2009年10月26日月曜日

台風被災した、フィリピン・ルソン島のパソドン村民への支援を

今、我が家のある集合住宅は大規模修繕中。
ビル全体をネットで覆ってあり、うっとうしいことこの上ない。

新築で入居以来28年目の住宅、毎月引き落とされる修繕費は管理費ともどもばかにならない金額である。

ま、そのおかげで、個人で考えなくとも、全体で定期的な大小さまざまな管理計画があり安心して住んでいることができる。

ベランダーの植物ほかもろもろ一切合財を片づけなければならない。
洗濯も干せない日々も続く。

昨日までは10日間、ベランダの窓自体を目張りされて開けることもままならなかった。寝ていても息詰まるような気がした。

とりあえず、目張りははずされたがまだ洗濯物は干せない。

今日は屋上の洗浄があり、異臭、水漏れがあるかもしれないから気をつけるようにという達しがあった。

しかし雨のときは順延、この時期、雨も多く、いろんな作業が遅れ気味のようだ。

今日も結構なドシャ降り。
台風が近づいているとか。


さて、ここから本題。

前回の台風17号で被災したフィリピンの被害者に義援金を、というメールが知人から届いた。

「北ルソンで映画を制作しフィリピン北部山岳地帯で映画巡回上映のボランテイア活動をしている今泉光司です。この山岳地帯は終戦時多くの日本兵が飢えと病気で亡くなった最後の山です」

という出だしで始まるこの手紙は『アボン小さい家』という映画を作った今泉監督からのもの。(私は見ていないが・・・)

私自身も監督に転送お願いのメールを出して、OKの返信をもらったが、下記ブログで監督自身の手紙や、現地での活動の様子など詳しく載っている。
http://pasdonrescue.blog96.fc2.com/blog-entry-2.html

http://pasdonrescue.blog96.fc2.com/

ところで話は初めに戻るが、この集合住宅の大型修繕は入居してから2回目になる。ご近所の方とベランダの植物をいつまでに、指定された地面に運ぶか、とか相談していたとき、居合わせた連れ合いのことば。

え? 1回目ではないの?

え何言ってるの??? と私とご近所。

出張がない仕事場だったから毎日家に帰っていた。

でも、会社のことしか関心がないということはこういうことなんだ。

サラリーマンほとんどがそうだとは思わないが似たりよったりの方もいらっしゃるだろう。

2009年10月22日木曜日

また来てね、待っているから

きょうみたいな日を小春日和というのだろうか。
ほんとにおだやかな日だった。

母と60代の娘2人と施設の近くの蕎麦屋で昼食。
その後、近くの公園で小鳥の声を
聞きながらぼーっとしていた。

母には小鳥の声は聞こえていない。

でも耳の近くで話すことは聞こえる。

先週退院してから、毎日のように様子を見に通ったが
病院と違って痛くされるという恐怖がないせいかおだ
やかな表情になっていた。

そして、今日は新潟から姉が出てきた。

1回目の手術のときにも上京し、立ち会ってくれたが、
その日は用事があり手術中に帰ってしまったから母に
とってははっきりとは記憶に残ってないに違いない。

お蕎麦やさんで私と姉がおしゃべりしている間、
母はゆっくりと黙々と箸を進めていた。
ご飯付きのお蕎麦セットを完食。

いわゆる三角食いをしない。前はそうではなかったと思うが
今はできない。

ご飯だけを食べ、その次、おつゆを飲み、おかずを一皿ずつ
片づけて行く。

おかずは口に合わないと残すが、ごはんはよほどのことが
なければ一粒残らず、食べる。


お腹もいっぱいになり、散歩もして、
そのあと部屋に戻ればお決まりのお休みだ。

満足げに横になった。
姉の方をじっと見ている。

そして帰るとき「また来てね、待っているから」と
はっきりした声で言ったのだ。

ついぞ聞いたことのない言葉で正直驚いた。
姉に対しての言葉だったがうれしい驚きだった。

2009年10月16日金曜日

母のいえ

母が退院した。
結石は2度の破砕手術でようやくなくなった。

病院でお昼ご飯を食べたあと、ぐーぐー寝てしまった。
何しろベッドの上で食事だから、すぐに寝たい症候群の母にとって
ちょっと目を離すともう横になっている。

それを無理やり起こして、退院の支度。

今日は、どこへ行くのか? と聞く。

いえに帰るんだよ。

母にそう言いながらなんだかむなしい。

母にとってのいえとは?どこなんだろう?

