に行ったり食器を運んだりした。1人暮らしなのに、たくさんのそれも大型の家具ばかりで、私たちの仲間では引き取りたいという人はいなかった。でも食器や雑貨は気に入ったものもあり、少しずつカンパが生まれた。約5000円ぐらいだったが基金へのカンパになった。

忙しかったが、ご近所との交流もできたし、カンパも生まれたのだから感謝。

印刷終了

今回もまわりのかたがたに迷惑をかけながら無事、基金ニュースの印刷終了(金曜日)。

何しろ試験は一夜漬け、夏休みの宿題は前日(当日?)でないと終らないという子どものころからの性分だ。もっと早くに手がければと毎回思いながら、直らない。

ほんとは土曜日の発送を基本としているので、今回もそうだったら前日終了だった。しかし、場所取りの都合で発送が日曜日になったので、印刷が終ってから、中1日あいての発送になった。これは快挙? というほどのものではもちろんないね。

最近は読みやすいようにと写真も多く使う。ぼらせんの簡易印刷ではうまく出ないときもある。
印刷を手伝ってくれているボランティアスタッフと製版をするときに、いろいろ工夫しているが、今回はっきり気がついたこと。写真それぞれが1人の人が撮った写真ではないことと、1枚1枚、状況が違うので色の濃い写真、薄い写真、さまざまだということ。

プロだったら、明度、コントラストなど写真の編集をしてから臨むだろう。またプロの印刷だったら、多少の違いはあってもそれなりにきれいに印刷される。

かつての理想印刷機などより、はるかに簡易印刷機も精度はよくなっているが、なんてったってしろうとが手がけるのだ。

1枚のページに何枚もの写真を並べるときはできるだけ写真の環境を整える、ということに尽きる。写真の編集をする、あるいは他とつりあう写真を選ぶなど、時間をかければしろうとなりにできることもある。

次回は余裕をもって取り組もう。

2008年6月18日水曜日

母の仲間 その後

母と友だちになりたい、といった彼女は、その後、何かと声をかけても、普通の静かな会話しかない。「一緒に散歩も行きましょう。がんばりましょう。」と言った熱い会話はどこへ行ったのか?

そうだよね、程度の差はあれ、彼女も認知症なんだ。
私が甘かった。

おとといの夜、母のところに寄ろうと思ったが電車が大幅に遅れて寄れなかった。
昨日は朝、少し時間をとって、10時のお茶にあわせて行った。
前日、小田原から届いたばかりの無農薬オレンジをたくさん切って持っていった。

母はぼけていても、なかなか細かなことを気にしたりする。

友だちになろう、と言ったTさんの娘さんがときどき来て、おやつをくれる、という。
だから、私にもみんなにあげてほしい、と。

そういうことをしていいとは知らなかったから、職員に確認したところ、いい、という。
3時にはホームで用意しているので10時がいいですね。と。

それで、少しまえ、お菓子のゼリーを1人2つぐらいずつあげてください、と頼んでいたのだがなかなかうまくいかなかった。

そうか、いちいちこちらの用をしているわけにもいかないのだろう。
だから自分でその時間に行ってあげればいいのだ、と理解した。
小さなオレンジだから、一切れはみんなすぐ食べた。おいしいと言ってくれたので職員に聞いてからもう一切れずつ渡した。母は一切れでいいと言ったがそのほかの人はみんな2切れずつ食べてくれた。

そのあと、車椅子で散歩する人がいて、私も母を連れて一緒に散歩させてもらった。
ほぼ敷地内に近い公園をぐるっと回ってきただけだが、生えている草をみて、
取らないのか、と私に尋ねた。庭の草は気になるのだろう。

おだやかなひと時を過ごすことができたと自己満足(?)。
あの後、興奮していなければいいのだが。
母だけでないが、家族が来て、かえって興奮するときもあるらしいから、良し悪しのときも。

ま、そのときどき、しょうがない。

2008年6月17日火曜日

東京メトロ副都心線、開通からダイヤ乱れ続ける

14日に開通した副都心線。都心最後の地下鉄、と華やかにスタートしたのだが。

土日の乱れはま、大したことはなく、最初だから、と大目に見たのではないか?

