2009年6月29日月曜日

土手を自転車で

今日の関東は予想に反して、晴れ。

彼の実家に泊りに行っている娘と赤ん坊の布団も干して、掃除機をかけて、洗濯をしてお昼を作って、久しぶりに主婦の仕事をこなした。

午後になってもお天気が崩れなさそうなので自転車で母のところに行くことにした。

道のりの半分までは土手をひたすら走ればよい。

ちょうど草刈りをしたばかりで、いい匂いがした。
桜の枝が土手にくっつきそうになっている中をこぐのはいい気持ちだった。

残念ながらほとんどが舗装してあったが、途中、舗装のないところもあり、土と葉っぱの上を走るのは、こぐのは大変だけど、よりいい気分になった。

約20分弱で到着。思ったよりスムーズだった。
これなら、天気が良ければ、自転車に限る。

着いた時、遅い昼食を食べ終わってお茶を飲んでいるところだった。

あまり活気はない。でもまあ、険しい顔でもない。

部屋に連れて行き、持参したトウモロコシとさくらんぼを何粒か。

おいしそうに食べた。さくらんぼ、もしかして私に一つくれるかも?と期待したが全部自分で食べた。

そうこうしているうちに早、3時。

今日の3時はバームクーヘンとミルクティーだった。
食堂に行ってみんなと少しおしゃべり。

母は耳が遠いのでおしゃべりには加われない。
おしゃべりするのは私。
隣に座っていた車椅子の女性は、
「いいわね、きてもらえて。私は昨日も待っていたけど誰もきてくれなかった。もうずっときてくれない」
昨日は日曜日なので、家族の人が来ることが多い。

でも先日お会いしましたよ。またいらっしゃいますよ。
となぐさめる。

この前は一番元気なおばあちゃんに、嫁さんのことでさんざん愚痴をこぼされた。
しばらく話したあと、はっとしたように、アンタ嫁さんじゃないよね?

娘ですよ。ご心配なく。

鉄砲百合&連れの状況


友人が送ってくれた百合の花。自宅で咲いているそう。


今日の埼玉は午後からドシャ降りの天気になった。

午前に行けばよかったが、午後に予定していた母のところに行くのは中止にした。

同じ市内だが、電車で一駅乗ってさらにバスで15分ぐらい乗るのは結構時間がかかる。ご近所さんが夕方でよかったら乗せて行くよ、とおっしゃってくださったが、ここのところ基金ニュースの編集でどうしても帰りが遅くなり、よって夜ご飯が遅くなり、連れは不機嫌だった。だから、乗せてもらうのをまたにしてもらって行かなかった。たぶん、明日は行ける。

連れは薬を飲む関係上かテレビの関係上か、7時には食べたいらしい。
心筋梗塞の手術をしたときに、これからはご飯を早く作るようにしなくては、と決心したものの、続かなかった。

通信の編集が終わった来週こそ、早めの夕食をこころがけよう。

連れあいのその後のその後:前回管をとりつけてもらった近くの医者に行き、再度とりつけをお願いした。
私も休みだったので一緒について行った。本人は来なくてよい、と言っていたが医師に直接聞きたかった。

管が詰まらないようにするため、あるいは詰まったときの対処の方法など、家族が何かできることはないのか? 聞きたかった。

診察室に呼ばれて入っていったら、何アナタは? という顔の看護師と医師。

処置しますから出てください。

ちょっと後で質問があるのですが。

今でいいよ、何ですか?

上記のことを言ったら、

ありません、の一言で片づけられた。

根本を治さなくては。

でも、1か月以上は手術はできないと言われています。

無言

結果的には今回は血が出なかった。

何でも先が細い管を使ってくれたらしい。たぶん注意もして刺したのだろう。

で、2日後には都心まで心臓の主治医がいる病院の泌尿器科に行った。
もともと心臓よりずっと先に前立腺肥大を抱えていた。

ときどき数値があがって、そのたびにどうしょうか?不安がっていたが、手術をするほど決定的でなかったので薬でなんとかおさまっていた。

そこに重要な血管の1本の閉塞率が90%という心筋梗塞が起きた。
幸いにして会社のすぐ裏が心臓の手術もするB病院だった。

家で倒れていたらとっくにあの世行きだったに違いない。

そのB病院の前に前立腺でかかっていたA病院があった。

A病院では、前立腺が次第に悪化してきて手術をせざるを得ない状況になっても心臓のリスクがあるから手術するのを延ばしていた。

いや、正確に言うと、延ばし延ばしにしたのは本人の希望もある。

心臓の主治医がいるB病院で前立腺の手術を受けたほうがよい、という最終診断になり、紹介状を先月もらって持っていたところに、肥大がピークに達し今回の騒ぎが起きた、というわけだ。