子どものとき過ごした生家。
嫁いだ家。
女中奉公で数年間東京に暮らした以外は雪深い田舎で
50年以上暮らした。

その後、小都会に出て3女と住み始めた家。
区画整理で引っ越しを余儀なくされた家。

3女が病気になって、新潟市に嫁いだ長女の家、
大阪に住む長男の家、そして埼玉にいる次女の我が家。
ここ数年子どもたちの家を転々とした。

我が家からグループホームに入り、やっと慣れたと思ったら
1年足らずで特別養護老人ホームに移った。

せっかく入れる機会、逃したくはなかった。
母の希望などでは決してない。

病院にいる間、どこから出てどこから入ったらよいか
わからないようなあんな大きな家に戻るのはイヤだ、と言っていた。

その家に戻った母は憮然としていた。

職員の人たちはお帰りなさいと口々に笑顔で迎えてくれたが
母は固い表情のままだった。

病院では点滴の針でさえ、刺す時に、痛~い、助けてください、と
大声で叫んでいた。
とにかく少しでも痛いのは我慢ができない。
点滴が多いときには看護士さんの顔をみるたびに、
針は刺さないでください、と言っていた。

一度は点滴しようとしたときにイヤだと必死でもがき、点滴がはずれて血が出た。
その直後、シーツが汚れたばかりの時に私が行った。

母曰く。
殴る蹴るの暴力を振るわれて鼻血を出した。
こんな暴力をふるう家から早く出たい、と。

まさかその通りはうけとらないが、何かの拍子に鼻血を
出したかと思って看護士さんに聞いたら前述のとおり。

大きな家に戻った母は大声を出すでもなくみんなと一緒におやつを食べた。
明日また来るね、と言ったらうなずいていたが。

2009年10月10日土曜日

認知症は治るのか?

昨日は衝撃的な映像を見た。

女優・南田洋子さんを介護する長門裕之さん。
くり返し流す、目をそむけたくなるような認知症の映像。
あ~ 母と同じようだな と思う場面もあった。

あんなきれいなはきはきした女優さんだったのに。

しかし同じようにくり返し流す今の映像はもっと衝撃的だった。

認知症が回復しているのだ。

尋ねてきた元のスタッフらからもらった花束をうれしそうに受け取った。
「あら、あなた顔色悪いわよ」と一人のスタッフの健康を気遣う。

目もしっかりと相手をみすえて、和気あいあいと話がはずむ。

長門さんが 

お前、女優に戻るか?

いいえ、戻りませんよ。

セリフの一言や二言はまだ言えるだろう?

(ややマがあって)

もっと言えますよ、と言い返す姿がかわいらしかった。

あなたはダラシがないから・・・

あなただけボケていれば・・・

などとまるでどっちが認知症かわからないような
発言が飛び出す。

南田さんの顔がとても美しかった。

きれいですね~ と褒めるスタッフに
いえいえ、と首をふる南田さん。

番組中に、専門医のコメントが挿入されていたが

肝臓の機能が改善されると症状が緩和される可能性がある。
(もっとよくなるかも?)

肝臓が悪くなって「肝性脳症」になると認知症の症状が出るらしい。

以前、雑誌に出ていた長門さんのインタビュー記事を読んだが
肝臓が治ればよくなる可能性もあるかも知れない、というようなことが
そう言えば書いてあった。

原因は何にせよ、認知症についてもっと深い認識があれば
洋子をここまで悪くさせないで済んだかも知れない。
それよりも自分が生きているのは洋子のおかげだから、
一日も長く自分のほうが生きて洋子を介護するのが自分の仕事だ。
それがなかったら、まったく自分の存在価値なんてないにも等しい。

と何度も言われていた。

番組でも浮気、借金、暴露本、とこれでもかこれでもかというほどの
悪の限りをつくした長門さんの姿を再現していた。
長門さん自身それを見て、こんなのはほんの一部だから、と。

南田さんはそういう長門さんを見捨てなかったけれど
体の方が尽き果てた、ということなんだろうな、と思いながら見ていた。

母の場合は脳が委縮しているのがはっきりとわかってしまったから
治ることはないと思う。
でもときおり、はっとするような鋭い発言をしたりするので
まだまだその部分を生かすようなことはできるのだろうな、と
少し、前向きな気持ちになった。

昨日の母の迷言
「自分の体であっても、みんなが(自分の体を)支配しているのよ」

看護婦さんが点滴の様子を見にきて体に触ったとき、強い調子で言った。

同室の若いお姉さんがクスッと笑っていた。

2009年10月8日木曜日

祝島と母の入院その後

2~4日にかけて、全国から反原発・反核の団体が勢ぞろいした。
5年ぐらい前に代々木公園で全国集会があったときにも
もちろん参加したが、今年ははるかにたくさんの人々が
集まった。

