2016年12月14日水曜日

石井竜也さんのコンセプチュアル・コンサート2016「GROUND ANGEL 〜FAITH〜」

facebbookに投稿したコメントより
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10月の終わりの土曜日、新宿西口スタンディング
http://seiko-jiro.net/modules/bulletin/index.php…
で広河隆一撮影のチェルノブイリ救援カレンダーと文京シビック展示室で始まる予定の沖縄・球美の里4周年イベントチラシを掲げて立っていました。
通りがかりの2人連れの女性が近寄ってきて、
あ、石井さんが応援している施設ですね。
ありがとうございます。
とお礼を言われたのです。
高江のこと、川内原発のこと、福島の放射能のこと、反戦のこと、思い思いのポスターなどを持って意思表示をする場です。
忙しく歩いている人たちに混じって、足を留めてくれる人がいたら、それだけでうれしいのですが、声までかけてもらった上に、ありがとうとお礼を言われたので、その日はすっかり気分がよくなったのでした。
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石井さんのコンサートに参加したのは2度目ですが、すてきなコンサートです。
満員の人見講堂のファンの空気がとてもあたたかい。

歌にもMCにも共感の空気が漂います。
球美の里に支援しますと話されたとき、ひときわ大きな拍手が起こり、感動しました。

==========以下は球美の里スタッフが投降したFBより===========
https://www.facebook.com/kuminosato.net/
【御礼】
石井竜也さんのコンセプチュアル・コンサート2016「GROUND ANGEL 〜FAITH〜」。
http://www.t-stone.com/concert/ 
今年末も例年どおり、収益の一部を沖縄・球美の里で保養する子どもたちのために寄付していただくことに。
「GROUND ANGEL」とは、2001年のアメリカ同時多発テロにショックを受けた石井さんが「GROUND ZERO」に対し、「天使が舞い降りる地」=「GROUND ANGEL」と位置づけ、年に一度でも少しの時間でも、みんなでいま起きている様々なことをまず考えてみることから始めよう、という目的のもと、2002年より毎年行われている平和記念活動です。
会場では石井さんのご厚意により球美の里のパンフレット等資料が来場者の方々へ配布され、球美の里への募金箱も設置されていました。開演前、募金箱の横にいたスタッフに、観客のお一人の女性がズッシリと重い物を手渡されました。「この日のために貯金箱に小銭を貯めてきたので子どもたちのために使ってください」とのこと。スタッフにとっては特別な重みのある貯金箱。感激とともに有難くお預かりしました。
石井さんのライブは終始、一曲一曲に平和を願うメッセージが込められていました。ステージ上には平和への想いを形にした石井さんのアートオブジェが置かれ、スクリーンには、球美の里の名誉理事長でフォトジャーナリストの広河隆一の写真も多く映し出されていました。
歌の合間のトークでも石井さんは、東日本大震災のことや球美の里のこと、その他、昨今の政治の話にも触れられ、「国内外、世の中で起きている様々なことに向き合って、平和な世界をつくろう」「たとえ、ものが言えない暗い時代になっても愛や希望を歌おう」という強いメッセージを発信されていました。
石井さん、スタッフの皆さん、来場者の皆さん、あたたかく継続的なサポートに心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

2016年9月27日火曜日

母の死 その1

9月14日に病院にて、肺炎のため死亡。94歳だった。

4月11日に施設から我が家に戻ってきて数か月。2月ごろから、もう、もたないか?と思うことがしばしば。最期は家で看取ろうと決心しての帰宅だったから、頑張った(2人とも?)とも言えよう。

残念ながら畳の上ではなかったが、最期病院にかけつけたとき、小さくなっていた息がだんだんに遠のき安らかに眠った。

病院に行ってもほとんど寝ている状態が多かったから、手を握って帰るだけの毎日だった。病院はクーラーが効いていて、とても寒かった。手足が氷のように冷たく、看護師さんに訴えても、あ、さっき、ふとんの外に手が出ていたからね、と、取り合わない人がほとんど。一人だけ、あっためるのを持ってきてくれた人がいた。
しょうがないから、靴下をはかせ、いっている間中、手をさすっていた。