15日は日曜日だったがたまたま飯田橋まで行く用事があり、電車に乗った。この日は土休回数券を使わなければならない、という個人的事情のため、東武東上線で池袋まで乗って、池袋から有楽町線に乗り換えた。池袋から乗った電車はいやに空いていたがあの電車はどこの始発だったのか。

帰りは、地下鉄飯田橋駅から、最初に来た電車が小手指行きだったのでそれに乗った。急行と書いてあったが、あまり不思議に思わなかった。

池袋駅であわてて降りる人がいて???

車内放送で、この電車は池袋の次は要町、千川、は止まらず小竹向原駅まで行く、と言っている。
地下鉄ではじめて急行というのを作ったのだとか。
小竹向原でいつものように東武線に乗り入れている電車に乗り換える。

ホームに止まっていた和光市行きに乗る。しばらく止まったまま???

向かい側に来た、急行川越行きが先に出ますとアナウンス。そっちに乗り換えた。

そしたら、小竹向原から和光市駅までノンストップだと???

急行という名前なのに和光市駅からは各駅だと???

従来の東武線の急行だと我が乗車駅は止まらない。
地下鉄直通の急行は止まるのだ。

なんだ、便利になったのか。とにかくこの日の帰りはいつもより所要時間は早かった。

しかし、最初の平日となった、月曜日。

ダイヤは大幅に乱れた。朝のラッシュ時に乱れたのが尾を引き、とうとう終日乱れていたらしい。
朝10時ごろ、駅についたら、渋谷行きの直通電車は運休。その影響で駅で20分以上待った。和光市で地下鉄に乗り換えようと思ったら、振り替え輸送をしているので池袋まで行く人は東上線に乗ったほうが確実です、というようなアナウンス。

日曜日と同じく、池袋駅で有楽町線に乗り換えて地下鉄飯田橋まで行った。

帰りは朝よりひどかった。

飯田橋駅から清瀬駅各停に乗った。
池袋まではまあ順調に着いた。
そこから先が前の電車がつかえているので、と、ちょっとずつしか進まない。
やっと小竹向原に着いて、東上線に乗り換えた。やはり、遅々として進まない。

赤塚駅で東上線の下赤塚駅に乗り換えたほうがいい、というアナウンス。
降りたことのない駅で、不安だったから乗り換えなかった。

和光市駅にやっと着いたら、今度は川越方面に行く電車が来ない。
来る電車ほとんどが和光市止まりに変更になっていた。

いつもの所要時間50分ぐらいのところ、2時間かかった。

なんだかな~

地下鉄に乗っている間はご迷惑をおかけしての連発だったが、東上線に乗り換えたら大したアナウンスもなかった。迷惑をかけたのは東京メトロで東武のせいではない、と言いいたいのだろう。

副都心線が開通してもまったく関係ないと思っていたが、とんでもない。西武線、東武線、有楽町線、みんな関係あるのだ。

乱れた原因は運転士が不慣れなため、というのがどこかに書いてあったが、シュミレーションは繰り返しただろうに???

謎は深まるばかりだ。

2008年6月15日日曜日

通信の発行

どこの団体もそうだと思うが通信の発行は重要な仕事だ。

募金によって支えられている団体はなおさらで、子ども基金の場合は3か月に一度の発行。

3か月間の活動のほぼすべてを網羅したい。とは言え、実際のところすべては無理なのでできるだけ、要の部分ははずさないように心がけている。

子ども基金は91年から活動しているが、ニュースは73号を数える。数が合わないのは、最初は毎月発行していたのと、臨時発行もあったからだ。

通信は、子ども基金の活動(=被災地の様子)を紹介するのと、募金の使い方を報告するのが大きな目的となっている。

募金者数の増減は多少あっても2800名前後を大体維持し続けている。

原稿を寄せてくれる人、編集を手伝ってくれる人、印刷を行なってくれる人、そして発送日には毎回10~15人ぐらいの人が集まっての大作業。飯田橋・ぼらせんの部屋を大体つかわさせてもらう。

一連の行動の中で何が一番大変かというと、ぼらせんの場所取り?