やっとなんとか管を入れたままでも落ち着いたので行ってきたわけだ。

前立腺のほうは紹介状を持っていたが、心臓病のほうの紹介状はないのですか?と問われたらしい。

同じ病院ですよ、とあきれて返答したとか。

B病院の医師の話では、手術までこのままでいいでしょう。

シャワーも入っていいですよ、とあっさりしたものだったという。

まずは平穏に送っている。

2009年6月22日月曜日

連れ合いのその後と母

さてさて、先週バザーをやったことなどとうの昔のような気がする。

まったく月日のたつのは早いものだ。

母、私、娘、孫、4世代がからみあっている真っ只中にいる。

そのうえ、連れあいだ。

連れ合いのその後は、オシッコの管をとりつけて10日後に無事はずすことができた。
でもまた同じようになりますよ、という医師の言う通り、4日目にして早異変が。
明日はまた病院に行って管をつけてもらう、と宣言。
そうするとまた血が出て、管が詰まって・・・
堂々めぐり。

まだ管がとれないときに、心臓病のかかりつけの医者(目黒)まで電車に乗って行った。

紙袋にそれとわからないようにオシッコ袋を入れて、管も洋服の下に入れると目立たない。

血が出たので血液を固まらないように予防する薬を止めている、と言ったらどっちが大事だと思っているのか、と叱られたとか。

心臓が大事なのはわかるが、オシッコがでないのも苦しい。

家事をするときも管と一緒で動きにくそうだったがそれなりに折り合いをつけていたので、とらなかったほうがよかったかも知れない。
管がついているととシャワーに入れないのが痛く、あせり過ぎたのかも・・・
夜が明けたら医者に行ってもらうしかない。


母のほうは波がある。

昨年もちょうど6月が一番不穏の時期だった。こういう時期はよくないのだろう。

今日はいい方だった。

新潟から姉夫婦と孫2人を連れて、高速道路代1000円(正確には首都圏に入ると別にとられるので合計1600円)で来た。

母のいるところの近くの蕎麦屋さんへみんなで出かけた。
娘と生まれたばかりの孫も連れて。

赤ちゃんが産まれるとは聞いていたが、いつ産まれたの?もうこんなに大きくなったの?とびっくりしていた。
3週間前にも姉一家はやってきて、そのときも娘と赤ちゃんも連れていった。でも、完全に忘れている。

赤ん坊のお父さんは誰だ? 
彼とも一度会っているがこれも完全に忘れている。

しかし、田舎のひ孫2人がおしゃまでその仕草を見ているだけで母の顔もほころぶ。
私たちがメニューを見ていたら、聞きもしないのに、一番安いのにしてください、とお店の人に言っていた。

結局は母は定食を頼んだ。
おかずを少し残したがご飯、味噌汁、お蕎麦をきれいにたいらげた。

母にとってはいいほうの1日だったと思う。

2009年6月16日火曜日

バザー終了

おかげさまで無事終わった。
収益と当日カンパを含めた55,000円を「チェルノブイリ子ども基金」に寄付。

衣類大箱3箱を「かにた」へ。食器&雑貨、みかん箱ぐらいのに入れた7箱を、障害者も共に働いているお店「よろづや」へ寄付。

バザーの後の残った品物、バザーをやったことがある人ならわかると思うけど、それらを引き取ってもらえるところがある、ということがどんなに心強いか。

今回は準備期間が短く、超・省エネバザーだったが終わってみればそれなりの募金になった。

ありがたいことだ。

バザーの翌日、入院中の仲間を見舞いに行ったとき、私ともう一人の仲間はバザーで手に入れた洋服とスカーフを身につけていた。

最後の片づけのときに見つけた品物が意外と似合ったときに、バザーを開いた醍醐味を味わうことができる。
もちろん残り物なので格安にしてもらう(?)というかする。
それぐらいの恩典はある。

バザー会場で余った子どものおもちゃなどは、会場に来られなかった孫のいる友達の顔を思い浮かべて後で安く売りつける。

募金の中にはそういうもろもろがすべて入る。

今年はうれしいことにチラシを見た若い人のお手伝いが数人あった。

宣伝は各戸に入れる小さなチラシだけ。
商店街の掲示も、時間がなく省いた。

今年はうちともう一人が預かっていた食器などすべてを吐きだした。

次にもし、品物が少なかったらいよいよ自分の家の多すぎるモノを
処分しよう、と決めている。

自分たちの身の丈にあったやり方でまだまだ続けられるかな?

2009年6月12日金曜日

チェルノブイリ救援バザー

今年もまたバザーを行う。

何回目か。

もうそろそろ潮時かと思いつつ、続いている。

今年もまたいろいろなことがあり、
休もうかと思っていたが

今年はバザーはないの?

という声に押され、というか
私たちも楽しみにしているので

やっぱりやろうよ、ということになり

明日11時~15時まで

いつものところで。

ギリギリにチラシを入れたのに品物は続々と集まっている。

お天気は晴れそう。

2009年6月10日水曜日

ちょっとしたエピソード?