認知症が昨年ぐらいからどんどん進み、靴を脱がないでベッドに入るのが常となったり、私のこともわかっていたのかどうか疑わしくなっていた。

2月下旬、海外にいる娘一家が一時帰国のとき、母に会いにきたた。ひ孫2人が一緒。下の子が「おばあちゃん、こんにちは」とよくとおる声であいさつしたら、「こんにちは」とはっきりした声で返したのには私も娘夫婦もびっくり。ほとんど会話もなくなっていたから。

持っていったバナナをひ孫たちとおいしそうに食べた。


耳は認知症になりかけのころから聞きにくくなっていて、耳元に口をつけて話をしなければ聞こえない。だから、施設内で音楽会や映画会があっても楽しめないからめったに参加しない。
ほとんど寝る生活だった。
とにかく「寝る!」という言葉は常に発していた。
困らせようと思うときには「死む!」とよく言っていた。
死ぬではなく死むなのだ。
死むのほうがなんだか力強い。
昔から母は使っていたから方言の一種かなと思っていたが、
最近の子どもはなんで死ぬではなく死む、というのでしょう、という投稿がどこかにあったから、知らない人は知らないんだな、と思った。

ともあれ、よく寝ている割には昔培ったたまものか、足は丈夫だった。
それも2月ごろから歩くのがだんだんおぼつかなくなっていた。

4月に引き取って以来、ようやく母について書くことができた。
娘は母が家に来たことも、入院したこともしらなかった。

写真は5月。このころは抱きかかえて一緒にベッドからテーブルまで歩くことができた。
テーブルの上に両手を置いてあげると結構長い間ついていることができた。
きょうはここまで。




2016年7月31日日曜日

浴衣を集めて思うこと

さてさて、前回の更新が4月9日でそれから、ずいぶん間をあけたものだ。
更新直後の11日に母を引き取り丸丸3か月が経った。
介護生活にもようやく慣れ、日常に戻ったということかもしれない。
母のことは次に書くとして、今日は浴衣のことを書きたい。

ドルトムント独日協会というところが、福島の子どもたちの保養費用を集めて多額の支援金を沖縄・球美の里に送っている。私が世話人をしている未来の福島こども基金も球美の里を支援している。というか、球美の里の運営にも私自身関わっている。
夏は3回、冬が2回、春が1回、学童だけの保養を沖縄・球美の里で行なっているが(それ以外は就学前の子どもと母親の保養)、昨年の夏の保養2回分(約1000万円)、春の保養1回分(約500万円)をすでに寄付してもらっている。★今年の夏の保養もすでに2回分の支援が決定しており、1回目61次の保養は終了。現在ほかの募金からの支援で62次保養が始まった。ドルトムント独日協会からの今年2回目の保養は18日から始まる。昨年、今年と合計すると大変大きな額である。そのドイツでは難民問題など、急を要する問題が山積み。福島への募金も減少傾向にあるそうだ。
それで少しでも寄付金集めの足しにと日本の浴衣人気に目をつけ、バザーで売っているとのこと。そろそろ手持ちが底をつきそうなので、集めてほしいとの依頼がドルトムント独日協会よりあった。
日本国内はもしかして、ドイツよりさらに福島への関心が薄れている感もあり、私たちとしては、全面的に協力しなければならない。

主題はここから。
未来の福島こども基金では、ニュースレター12号に掲載し、下のようなチラシを同封した。
今週の月曜日25日にメール便で1500人のみなさまに送付した。
28日から荷物が毎日届いている。何らかの反響はあるだろうと予想はしていたが……。
25日に送ったゆうメールは早ければ翌日。通常27日着と見ていいと思う。
仮に26日にニュースレターが届いたとして、その日のうちに読んで翌日に出さないと28日にこちらには届かない。
これはネット以上の速さではないだろうか?