なかでもプルサーマル受け入れ目前の玄海原発、増設が待ったなしの川内原発
それらを抱える九州勢。
再処理工場・核燃施設のある青森・東北勢。
そして祝島島民挙げて反対運動をしている上関原発予定地の中国勢。

問題を抱える地域の人たちの心意気は強く高かった。

そして、昨日ついに中国電力のだまし打ちのような強行ブイ打ち。
池田香代子さんのブログに詳しい。

なんだかんだの毎日だが、母のほうは25日より入院中である。

高熱も治まり、尿も順調に出ていることから
ステントを尿路に挿入、という計画はなくなり
お腹の中にある石を破砕する、ということになった。

昨日それが行われた。

病院には診療室のほかにレントゲン室やリハビリ室など
いろんな部屋があるが、結石破砕室というのがある。
今まで見たことのない名前の部屋、それがそう。

先生の話によると埼玉県内でこの機械を持っているのは
この病院とあと1か所だけ、とちょっと自慢そうだった。

普通の人(?)だったら、1泊2日で済む場合もあるという。

高齢と認知症とあとは石の大きさ、位置などにより
やってみないとわからない部分がある。

約1時間じっとしていないといけない。かなり痛い。
鎮静剤は使うが耐えられるかどうか。

新潟から私の姉つまり母にとっては一番頼りにしている
長女がでてきた。

母の認知症歴は長く、大体様子も分かってきたが、
眠い日と興奮の日が3:1の割でくる。

きのうはうまい具合におとなしい日だった。

いつもは、私が行っても淡々とした表情で帰るときも明日また来るね、と
行ってもうなずくだけ。

だが、姉の顔をみたらにこっと笑った。

ふーん、やっぱりあてにしているんだな。
姉もまんざらでもなさそう。

処置前に鎮静剤の注射を打つ時、手をにぎっていただけで
そのあと、すぐ眠気がきたらしく
そのまま処置室に入り、私たちは部屋の外で待機していた。

なんかあったら(ぐずるとか?)呼びます、と言われたが
呼ばれることもなく、気がついたら自分が居眠りをしていて
終わりました、と起こされた。
姉は夜用事があるということで処置の途中で帰って行った。

肝心の石は?

大体3分の2ぐらいはとれました。
大きいので・・・。

明日レントゲンを撮ってみて、その後のことを決めます、と看護師さん。

今日お昼に母のところに行ったら
何しにきたの?

こういう言い方をするときはあまり機嫌がよろしくない。

今日は体を拭くときも大声で止めてください、と
叫んでいました。
○子さん、○子さん、助けてください、と言ってました。
姉の名前を読んでいたらしい。

お昼は要らない、と言っていたが
食べ始めたらごはんはきれいに食べた。
おかずも少し。
母の好物のフキ味噌を許可してもらって
それをごはんの上に乗せて食べる。
昔の人だから、いつもご飯粒は一粒残らずきれいに食べる。


お吸い物、お味噌汁はしょっぱいと言って
あまり飲まない。

最近、おかずは私が食べる。

結構、おいしいのだ。
肉も多く、味も濃い。量もかなりの量。
これが病人用とはとても思えない。

連れ合いが入院していた時、薄味で食べられないと
文句を言っていたが、ここなら満足するだろう。

施設では薄味に慣れているから
濃いのは食べにくいらしい。
看護士さんには伝えたが、変った病院だと思う。

お昼にはまだ、担当医がレントゲン結果を見ていない、ということで
今後の予定についてはまだわからない。

2009年10月2日金曜日

10月2,3,4はノーニュークスフェスタに

今日、総評会館で広河隆一チェルノブイリ写真を展示した。

1階入り口ロビーという絶好の場所なのだが
残念ながら一般の人の出入りは少ない。

しかし、2日夜は全国の原発現地、再処理現地から人々が集まる。

その方たちに写真を見てもらい、地元での活動に
写真展開催を検討してもらいたい。

今年3月広河さんが取材・撮影した写真12点を加えた22点を展示。
また、出来上がったばかりのカレンダーも各月ごとに展示している。

事故から24年目に突入したチェルノブイリ。

人々の健康障害は増える一方だ。
住みなれた土地も家も奪われた人々。

その現状を知ったなら、とても原発推進など言い出せないはず。

事故は起きない、などという保証はどこにもない。

いや、事故は起きる、と考えるほうが賢明だ。
起きるからこそ、その前に止めたい。

実行委員会企画、関連自主企画、2日から4日にかけて
たくさんの企画が目白押し。
http://www.nonukesfesta2009.com/

どれか一つ気になるところがあったら出かけてみてほしい。

3日のパレードは、サンバあり、かぶり物あり、楽しいパレードになること請け合い。