9月14日に病院にて、肺炎のため死亡。94歳だった。
4月11日に施設から我が家に戻ってきて数か月。2月ごろから、もう、もたないか?と思うことがしばしば。最期は家で看取ろうと決心しての帰宅だったから、頑張った(2人とも?)とも言えよう。
残念ながら畳の上ではなかったが、最期病院にかけつけたとき、小さくなっていた息がだんだんに遠のき安らかに眠った。
病院に行ってもほとんど寝ている状態が多かったから、手を握って帰るだけの毎日だった。病院はクーラーが効いていて、とても寒かった。手足が氷のように冷たく、看護師さんに訴えても、あ、さっき、ふとんの外に手が出ていたからね、と、取り合わない人がほとんど。一人だけ、あっためるのを持ってきてくれた人がいた。
しょうがないから、靴下をはかせ、いっている間中、手をさすっていた。
認知症が昨年ぐらいからどんどん進み、靴を脱がないでベッドに入るのが常となったり、私のこともわかっていたのかどうか疑わしくなっていた。
2月下旬、海外にいる娘一家が一時帰国のとき、母に会いにきたた。ひ孫2人が一緒。下の子が「おばあちゃん、こんにちは」とよくとおる声であいさつしたら、「こんにちは」とはっきりした声で返したのには私も娘夫婦もびっくり。ほとんど会話もなくなっていたから。
持っていったバナナをひ孫たちとおいしそうに食べた。
耳は認知症になりかけのころから聞きにくくなっていて、耳元に口をつけて話をしなければ聞こえない。だから、施設内で音楽会や映画会があっても楽しめないからめったに参加しない。
ほとんど寝る生活だった。
とにかく「寝る!」という言葉は常に発していた。
困らせようと思うときには「死む!」とよく言っていた。
死ぬではなく死むなのだ。
死むのほうがなんだか力強い。
昔から母は使っていたから方言の一種かなと思っていたが、
最近の子どもはなんで死ぬではなく死む、というのでしょう、という投稿がどこかにあったから、知らない人は知らないんだな、と思った。
ともあれ、よく寝ている割には昔培ったたまものか、足は丈夫だった。
それも2月ごろから歩くのがだんだんおぼつかなくなっていた。
4月に引き取って以来、ようやく母について書くことができた。
娘は母が家に来たことも、入院したこともしらなかった。
写真は5月。このころは抱きかかえて一緒にベッドからテーブルまで歩くことができた。
テーブルの上に両手を置いてあげると結構長い間ついていることができた。
きょうはここまで。
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