2008年12月30日火曜日

正月に帰ってくる母

母が正月だけだが帰ってくる。

明日迎えに行き、3日に戻る予定。
送迎はご近所の方が引き受けてくれた。

今母の状態はおとなしいから、タクシーでも大丈夫だと思うが
ま、そのときにならないとわからない。
タクシーを呼んだけれど、無事乗るかどうかは保証の限りではないので
車を出してもらえるのはありがたい。

先週は食事をとらないときもあったが、今は回復したようだ。

この前行ったときに、正月うちに帰る? と耳元で聞いたら
こっくん、とうなずいていた。

たぶん寝ているだけの3日間になるかもしれないが
娘も帰ってくるし、とりあえずにぎやかになる。

2008年12月29日月曜日

チャリティオペラコンサートに

日本橋公会堂ホールまで行ってきた。

主催のフェニックス証券にはなにかとチェルノブイリ救援活動を
応援してもらっている。
社長の丹羽さんは七転び八起きというブログをもっており、
FX業に関して、また金融界についてほぼ毎日更新中だ。

社長業の合間にどうやってオペラの練習をするのか不思議に思っていた。
が、やはりあまり練習するヒマはなかったらしい。丹羽さんの歌は
ご本人も言われているようにいま一つのでき。

しかし、ほかの出演者はすばらしかった。

水船桂太郎さん(テノール)、田村佳子さん(ソプラノ)、豊島雄一さん
(バリトン)、堂々たるプロの歌手たちの歌いぶりはオペラをあまり
知らない私のようなものの心にも響いてくる。

おまけにヴァイオリニストの印田千裕さんが特別出演。

ピアノ伴奏の矢持真希子さんもすばらしかった。

社長の丹羽さんの企画・演出力もよかった。

2時間強の演奏会、堪能した。

おマケが生きテク(自殺解決マニュアル)というサイトを作って、自殺者を
減らす運動をしている人を舞台にあげて紹介。

このサイトを多くの人に知ってもらいたいと語っていた。
今年1年間で6000人がこのサイトを見て自殺するのを止めたということだ。


丹羽さんは子どものころ両親から
「戦争でも自然災害でも景気後退でも、不幸になるのは、いつの世でも
貧しい人達だ」と繰り返し教えられてきたという。
「自分のブログの“軸”もそこにあり、今日の演奏会の魂も同じ」と
プログラムに記していた。

折しもイスラエルがパレスチナのガザ地区空爆のニュース。
かつてない最大規模の空爆ということだ。
今後も空爆の継続または地上戦もありうるとイスラエル。

またしても弱い市民が被害にあう・・・

2008年12月24日水曜日

どうしたのかな?

母の様子がおかしい。

クリスマス会に娘が行ったときは元気だったという。

と言っても大勢いるところはいやだと言って
なんとしても部屋をでたがらなかったので
クリスマス会の料理もおやつも自分の部屋で食べていたということだ。

娘のことは、はっきり認識したようだ。

会話も少ししたという。

きのう、私がのぞいたとき、ちょうど夕飯の時間だったのだが食堂にいなかった。

職員の方が食堂に行きましょうと声をかけても私が声をかけても
ふとんをかぶったままビクとも動かない。
聞いているらしいことは気配でわかる。

数日前、友達の母親が亡くなった。
92歳だから大往生と言えるだろうが骨折で入院して、食事をとらなくなった、
と心配していた矢先だった。

母も食事をとりたがらないということは・・・

今日は行けなかったので、心配になってホームに電話をしてみた。
そうしたら、4日間入浴も拒否していたが今日は入ったという。
また、おやつも食事も部屋に運んだらきれいに食べたそう。

何か思うことがあるのか?

