最近の母を語る前に〔正月の母--その3〕
なぜ、天袋の中をかき回していたかというと
正月だから着物を着て出かける、と娘。
それで帯やら小物やらを母のベッドの端に上って
探していた。
娘は深謀遠慮のたくらみがあって、着物をおばあちゃんに着せてもらうという。
きっと、体で覚えているからできるに違いないと。
娘・私・母の3代が揃ったわけだが、私は着せることができない。
娘は何とか自分で着ることができる。
でも、おばあちゃんのために、着せてもらおうと思ったわけだ。
で、娘が着物を着たいというから着せてくれない?
と耳元で訴える。
ややしばしうなっていたが、「できない」ときっぱり。
でも、ちょっと帯を見てくれるだけでいいからお願いだから、と
無理やりベッドから起こして娘が着物を着ているところに連れていった。
しょうがない、と帯に手をかけてまわし出したが何としても力が入らない、
苦笑しながら、「アンタきれいに着せてやって」と投げ出した。
やはり無理だったか? ま、着せてやって、という言葉が聞けただけでもうれしい変化だった。
しかし、娘はまだたくらみがあった。
マフラーの端を縫ったので、今度はおむつを縫わせるという。
娘は自分で考えて、助産院で子どもを産み、おむつは布を使いたいと言っていた。
1枚縫えばいいわけではないので、何枚も縫うことができるかどうか疑問だが試みる価値はあるかも知れない。
さて、最近の母だが、かなり正気に戻ってきた。
○○○ちゃんをいじめないで、とかわいい唯一の孫の名前が久しぶりに母の口から出た。でも、対して強い口調ではなかった。
薬を半錠に減らしただけで、こんなにも違うのか? と思う。
ほんとは統合失調症の人も服用しているというこの安定剤は頓服としてもらっているのだから、様子を見て飲ませない日もあってもいいのだ。が、大勢の職員、パートの人たちが交代で介護にあたっている現状では、様子を見て、ということは容易ではないようだ。
1日何錠とか、飲まないとか、決まってないと難しいらしい、ということがだんだん私にもわかってきた。
高い費用を払っているのだから個別に対応してくれないと困るのだが、やりやすい方法を選択するのもしょうがないか。
そんなわけで暮れから半分に減らし、結構言葉も返ってくるようになった。
過度の興奮とボッーとしたのがなければ、ま、会いにいきがいもある。
長年関わってきたチェルノブイリ救援活動。もうそろそろ若者とバトンタッチをしようと思いつつあっという間に月日は経過。さらなる困難な状況の中、退くのもためらわれ今しばらく関わらざるを得ないか、とハラを決めたところに認知症の母と同居することに。私個人の二大関心事をテーマに日々のできごとを綴りたい。
2009年1月15日木曜日
正月の母――その2
先日の続き。
正月泊まりに来た母はまれにみるはっきりしている状態だった。
1日目は長いマフラーの4つの端を全部縫った。
2日目はなます大根を刻んでくれた。
大きな大根をほぼ1本、千切りにした。
私が子どものころ、雪国の冬は大した野菜はなく
保存のきく根菜類がおもなおかずだった。
いろりのそばにまな板を台所から持ってきて、切っていた。
そして、いろりにかかっている鍋にそのまま刻んだものを入れる。
味噌汁用に、大根を薄い輪切りにしたものを重ねて、そしてちょっとだけずらしてトントントントン切っていくのをよくみていた。
子どもごころにうまいものだな~と感心しながら見ていた、と、思う。
前にも書いたが、父が亡くなってから、町の教員住宅の寮母として賄いをしていたときが母の人生で最高の時だった。
そのときの先生方からはいまだに年賀状も届く。
縫い物は本職だったが、あまりに田舎のため、仕事がなかった。
ところで正月は娘も泊りにきた。
母と私と娘と3人がリビングに寝た。母には折りたたみ式の簡易ベッドを使った。
グループホームでは広い個室に入っている。
田舎ではもちろん、個室があった。
2階に母の部屋があったが、足を骨折した後(驚異的な回復力ですぐに治ったのだが)、1階の仏間で寝ていた。
