3日、列車からみる景色は一面が雪。
年末29日に行ったときは病院のまわりはほとんど雪がなかったのがウソのようだった。
2日に新潟市から姉一家が埼玉にやってきた。神奈川にいる娘一家3人と施設にいる母もまじえて、大勢での昼食会。
このときはまだ妹の意識はもうろうとしていた。
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私と同じ29日に病院入りして介護にあたっている義妹からはひんぱんに報告が入っていた。
30日、妹の容態に驚いた姉は痛み止め(モルヒネ)の量に疑いを抱くとともにひごろかかりつけの自然治療の先生に指示を仰ぎ、健康食品と水素の粉末を与え、義妹、夫にも1日に数度、与えるように依頼。
それらは痛みを和らげ、抵抗力をつけ、排尿によいとのこと。
31日、義妹の報告がひんぱんに携帯メールで届く。
血圧、発熱、脈拍、尿の量、刻々と数値は健康人に近づいていた。
ぱんぱんに膨らんでいた足のむくみも少しずつひいてきたという。
1日、姉が行ったとき、血色もよく、足のむくみなどは改善していたが、呼びかけても反応がなかった。
たまたま居合わせた看護士からは、呼びかけても無理ですよ。
薬が効いているのですから、との返答。
前回聞いた看護士は「適量」を与えている、と答えたのだが、
この日の看護士は、10から20、さらに30と段階的に増やしています。とも。
それを聞いて姉は決心。
モルヒネの量を減らしてほしいことを病院側に必ず伝えるように、義妹、妹の夫にくれぐれも念を押して帰宅。
妹の夫は昔堅気の人で病院にはあからさまに希望を述べることに逡巡していたが、1年前に母をガンで亡くしたばかりの義妹は強い。
病院とわたりあった経験がモノを言い、2日に、希望を看護士を通して申し入れた。
担当の医師は不在だったが代わりの医師は、モルヒネの量を減らすことに反対。
だが、義妹、夫、息子、3人で強く要望。
本人が痛そうにうなるので量を増やした。
そして、それは一般的なことだ。
また、反応がないのはモルヒネの影響だけとは言えない。
減らしたことにより、意識がはっきりするかどうかはわからない。
痛みが強くなった場合、暴れるかもしれない。
「そのときはまたモルヒネの量を増やす」
を条件になんとか要望を受け入れてくれた。
埼玉で私たちが会食をしているころ、その交渉は進んでいた。
要望を伝えたことと7時間後には減らした結果がでてくるとの報告も届いた。
2日の夜、医師の宣言した7時間後、呼びかけにはっきり応え、笑ったり泣いたりしています、と義妹から報告。
埼玉から新潟に向かって帰宅途上の姉にもその報告は届いた。 <<<※<<<
3日、再び私は病院に向かった。
その日の夜、姉は仕事が終わってから
またかけつけてきた。
意識ははっきりしていた。
モルヒネは少し入っているのでろれつがややまわらないながらみんなとおしゃべりをした。
義妹と共に一晩病院に泊まったが、そばで寝ていて耐えられないほどのうなり声ではない、と思った。
4日(医師から1週間後の命と宣言された日)、さらに意識ははっきりして、おかゆも自分で食べるようになった。
義妹と3人でいろんなおしゃべりをした。
治ったら旅行に行きたい、という。
しかし、問題は山積みだ。
今は体力回復が先決だったので抗ガン治療どころではなかったが、よくなったら、抗ガン剤治療を受けるのは当然と思っている妹の家族。
そういう治療を受けさせたくない姉(私もだが)。
いま、漢方医学的な治療が明らかに功を奏したことを実感しているのは家族も確かなことだ・・・・・
また、私と姉の一連のやりとりを聞いていた私の連れ合いは、
そうかな?
痛みのないまま死んだほうが楽ではないのかな?
自分だったらそのほうがいい、と言った。
(人はさまざまだ!)
よくなっても急変する場合もあるから気をつけて、との
姉の先生の弁もあり、生きていけるかどうかも定かではないが・・・
もし、よいほうにむかったとしてもガンそのものは根治はできない。
「生きていてよかった」となるかどうか。
お姉さんの生きさせたい!という気迫がすごかったですね、と義妹。
私に言わせれば、姉もすごいが義理の妹の献身ぶりもちょっと真似ができない。
いのちの可能性に触れた数日だった。
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