2008年12月20日土曜日

クリスマス会

友の死から早2週間。
ときどき、あの愛くるしい声を思い出す。
日々の暮らしに追われ、次第に悲しみも薄らいでいく。

家族や毎日のように見舞いに行っていた近所の友達はそうはいかないだろう。
でも、それも月日をかけて克服していくしかない。


今日は、母が入居しているグループホームのクリスマス会の日。

私は今年最後の「基金ニュース」発送のため出席できない。

先週、ホームで運営会議なるものがあり、それに出席した。
そのときに今日は参加できない旨を伝えた。

みなさんいらっしゃるから・・・・ お孫さんは?

そうか、娘に聞いてみるか。

彼と助産院さんに行く日で、午後は空いているという。
彼も一緒にのぞいてくれるという。

そうだ、母が唯一の孫と呼んでいる○○○ちゃんにも聞いてみよう。
4月の入居の時に来てくれてその後は夏に一度来て、確かそれ以来だと思う。

メールを入れたら、

「行けたら行きます。たぶん行けます。」
といううれしい返事がきた。

さて、孫たちをみて母はどんな反応か?

乞うご期待だ!

2008年12月9日火曜日

友のこと


友の死はどう考えても早すぎる。悔しい。

初めて彼女と会ったとき、大きなイヤリングをつけていた。
その後会うたびに大きなイヤリング揺らせていて、それが似合っていた。

自遊人? だと思った。

祭壇のわきにはご家族、親族の生花に混じって、私たちの

「東電と共に脱原発をめざす会」
「チェルノブイリと核の大地写真展事務局」

2つの花が、そして「原爆絵画展実行委員会」の花も飾ってあった。
首都圏の人たちと共に脱原発市民運動を続け、新座にあった「写真展事務局」では週1回の当番をこなし地元では地域の人たちと共に長年にわたって夏は原爆絵画展、冬は核・イラク・アフガンなどの写真展を開いていた。

「原発止めよう埼玉連絡会」の事務局としてニュースレターの発行も続けてくれた。
イラストが得意で文章も的確にまとめてくれたのでチラシづくりには欠かせない人だった。
(上のイラストは3月、長女の結婚式のために彼女が書いたもの)

イベントにおいては器用さを生かして衣装手作り、子どものころ習ったバレエも生かして演劇や踊りなど、企画実演をした。
ただ世の中に怒るだけでなく、いつもユーモアをもって楽しむことを忘れない人だった。

気心の知れた脱原発の仲間は私にとって、身内に勝るとも劣らないほど大切な人たちだ。
その一人を失った。
彼女と同じ柏崎出身の仲間から
「これから原発に依存しない地域づくりに私たちも具体的に何か出来そうな可能性が出てきたところでした。彼女もおそらく故郷の将来を心配しつつ逝ってしまわれたのだと思います」とのメールが届いた。
通夜、告別式に参列して、久しぶりの人たちに会った。
近いうちにゆっくり語り合う場を持とうね、と言ってみんなと別れた。