4か月前の同じ日に9時受付に合わせた電話がけをする。

9時に1分でも前だとかからない。1分でも過ぎるとお話し中。人気のチケットとりと同じ。

今どき、無料の部屋を借りられるところなど滅多にない。公民館でも地域センターでも費用はかかる。だから人気なのもうなづける。

いやいや、場所取りが一番大変というのはウソで、一番は発送作業の人たちが集まってくれるかどうかだ。2800通を一度に出すのは大変な作業だ。どうしても人数が足りなくて、発送が終らないときもある。そういうときは後から事務局で追っかけ出すことになる。

でも、そういう事態は滅多にない。幸いにいつもボランティアが集まってくれる。ありがたいことだ。

ぼらせんは部屋がとれなくともロビーは自由に使える。印刷室も空いていたら使える。だけど土日はロビーも満員だ。先にとれないときは、空きそうなテーブルの近くで待つ。

この間、熟年の男性グループが新聞を読みながら、テーブルの空くのを待っていた。タッチの差で私たちはとれなかった。彼らはすぐに作業を開始。手際よく印刷したものを封筒に詰めて糊付けをして発送。来月は何日、と次の集まりも決めて解散。

熟練工、と言った感じ。私たちはその手際よさに半ば賞賛のまなざしを送った。

逆に、こんな作業にこんなに人数が? と言いたくなるのが学生諸君。飯田橋は学校が多い。昔だったらそれぞれの学校で印刷したと思われるが、今はそういうことをさせない、と聞いた。
本当はどうか? よくは知らないが、とにかく、5、6人で占拠しておしゃべりしながら作業している。
私たちだったら1人か、せいぜい2人でできる印刷作業。

それでも、こういうことを経験する学生とそうでない学生とは社会に出てから違うのではないだろうか?
おしゃべりしながらでも経験したほうがよいに決まっている、と私は信じている。

2008年6月10日火曜日

東京メトロ副都心線まもなく開通

毎日利用している東武東上線には有楽町線が乗り入れている。

前から、新線池袋行き、というのがときどき有楽町線のところを走っていたのだが この電車はいったい何のために走っているのか、いつも がらがらで意味がわからなかった。

池袋に行こうと思ってそのまま乗っていると、とんでもないところに着く。

池袋は池袋でも、JRなどがある駅ではなくはるか離れた新線池袋駅というところに着く。

それが副都心線、という立派(?)な名前になって渋谷まで直行で行けるというのだ。

池袋駅が端っこだろうが関係ない。渋谷に用があるときは降りないで行けるのだから。それは便利だ。

現在仕事場が飯田橋なので残念ながら日常的に恩恵にあずかることはできない。もし、引っ越す前の明大前だとしてもやっぱり関係ない。

明大前のある京王線は新宿で乗り換えだ。副都新線は新宿3丁目、つまり伊勢丹があるあたりに東新宿という新しい駅ができるらしい。この東新宿は都営大江戸線の乗換駅になっている。

牛込神楽坂から事務所は一番近い。私は有楽町線の飯田橋駅を利用しているが、牛込神楽坂を利用する人は便利になる人もあるかもしれない。
ついでに、事務所にはもう一つ最寄駅がある。東西線の神楽坂駅だ。
早稲田・高田の馬場方面、あるいは大手町方面に行く人はこっちが便利。

東京の地下は縦横に線路がはりめぐらされているわけだが、地震のときはどうなんだろう? 地上より安全なんだろうか?まったく地上に出られないなんてことは起こらないのだろうか?

空恐ろしいことにならなければよいのだが。

2008年6月9日月曜日

落ち着いてきたか・・・

今日は、おやつが終って、みんながボール遊びをしているところに着いた。

私も見学。

職員の方がいろいろはやしてくれて、みんな乗せられている。

母はにこりともしないでゲームに参加していた。

1人の男性も同じように無表情だった。

しかし、来たボールにたいしてはみんな真剣で返す。

CDケースをラケットよろしくみたて、柔らかなボールをそれで打ち返すゲーム。

きょう、初めてやったのだそうだが、飽きることなく続いていた。

気にいるとずっとそれをやるとのこと。

認知症のグループホームは9人と決められている。母のところは2グループが左右のフロアに分かれている。
同じビルの3階~5階までは介護付き老人マンション。どこがどう違うのかよくわからないが、補助金の関係か、グループホームだけは地域密着型だ。