だから、我が家が一番狭くてある意味、居心地はよくないかもしれない。
母が寝ているベッドの端に私が乗っかって、天袋の物を探したときにはボー然とした顔で私を見上げていた。
おちおち寝てもいられないと思ったのではないかな。
なぜ、天袋を探していたか、というつづきの話はまた。
正月泊まりに来た母はまれにみるはっきりしている状態だった。
1日目は長いマフラーの4つの端を全部縫った。
2日目はなます大根を刻んでくれた。
大きな大根をほぼ1本、千切りにした。
私が子どものころ、雪国の冬は大した野菜はなく
保存のきく根菜類がおもなおかずだった。
いろりのそばにまな板を台所から持ってきて、切っていた。
そして、いろりにかかっている鍋にそのまま刻んだものを入れる。
味噌汁用に、大根を薄い輪切りにしたものを重ねて、そしてちょっとだけずらしてトントントントン切っていくのをよくみていた。
子どもごころにうまいものだな~と感心しながら見ていた、と、思う。
前にも書いたが、父が亡くなってから、町の教員住宅の寮母として賄いをしていたときが母の人生で最高の時だった。
そのときの先生方からはいまだに年賀状も届く。
縫い物は本職だったが、あまりに田舎のため、仕事がなかった。
ところで正月は娘も泊りにきた。
母と私と娘と3人がリビングに寝た。母には折りたたみ式の簡易ベッドを使った。
グループホームでは広い個室に入っている。
田舎ではもちろん、個室があった。
2階に母の部屋があったが、足を骨折した後(驚異的な回復力ですぐに治ったのだが)、1階の仏間で寝ていた。
だから、我が家が一番狭くてある意味、居心地はよくないかもしれない。
母が寝ているベッドの端に私が乗っかって、天袋の物を探したときにはボー然とした顔で私を見上げていた。
おちおち寝てもいられないと思ったのではないかな。
なぜ、天袋を探していたか、というつづきの話はまた。
2009年1月13日火曜日
奇跡か? 普通なのか?
もう、1月も早半ば。
月日のたつのはほんとに早い。
母の正月の様子を書いておく。
三が日、我が家で過ごした母は、ご近所の方の車で、無事3日のお昼
「みんなの家」に送り届けた。
「お帰りなさい」という職員や入居の方たちの声に迎えられ、
すんなりと何事もなかったかのように、戻った。
暮れの31日、我が家に着いたときも意外とスムーズに家に入った。
ご近所の方に、いつもお世話になります、とあいさつをした。
私と一緒にホームにご近所さんが行ったとき
ただ笑っているだけで言葉はなかったのに。
家に入って、まずベッドに向かったがやや興奮していたのか。
寝ないですぐに起きてきた。
部屋を眺めていたが、針と糸を見てやおら手にとった。
何か縫うの?
「別に縫うのはないけど、針と糸をみたらなつかしくなって」
(こういう言葉が出てくることがすでに驚きだった)
じゃ、これ縫ってくれる?
ちょうど、長いウールの布をマフラーにでもしようかと思って
出しておいたのがあったので頼んでみた。
いいという。
針に糸を通すのはできないらしく私が通してその後は長い端を淡々と縫い始めた。
何度か糸を替え、1時間以上、ひたすら縫った。
夕御飯の時間になり、あとは明日にしようと、キリのいいところで終わりにした。
御飯のあと、いったんベッドに入ったが、気になったらしくもう少しだからと
起きてきてまた縫い始めた。
さらに30分ぐらいかけて縫い終わり、マフラーとして仕上がった。
ホームで縫物をみんなでするときもたまにあるが、ほとんど寝ているので
なかなか縫物の日に参加できることは少ないと聞いていた・・・。
耳が遠いだけのどこにでもいるような針と糸をもったおばあちゃんの風景。
奇跡のような光景に接して、少しじんときた。
そして、夕御飯のあとは普通に茶碗を片づけて洗っていた。
ホームでは一切それがない。
御飯が目の前にくるのを待って、食べ終わったら職員が片づける。
みんながそうだから、それに従っている。
家に戻ってきたら元の感覚が戻ったのか?