2008年12月8日月曜日

「東電と共に脱原発をめざす会」の窓口を担っていた友

待ちに待ったバザーの日。

さぁ、外にでて、公園の周りなどにチラシを貼ってこよう、と思って
起き出したところに、電話が。

ガンで闘病中だった友人が亡くなったという。

10日ほど前に見舞いに行ったが、バザーが終わった月曜日に
また見舞いに行こうと、計画していた。

間に合わなかった。残念無念・・・

7年前に大腸がんの手術をして順調に経過していた時期もあった。

でも今年の春ごろから、あちこちに転移して悪化の一途をたどっていた。

きつい副作用も覚悟の上で、医師の言う通り抗がん剤治療を続けていたのだが。

妹のように治療を全面的に受け入れらない経済的事情もなく、
恵まれていた環境にいたと思うが、世の中はままならないものだ。

最後の1週間は薬のせいだろうか、ほとんど眠っているときが多かったようだ。

東京電力と市民グループとの交渉窓口として、私たち市民側はもとより
東電側からも 全幅の信頼を寄せられていた。

こんなに東電との付き合いが長くなるとは、始めたときは夢にも思わなかった、
早くこんなこととはさよならしたい、と語っていた。

脱原発がもっと早い時期に実現の可能性があるなら、あるいは友の病気も
悪化しなかったかも知れない。

享年58歳。冥福をこころから祈りたい。

2008年12月5日金曜日

娘の結婚と荷物の山

娘に来春子どもが産まれることになった。

なにはともあれめでたい。

今は仮住まいの身で、急きょ荷物を整理することになり、
衣装箱にして6箱、しばらくの間預かってくれと、我が家に届いた。

しばらくというのはいつのことなのか? それは本人もわからない。

預かる荷物のほかに、バザーに出してというのも届いた。

バザーは明後日。ここ1週間、家に帰ると提供品がドアの前に置いてある。

チェルノブイリ救援のためのバザー、年に2回開催しているが、今年で10年目だ。

提供品は増えこそすれ減らないように思う。

少しでも役立てたいという気持ちの表われだろう。
あるいはチェルノブイリ被害者を助けたいという強い気持ち。
また、希望的観測としては日本の原発もなくすために協力したい?
また、近年、ムダなものを置かない風潮。
そして、この地域の住民全体が高年齢化してきているので元気なうちに片づけたい? 

ま、理由はさまざまだろう。

とにかくそんなわけで我が家は荷物の山である。

2008年12月1日月曜日

イベント日和だった30日

上野水上音楽堂は朝から夕方までにぎわった。

六ヶ所村の核燃料再処理工場の稼働をストップさせるためのライブ&トーク&パレード&ライブ。

仙台、福島、名古屋などから来ていた知り合いの顔も見えた。

上野をパレードするのは初めてだったので、期待して参加した。

もちろん、チェルノブイリカレンダーを売るのも目的だったので、こちらも期待した。

ところが、カレンダーの手持ちがそんなになかった。

11部と見本と昨年タミさんから譲り受けた子ども基金のバナーを、キャスター付きのバッグに入れて運んだ。カレンダーがもう10部ぐらいあったらな~、と思ったが手遅れ。

出店ブースは実行委員会からビッグイシューと机を半分ずつ、と割り当てられていた。

ブース代も3000円の半分だから、スペース的にも経費的にもちょうどよかった。

ビッグイシューさんは売れた売れた。

50部以上は売れたのではないか。

この日のイベントに合わせた内容のバックナンバーが揃えてあり、今まで結構買っていると思ったが、買ってないのもだいぶあるのがわかった。4冊買い求めた。
同じように複数冊買って行く人が結構多かった。

ビッグイシューの販売員さんは見覚えのある顔だった。お茶の水聖橋付近で立っている人で、そういえば、買うときに会っていたのと、数号前のビッグイシューのコーナーにその人が載っていたのを思い出した。

ボランティアの方とお昼交代されたので、何食べたの? と聞いたらカップラーメン、という答え。

会場内にはおにぎりやカレー、ラーメンなども売っていたのだが、外に出て、コンビニでカップラーメンを買ったらしい。当然、中で買って食べたと思って聞いたのだが、値段が違うから当然か。
自分の甘さを再認識。

私はおにぎりとパンを家から持ってきていたが、おにぎりは食べてしまった。3時頃、残っていたパンとポットのお茶を差し上げたら喜んでもらってくれた。

パレードには彼は参加しなかった。売れた?と聞いたら、パレード中は1冊だけと少し気落ちしていた。

でも、みんなが戻り、またライブが始まったころ、ビッグイシューの前には人が集まってきて売れ始めていた。

最後まではいられなかったが、販売員さんと友達になれたのがうれしかった。

そうそう、カレンダーは完売。予約も2人受けた。

明日あたり、ビッグイシューの販売員さんを写した写真を、神楽坂事務局だよりにアップする。

パレードの様子、会場内などの写真もそちらに載せたい。