今、母のグループは今は6人。もう一つは8人だという。最初見えた方がいなくなったり、あとから入ってこられた人もいて、2カ月の間でも入れ替わりがあった。

なぜ、いなくなったのか、すごく気になる。でもそれは聞けない。

今いる6人、なかなかいい感じですよ、このグループは。と施設長さんの話し。母が極度に興奮していなければだが。

10日に薬をもらってから、飲ませるのに苦労しているらしい。安定剤は毎回飲まなくともよい、と言われている。1日1回でも母には利いているようだ。

母がみんなと一緒にいれば、私も他の人たちと話ができるのでうれしい。

少しずつ慣れるだろうか。期待がもててきた。

2008年6月7日土曜日

母の仲間

ちょっとうれしいことがあった。
ここのところ落ち着いている母だが、仕事の終ったあと、顔を見に行くのを日課としている。大概夕飯が済み、ベッドに入った時間になる。

それは何時かというと6時半ごろ。はやい!

寝るしかないでしょ、と言われるとグーの音も出ない。

でも、今日は違った。食事の後、部屋に戻らず、テーブルのところにいたのだ。

「どうしたの?」 「今日はご飯が大盛りで胸やけするから、起きていた」
安定剤をヤクルトに混ぜて飲ませようとしたが、お腹がいっぱいだからいらない、と拒否。

「ご飯が少ないんだよ。私はいつも7分目ぐらいしかよそってもらってない」とこぼすので、先日「母は田舎者でご飯が好きなんです。結構多目によそってください」と職員に頼んだ。
大体、都会ではご飯は少な目によそる。常識だ。まして年寄りの女性はそんなにたくさん食べないと思われて当然。

施設はたくさんの人が交代で詰めているので、みんながみんな同じように待遇してくれるとは限らない。会う人ごとに、これからご飯は多目にしてくださいね、と頼んできた。

効を奏し、ほぼみなさんに母の要望が行き渡ったらしい。パンのときもあるが3食ご飯のときもある。それが一様にたくさんのご飯を毎日よそってくれる状態になって、いささか多過ぎた? 「すみません、ご飯が今度は多すぎる」と言ってます、とまた頼む。

「そうですか? じゃ、ほどほどにしますね」 「あ、もしよかったらその都度本人にこれぐらいでいいか、聞いてくれませんか?」 「そうですね。それがいいですね」
一件落着。昔の人だからよそってもらったご飯は残すことはしない。

そのやりとりを聞いていた前の椅子にすわっていたおばあちゃんが、この人はおとなしいね。なんでも言ってもいいんだよ、と話しかけてきた。

前の席だから母には聞こえない。耳のそばで話すとわかるがそうでないとほとんど聞こえていない。でもわかったようにうなずくだけはうなずくので、ただ、おとなしい、ととられてしまう。田舎でデーサービスに行っているときも友だちはできなかった。何年通っても慣れるということはなかった。我が家にきたときも、最初は行ったのだが、デーサービスは絶対行かない、と言い張ってすぐに行かなくなってしまった。

職員の人には耳が遠い、ということは伝えてあるので耳のそばで話してくれる。入居者までにはいちいち、耳が遠いからそばで話してね、とは言ってくれない。今日はたまたま私が一緒にいたときに話しかけてくれたので、逐一母に伝えることができた。

その人は、うるさがられると思って声をかけなかったという。

「友だちになりましょう。おしゃべりがきらいでなかったら、今度は耳のそばで話しますからね。うるさかったら言ってね。散歩も一緒に行きましょう。がんばりましょう」

隣でおじいさんが何か字を書くマネをしていた。昼間来たとき、紙とペンを持って、一心不乱に書いているのを見たことがある。あの人はいつも字を書いてますね、と私が言ったら、友だちになりましょ、と言ったおばあちゃんは、「字をかいているのかね?どうかわかりませんよ。でも私もよくわからないからどっちがどうだかね(???)。これで辛いんですよ。ここでは一人ですし」としんみりとした口調。

ここが認知症専門のグループホームでないなら、まったく普通の会話だ。よく知らないからどこまで悪いのかわからないが、なかなかさっぱりした、感じのいい人だ。

がんばりましょう、と握手を求められて、母ははにかみながら握り返した。よかったね、と言ったら、うんとうなずいていた。

ヤッホー、と言いたい気分になった。何とか友だちになれたらいい。
私も及ばずながら力を貸す。

2008年6月6日金曜日

アエロフロートで順調に?

