日本での9日間の旅を終え、無事帰国。 26日の午前の便で出発、イスタンブール経由で帰国の途に。 たぶん、イスタンブールでは空港の椅子で一夜を過ごすのか? と思ったら、海外のことに明るい友人が、椅子があれば まだいいほう、ないかも? ともあれ、無事帰国された。 ワレンチンさんから; 「日本滞在中、お世話になったみなさんにくれぐれも よろしく伝えて欲しい、みなさんのお気遣い、優しさに感謝します」 8泊9日の滞在中、ビジネスホテルに7泊。 貴重な1泊を白河市の温泉で過ごした。
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無事、白河の講演も終わった。 いい雰囲気の真新しい木の香りのする原発災害情報センターが 講演会場。 センターはまだ完成途中。 200年ぐらいは持つような日本の伝統的工法による造りとのこと。 長い取り組みになるのでじっくり時間をかけて造ると アウシュビッツ平和博物館館長の小渕さんの話。 募金もまだまだこれから集める、とのこと。
理事長であり棟梁の塚田さん(手前) |
6月にオープンして以来、2回目のイベントとか。 1回目は地震のときに障害者はどう対応したらよいのか、 関東と福島のろうあ者の交流会を開催。 「それに続く貴重なチェルノブイリ被害者の話を聞く会を 開くことができ、いよいよセンターの役目が重要に なってきます」と塚田さんのあいさつ。 塚田さんは300年前の古民家を移築して アウシュビッツ博物館を造った棟梁。 今回の災害情報センターは塚田さんの弟子が手掛けている。 口も手も出さずじっと見守っていた、と小渕さん。 夜のそれも雨のなか、20人ぐらいの人が参加。
朝日元記者の村田さんが「原発を問う民衆法廷」について話を された。 村田さんは小高の出身で、事故後、横浜に避難された方。 ワレンチンさんの話は19日の未来の福島こども基金の総会のゲスト として、20日の民衆法廷の陳述者として、すでに2回話を しているので、落ち着いていた。 新しい情報センターは天井が高く、音響がよすぎてマイクからの 声が聞きとりにくく、マイクなしで始まった。 通訳の深澤さんは声がはっきりとしていてわかりやすかった。 ミーシャを支援したとき(1996年)の内容についての質問などが あり、補足した。 参考:チェルノブイリ子ども基金NEWS No.87 20頁 会津に大熊町から避難している大賀あや子さんもはるばるかけつけて 参加。彼女から、子ども被災者支援法についての 話があった。 これについてはまったく人々の間に知られていない。 それもそのはず、昨年、超党派によりできた支援法だったが これまで塩漬け状態。 なんとかしようと、8月2日(金)「原発事故子ども・ 被災者支援法推進自治体議員連盟」結成集会が開かれる。 市民の参加も歓迎とのこと。
話を元に戻すと、白河の人々の温かい歓迎を 受けてのお話を聞く会。 率直な質問も出て、前の2回同様、ミーシャの病気の話に及ぶと ワレンチンさんは涙ぐむ。 自慢の息子だった。 体格もよく優秀だった。勤めていた銀行では責任ある地位を務めた。 それが2009年リストラに会ったその年、チェルノブイリ被害者の 再認定のときに、甲状腺がんの他臓器への転移がわかった。 ミーシャのお母さんは息子の再発を悲観して 彼よりも1年早く亡くなってしまった。 追い打ちをかける、とはこのことだろう。
奇しくもミーシャが亡くなった1周忌(7月19日没)に 日本を訪れることになったワレンチンさん。 辛い体験を今回語っていただいたわけだが、 1周忌に来日、といのも何かの縁かもしれない。 福島の人たちにとってはあるいは聞きたくない 話しだった、とも言えよう。 でも、子どもたちを守るために、今後の参考にしたいと 集まってくれた人々の心に響くお話だったに違いない。
白河の観光について書こうと思ったのだが稿をあらためる。
帰国前夜はチェルノブイリ子ども基金のある神楽坂で夕食会。 ちょうどお祭でおおにぎわいの街を少し見物。 浴衣の女性と写真に収まりワレンチンさんはご満悦だった。 そんなこんなでワレンチンさんにとっては 充実した日本での日々だったと思う。
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