きのう、事件は起きた。

帰宅したら連れがあたふたとパソコンで何やら調べている。
2日前の夜中、5分起きぐらいにトイレにかけこんでいた。
オシッコが出ないらしい。
朝になるのを待って近くの病院に行った。
前立腺肥大の症状が悪化したらしい。

痛いとかではなく、苦しいだけなので自分一人で大丈夫だ、というので
私は普通に仕事に出かけた。

帰ってきてみたら、管を入れて袋を下げていた。
とりあえず、その晩は熟睡できたようだった。

次の日、オシッコ袋の中は真赤だった。

連れは心筋梗塞の手術をしており、まだ予断を許さない血管を抱えている
(詰まる可能性のある部分が残っているとのこと)。
それで、薬を毎日6種類ぐらい飲んでいる。その中の一つに血液をサラサラにする薬がある。その薬のせいで、傷をつけたりすると血がしばらく止まらなくなる。

今回管を刺したので、それで血が出てきたらしい。

後からわかったことだが、その血が管の先で詰まって、袋からオシッコが漏れた。

最初は原因がわからず、あわてていたわけだが、かかった病院に電話をしたら泌尿器科の先生はすでに帰ったから診られないとのこと。

医療相談センターなどにも電話をしてみたらこの地域には泌尿器科は少なく遠いところを2つほど紹介された。
119番にも電話をしてみたらやはり大学病院ぐらいしかないですね、と。
それでも結構親切に教えてくれたらしい。
教えてもらった病院に電話をしたら救急医療で受け付けてくれるという。

そこに私が帰宅し、すぐにご近所にSOS。
まだダンナは食事前だから(アルコールが入ってないから)大学病院まで
送っていくよ、と。妻が即断。

大学病院では、当直の医師が入院患者の治療にあたっているからとやや待たされたが、看護師さんと医師は手際よく詰まったところを洗ってくれた。

そして、このエピソードを明日管をつけてくれた所に行って話してください、と。

エピソードじゃないよ、大事件だよ。と連れ。

前立腺の手術をしなくてはいけない状態のまま、心臓病のことがあり、1日延ばしにしてきた結果らしい。

でも、生検とやらを行ったばかりなので後、2か月は手術ができないとか。
(心臓病との関連かよくわからないが)

オシッコ袋は手術するまで、つけていなくてはいけないのではと大学病院の医師。

主治医は目黒なので、ちょっと落ち着くまでは行けそうもない。

私自身もここのところ、だいぶ疲れていて、体を休めるようにとかかりつけの医師ではなく、たまに診てもらっているウリウ治療室で言われたばかり。

しかし、もっと弱い人が家にいるのでそっちを何とかするのが先だ。

2009年6月4日木曜日

おおまくらい

とにかく食べる食べる。
おっぱいをあげている娘のこと。
つられてこっちまで食べる。

なにしろ、夫婦2人で1日2合炊いてもあまっていたのが5合炊いてもあまらない。
娘は菜食主義とまではいかないがほとんど動物性のものと油ものを食べないから、お米とみそ汁を
たくさん食べないと体がもたない。

味噌汁のダシも昆布と干しシイタケのみ。煮干し、カツオ節は使わない。
何かものたりなかったが慣れてくると食べられる。

何でもいいから野菜をたくさん入れた味噌汁を作る。
最初のころはお浸し、煮物、和えもの、と
いくつか小鉢を作っていたが、続かない。
最近は、ぬか漬け+お浸し+味噌汁のみというのも結構多い。

夫はつまりおじいさんだが、心臓の病気をしてから内臓脂肪を貯めてはいけなくなったからカロリーを抑えなくてはならない。
夫の食生活にとっては娘がいることは好都合。

食卓に魚、肉が出ていても娘は食べたくないらしいので遠慮はすることはないのだが、結局少な目かまたは食べない日もある。

たまに洋風スープも作る。

自然食品店で動物性のものを使ってない野菜だけのブイヨンというのを買ってみたが、まだ一度も使っていない。
洋風のときはセロリを必ず入れる。少しのにんにく、しょうがなども。
あとは根菜類、豆、葉物、何でも入れる。
味噌汁より何倍もコトコトと煮込むので野菜の旨みが十分出ておいしい。
味をみて、これならブイヨンを入れなくともよいか、という感じ。

味噌汁にもトマトを少しだけ入れるとおいしい。
ま、新たなレパートリーというかただ煮るだけだが、何でも入れるとおいしいということがよくわかった。

味噌汁は味噌が偉大な味付けをしてくれるので、さっと煮るだけでよいわけだ。
ダシ昆布はできるだけよいものを使う。
六ヶ所の昆布はおいしいのだが今は手に入らない。

そうだ、田舎では大食漢のことを「おおまくらい」と呼んでいた。
くらいは食らう。おおまはたくさんのまんまのことか。

私の父はおおまくらいだった。茶碗に3杯は食べていた。田舎の人はそれぐらい食べるのが普通だが、農家のように労働する人はそれでよかったが、父は無職に近かった。
内臓脂肪を貯めてクモ膜下出血になり、50代初めに亡くなった。

娘はおっぱい工場を操業(?)しているのだから今は食べなくてはならない。