「驚くべきことに! すべて時間通り、無事着いた」と
ベラルーシに行ったスタッフより連絡があった。

飛行機が時刻どおり動くのが当たり前と思っている人が大半だと思うが、どっこいアエロフロートはそうではない。

たまたま運がわるかったのか? いや、周りには似たような経験をした人が結構いる。

そんなに多くない海外行きなのに、私自身3回もトラブルにあっている。

1回目は通訳と2人だった。出発すべき飛行機の調子が悪く、整備中だったか何かで。
もうすぐ出発? というような空気が何回かあったが、結局シェレメチボ第2国際空港に1泊となった。同じように、待合室のソファーで朝を待っている人が大勢いた。

通訳の家に行くことも可能のように思えたが、いつ、出発するか、わからないから、という理由で空港内にとどまった。

2回目は3人の旅だった。
なんのトラブルだったか忘れたがこのときはホテルが用意された。
待遇はましだったが、時間はかかった。時間はあってもモスクワ市内に行くことは禁じられていた。

そして3回目は1回目のときから10年後、3年前だ。
子ども基金が支援している保養施設の10周年記念のお祝いに4人でかけつけるところだった。成田から出発のときに、整備に時間がかかったという理由で(この理由自体怖い)、すでに1、2時間ぐらい遅れて出発した。でも、モスクワでシェレメチボ第1から第2に乗り換えるとき、6時間ぐらいの待ち時間がある、大丈夫、とみんな楽観していたがさらに予定より時間をかけて着いた。

国際線に乗る人は? と、シェレメチボ第1に着いたとき、どんどん先に呼ばれる人たち。私たちも呼ばれるものだとばかり思って並んで待っていた。時間はまだたっぷりある、と思った。

ところがいつまで待っても先に行けない。係りの人に聞いたら、国内線だからこの列は違う、という。 えっ! 早く言ってよ。ベラルーシ行きは旧ソ連時代のまま国内線扱いなのだ。
あわてて第2に向けて車に走ってもらったものの、特に警戒が厳しい頃で、検査のため入り口が極端に狭くしてあり、長蛇の列。

やっと中に入って、掲示板をみると、私たちが乗る飛行機はまだ出発していなかった。
しかし、また搭乗手続きに時間がかかり、結局乗れなかったのだ。
飛行機の到着が遅れたのはアエロフロートの責任なのだから何とかしてほしい、と迫ってもラチはあかない。翌朝10時まで飛行機は出ない、という。

泊まるところも探せない、空港内で寝てくださいと。
待合室のソファーで? 
ダメなものはダメで、事務室に行って掛け合ったがムダだった。

翌日の式典では入れ替わり立ち代わりのスピーチ三昧。不覚にも寝てしまった。証拠写真も撮られている。

そのときで懲りた相棒はもう二度とアエロフロートは使わない、と決心したはずだった。
今回は、費用、日程、両方で倹約できるアエロフロートに決死の覚悟で決めた。


もし、帰りも順調だったら・・・・・

いつもボランティア精神で、手荷物の重量オーバーなど、何かとサービスしてくれるルフトハンザドイツ航空を主に利用しているが、今後、他社の飛行機は使わず、アエロフロートにするか? 

かけたいところだ。

2008年6月3日火曜日

修学旅行の中学生4人が来局

東海地方の中学3年生4人が、事務局に来た。
修学旅行の中に、総合授業の一環が組み込まれている(?)。
毎年、この時期、どこかの修学旅行生がやってくる。

前もって、こういう趣旨で行きたいと連絡があり、資料を送っている。
私たちの団体がチェルノブイリ救援活動を行なっていて、どこに何を具体的に支援しているかは資料に書いてある。

しかし、のっけから「チェルノブイリ事故」のことを聞いてきた。
え? 事故のことは調べたのではなかったの?

幸いにして、事故20周年のときに京大原子炉実験所の今中哲二さんら専門家と私たち市民団体とが共同で調査・研究を行なった「報告書」がある。

事故の概要から現在の状況などチェルノブイリのことが全体的にわかるようにできている。

それを見ながら説明した。
帰ってからよく読んでね、と1冊あげた。

調査・研究のほうはトヨタ財団から助成金を受けて実施したが、報告書のほうは助成金が下りなかった。今中さんの研究の一環でもあるので研究費の一部を印刷代にあてた、ということで私たちは送料のみでこの本をいただくことができた。税金を使わせてもらっているのだからそれぐらいは、還元しないと、というわけだ。ほしい人にはチェルノブイリ子ども基金からも差し上げている。

事故の質問の後は「支援」について。サナトリウムとは何ですか? という質問。
かつて日本でも結核患者が療養するところなどをそう呼んでいた。
今、日本では、死語に近いから知らなくとも無理はない。
でも、辞書には出ているだろう?