でも、2日目の夜から片付けなくなった。
緊張が解けてホームにいるときの感覚が戻ったのか?
その後行ってみたときも、様子を職員に聞いたときも
特に変わったところはないようだ。
我が家では、狭いところに寝かされているが、ホームでは広い個室があり
戻ってほっとしているのかも知れない。
なにはともあれ、正月のお泊まりは成功だった。
月日のたつのはほんとに早い。
母の正月の様子を書いておく。
三が日、我が家で過ごした母は、ご近所の方の車で、無事3日のお昼
「みんなの家」に送り届けた。
「お帰りなさい」という職員や入居の方たちの声に迎えられ、
すんなりと何事もなかったかのように、戻った。
暮れの31日、我が家に着いたときも意外とスムーズに家に入った。
ご近所の方に、いつもお世話になります、とあいさつをした。
私と一緒にホームにご近所さんが行ったとき
ただ笑っているだけで言葉はなかったのに。
家に入って、まずベッドに向かったがやや興奮していたのか。
寝ないですぐに起きてきた。
部屋を眺めていたが、針と糸を見てやおら手にとった。
何か縫うの?
「別に縫うのはないけど、針と糸をみたらなつかしくなって」
(こういう言葉が出てくることがすでに驚きだった)
じゃ、これ縫ってくれる?
ちょうど、長いウールの布をマフラーにでもしようかと思って
出しておいたのがあったので頼んでみた。
いいという。
針に糸を通すのはできないらしく私が通してその後は長い端を淡々と縫い始めた。
何度か糸を替え、1時間以上、ひたすら縫った。
夕御飯の時間になり、あとは明日にしようと、キリのいいところで終わりにした。
御飯のあと、いったんベッドに入ったが、気になったらしくもう少しだからと
起きてきてまた縫い始めた。
さらに30分ぐらいかけて縫い終わり、マフラーとして仕上がった。
ホームで縫物をみんなでするときもたまにあるが、ほとんど寝ているので
なかなか縫物の日に参加できることは少ないと聞いていた・・・。
耳が遠いだけのどこにでもいるような針と糸をもったおばあちゃんの風景。
奇跡のような光景に接して、少しじんときた。
そして、夕御飯のあとは普通に茶碗を片づけて洗っていた。
ホームでは一切それがない。
御飯が目の前にくるのを待って、食べ終わったら職員が片づける。
みんながそうだから、それに従っている。
家に戻ってきたら元の感覚が戻ったのか?
でも、2日目の夜から片付けなくなった。
緊張が解けてホームにいるときの感覚が戻ったのか?
その後行ってみたときも、様子を職員に聞いたときも
特に変わったところはないようだ。
我が家では、狭いところに寝かされているが、ホームでは広い個室があり
戻ってほっとしているのかも知れない。
なにはともあれ、正月のお泊まりは成功だった。
2009年1月5日月曜日
チャップリン映画と現代の状況
年末年始大変な事態が起きている。
イスラエルによるパレスチナナ・ガザへの空爆。
地上戦もはじまった。
民間人を攻撃しないようにしているとかイスラエル側は言っているようだが
いっせい空爆でそんなことができるはずがない。
三が日、我が家で過ごした母は、ご近所の方の車で、無事3日のお昼
「みんなの家」に帰って行った。
それで、昨日はヒマができ、新文芸坐でチャップリンの映画『独裁者』(1940年作)を見た。
「世界には人類を幸せにする富がある。
国境はいらない。
若者に希望を。
老人に保障を。」
チャップリンが演説する場面に、息をのむ思いで観ていたのは私だけでは
ないと思う。
パレスチナ市民の苦難を、日比谷年越し派遣村に集まった人たちの苦難を、
思い浮かべずにはいられず、映画館は重苦しい静けさに包まれた。
チャップリンの偉大さにも改めて畏敬の念を抱いた新年だった。
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