ふるさと松之山の奇祭「婿投げ・すみ塗り」が今年も小正月にあたる
1月15日、無事に終わったようだ。
こちらのブログに記事が出ていた。
「婿投げ・すみ塗り」祭り(新潟・松之山温泉)
You Tubeにもすでに多くの映像がアップされていた。
今は便利というのかどうかわからないが、たとえ辺鄙な山の中からでも
通信ができれば、瞬時にして、たくさんの人に出来事を伝えることができる。
かつて松之山は●級へき地と呼ばれていた。
一番近い駅が「越後鹿渡」という駅で、冬は歩いて4時間かかった。
今はほくほく線の「松代」が近い。
また、今は除雪してどんな雪でも幹線道路は車が通るようになっている。
昭和42年1月11日、51歳で父は亡くなった。
奇しくも妹が亡くなった日と同じだ。
昨年も大雪だったが、あのときも大雪だった。
新潟市にいる姉と東京にいた私を、叔父が途中で迎えて、
東頸城郡の大島というところに1泊して連れて行ってくれた。
2日がかりの雪の中の行進だった。
父は私たち姉妹が着くのを待って、目を閉じた。
ところで松之山の位置するところは新潟4区と呼ばれていた。
(今は知らない)
日本社会党の結成に参加した猪俣浩三は、高田師範卒業後、高等小学校の
教員となる。
教員になりたてのときは必ず、へき地勤務が義務付けられていた。
松之山に赴任した猪俣浩三は、小作農家のあまりの貧しさをみて弁護士を志し
代議士となった、という。
webで検索したら、平塚市議の松本さんという人のブログに猪俣浩三のことが
書かれていた。ブログを見ると、松本さんは松之山の出身かも知れない。
ちなみに、同じころ自民党から4区選出代議士になった田中彰治という人がいる。
政界のマッチポンプとの異名をとった代議士だ。
子どもごころにも、猪俣さん、田中さんの名前と噂は植えつけられていて
なんだか、同じ選挙区にいることが誇らしい気持ちがしたものだ。
あの頃はよかった、と回顧する趣味はないが、右にしろ左にしろ
気骨のある政治家がいたのだ。
へき地の教師と言えば、母とも関連がある。
父亡きあと、母は町の計らいで、教員住宅の賄いの職を得た。
まだ先生になりたての若い人たちが最低2年は住まざるを得ない
教員住宅。
そこで母は生き生きと働いていたのだ。
母の人生で最も輝いていた時だろう。
今年母宛に届いた年賀状から;
指折りの豪雪の地に枝張りて
冬を耐え来し欅の巨木
昭和47年、松之山にて吟、と添え書きがあった。
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