いやいや、単にサナトリウムということばだけでなく、チェルノブイリ被害者が保養に行くところがサナトリウムだったから聞いたのだ。いや、同じことか。ま、どうでもよい。

その次に聞いてきたのが、私たちは何ができますか?
きたきた。それを待っていた。

まず、募金でしょ。

それから、知ってもらうことが肝心だから、学校で写真展を開くとか。
文化祭などで何か、環境問題とかの写真展がなかった?

なかった・・・

じゃ、社会人先生とか、外から人を呼んで話しをしてもらうことはなかった?

なかった・・・

図書館にチェルノブイリ関連の本はない?

なかった・・・

まさか!? ないわけないと思うけど・・・、ぐっと言葉を飲み込んで
そういうのをやるとか、提案するとか、リクエストするとか働きかけてみたら?

今、ベラルーシに行っているスタッフを講師として派遣するし、

写真展事務局は東海に近い三重県にありますよ、とパンフも渡した。

今まで小学校も含めて、学校でチェルノブイリのことを習った覚えはない、という。

じゃ、今日は何でここを選んだの?

先生がいくつかあげた中にチェルノブイリがあったから、と。

約150人の生徒たちが、4、5人に分かれていろんなところに行って生の声を聞くのはいい。でも、事前学習はしないのだろうか。神社仏閣の見学だって、事前学習には時間を割いた。ましてや、わざわざ小さな団体を尋ねて支援内容を聞くのだ。

火曜日はボランティア2人が定期的に来る日で、この日もいつもの2人+1人のボランティアがきてくれた。スタッフ2人だけのときも多く、今日は狭い部屋に中学生も含めて大入り満員だった。

もらった資料を見るだけ、読むだけ、よりも何か心に残るものがあっただろうか?

できれば、後日行なわれるであろう発表会をのぞいてみたいものだ。

2008年6月1日日曜日

風呂敷包み

母は結局2泊した。

興奮の度が最高潮に達する前になんとかおさめないと
大変なことになる、と、今回身に沁みた。

それで、できるだけ毎日顔を出すことに決めた。

急ぐときは自転車になるけど、仕事の帰りは駅から直行で
歩きだ。自宅から15、6分ぐらい、駅からだと12、3分ぐらい。
ちょうどよい距離である。
近いことは助かる。
私の健康にもよいに違いない。

きのうもきょうもまあ、おだやかだった。

明日当たりから危険水域か?

母にとって大事なものを包んだ風呂敷と
手提げ袋がそのままタンスの中に入っている。

風呂敷に包んだ荷物を玄関に置いておくのは
そういえば、昔からだった。

子どものころ、父と喧嘩になると、「私はもうガマンできない。
子どもがかわいそうと思っていたけど、実家に帰る」と
タンスの中の物を風呂敷に包み出して・・・。

私と姉は、オロオロした。
でもそれが何回か続くうちに子ども心に
ポーズだけなのだ、と合点するようになった。

母が3歳のときに、母の母は死んだ。

母の父親はあの時代には珍しく菜食主義者で村では変わり者で
とおっていた。家のことは何一つできなかったそうだ。

幸い年の離れた兄1人と姉2人がいて、末っ子の母の面倒をよく見たという。
また、母の家は昔の地主で、小作の息子達が幼児から高等小学校まで遊ぶとき、通学のとき、陰になり日なたになりしてかばってくれた。

長じて、東京に行儀見習いに行き、そこで空襲などを経験している。

東京がひどくなる前に田舎に帰り、介する人がいて、
父と見合い結婚。

母の愛を知らないかわいそうな子どもとして、周囲からちやほやされて
育った末っ子の母が嫁いだ先は、小姑がうじゃうじゃいる大所帯だった。


また、この続きは折りをみて書く。

とにかく、認知症には妄想、幻聴がある場合もあるらしいが
母はそれが特に強い。

認知症と精神疾患とつながりがあるのかどうか
その辺を今度、医者に行ったときによくよく
聞いてみたいと思っている。