2011年3月14日月曜日

福島原発のそばに住んでいた友人の話

双葉郡大熊町に住むOさん。
どうしたかな?

心配はしていたが、連絡はつかないだろうし、つくかもしれないけど
緊急の人たちの回線を使っては悪い、と思って
連絡をとる試みはしなかった。

そろそろ落ち着いたか?
いや、状況はどんどん悪くなるのでもう、聞かずにはいられない。
携帯に電話を入れてみた。

1回目つながらず。
2回目呼んでいたがつながらず。

数分後にOさんのほうから電話があった。

いつものような元気な声。
あ、元気だった?

でも聞いていくうちに・・・

【福島第一原発が危なくなり、どうなるか心配だった。
放射能も出るかどうかまだわからないときだったが、
誰とも連絡がつかず、とにかく情報もほしいから電波の届く
ところに行こう、といわき市まで車を走らせた。
避難勧告が出る前のこと。

でも、車が進むうちに、道路があちこちずたずたになっており
これは、戻れないな、と思った。
いわきのSさんの家に行った。1泊させてもらった。

いわきは断水が続いている(停電も?)。
そんな場所で貴重な水と食料をわけてもらうのは心苦しい。
那須の知人の家に避難することに。
Sさんも誘ったが、彼は自治体の議員で、やらなければ
いけないことがたくさんあるから残ると。

今は那須から電話している。
電気・携帯はつながるが、ここも断水している。

すぐに戻るつもりで家を出てきたからご近所の人に
あいさつもなにもしてこなかった。
犬も置いてきてしまった。

と話しながらも何度も声が詰まった。

老人施設に入っていたKさんはどうしたかな。
避難しているとおもうけど、在宅のお連れ合いとは
はなればなれだと思う。
落ち着いたら、必ずKさんのところを尋ねたい。

体が弱いIさんはどうしたかな?
お孫さんと一緒に避難したと思うけど。

郡山の友達は最初は大丈夫、と言っていたが
今はもう、放射能が多く放出されているしこれからも汚染がひどくなる、
と認識して避難すると言っていた。
会津若松にいる娘や孫も連れて避難したと思う。

ごめんね、何度も泣いてしまって。
こんな遠いところまで来てしまって。
あの風景、あの温泉、もう二度と戻れないと思うと涙が出る。
犬猫を見るたびに涙が出てしまう】

聞くほうももらい泣き。

下の子どもがまだ小学校に上がらない前、
富岡町に私も何度か行った。
Oさんも一緒だった。
福島2-3の事故のときだ。

久しぶりに今月末には首都圏の友達と連れ立って
福島に行く予定だった。


【ハイロアクションは間に合わなかった!!
老体に鞭打って、30年超えてもう40年、さらに60年でも・・・
と許可したのは誰だ!!
泣けてくる・・・ 】
        
上記は富岡町や大熊町にアパートを借りてまで福島に
通ったAさんからのメール。

ハイロアクション 福島原発40年

☆福島原発40年とわたしたちの未来☆


すてきなホームページを立ち上げ、
Oさんともう一人の若い女性とが実行委員会の
中心だった。

今ホームページをのぞいてみたら3月8日の更新が最後だった。
「アロハDEハイロ♪ はこんな感じ」と
楽しそうなタイトルが踊っていた。

3日後に巨大地震が人々を、原発を、襲うとは夢に思わず
ホームページを更新したのだろう。


わたしたちの未来は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

Oさん無事でよかった!!ずっと気にしていたの。他の仲間のことも気がかり。どうもF1-3の炉内が危ない。早く逃げてきてほしいけど道路が遮断しているだろうか。政府、マスコミのの発表はあまりに真実を隠し続けているようでひどい。いつまで国民をあざむくのだろうか。