未来の福島こども基金のホームページやfacebook、個人のFBでも告知したのは約1か月前。
訪問者数はそう多くないのは事実だが、いわゆるSNSは使った。
しかし、1件も問い合わせがないし、浴衣も送られてこなかった。

実は未来の福島こども基金で支援している沖縄・球美の里では、クラウドファンディングプロジェクトを始めた。

開始5日以内に50%達成しないと成立が難しいそうだ。
そのため、開始前から念には念を入れた準備を行い、開始直前に知人たちに告知してそれは始まったのだが……。なんとかそれは達成できそうではあるが……。

話を戻すと、ニュースレターを送った後、未来の福島こども基金には、浴衣についての問い合わせは1件もない。
ただ、送られて来るのみ。
28日3件。29日1件。30日2件。31日1件。
パソコンを見る人、見ない人、それぞれに立場が違うのだ、と思わざるを得ない。そして案外パソコンを見ない人は多いのではないだろうか。

ニュース12号は昨年度の収支報告を掲載している。
ご寄付者との間に信頼関係があるからこその浴衣寄付なのだと改めて、感じている今日このごろである。

(★今年の夏休み保養、今、真っ最中であるが、そちらの保養費も支援してもらっているので、修正した~8/4記)




2016年4月9日土曜日

今年の桜

4月1日に久米島から子どもたちと一緒に帰ってきた。
ちょうど桜の真っ盛り。ラッキーだった。
本州出身で現在久米島在住の友人の話では、長い間、ソメイヨシノは見たことがないと。
そう言えば、花がいつも咲いている沖縄では桜はあまり見かけない。
沖縄に多いのはヒガンザクラで濃いピンク。ソメイヨシノとはまるで違う。

母の状態があまりよくないので、1日おきぐらいに通っている。
晴れていたら土手を自転車で約15分、その後、一般道を15分、たっぷり自転車で30分はかかる道のりである。

桜を何回も見ることができた。

柳瀬川の土手の桜と新河岸川の写真も1枚。

母にもと、施設の近くで花見をしたが、まったく見ていなかった。

認知度の低下が著しい。
月曜日には母を引き取ることになっている。ベッドも、車いすもレンタルした。準備万端だがどうなることやら。ま、家族やご近所の人もいるので、何とかなるだろう(-。-)y-゜゜゜







2016年3月1日火曜日

子どもたちの未来について考えてみませんか?>パルシステム東京昭島委員会

前回の投稿からちょうど1か月目。
早、3月。
今日は、パルシステム東京昭島委員会というところで、チェルノブイリの保養をチェルノブイリ子ども基金の佐々木さんが、福島の子ども保養を私が話をする会があった。
昨年より、パルシステム東京さんの各地域の委員会に呼ばれること数回。

ここ半年で目黒、等々力、墨田、昭島と多方面の地域において、学習会を開いてくれた。
どこもパルシステム東京の食材の試食も兼ねて、お茶つき。

どこもこじんまりとした会ながら、真剣に聞いてくれた。
長いこと、5年ぶりに昭島の友人に連絡をとり、急だね、と言いながら友人も参加してくれた。

中神という青梅線の駅前のカフェで友人と3人で昼食をとり、旧交を温めることができた。

帰りは母の施設に直行して、おやつを食べさせた。

最近は昼食、夕食、おやつの時間、私の行ける時間にできるだけ行くようにしている。毎日とはいかないが、大体2日か3日おきには行っている。

先々週、娘一家が一時帰国して、孫(母にとってはひ孫)も一緒に母のところに行ってきた。ほとんど会話もないのだが、3歳の孫が「こんにちは!」と元気に言ったら、なんと「こんにちは!」と返事を返したのだ。

おそるべき子どもの力である。

そして、持参したバナナを3本を孫2人と母と、おいいしそうに食べた。大きなバナナだったが完食。その日以降、なんとなく元気になってきた。

今日は施設の近くのコンビニでバナナを買おうとしたら、売り切れだった。
悩んだ末に、サツマイモ入りの蒸しパンを購入。
そして、パルシステムの委員会でいただいた試食品の魚肉ソーセージ、どちらも食べた。昔からの味だと間違いない。お茶も飲んで、今日のおやつの時間は大成功!



2016年2月1日月曜日

最近の母

2016年も開けたと思ったら、もう1月も末。
毎日毎日バタバタと時は過ぎていく。

母は12月ごろから食欲が落ち、痩せてきた。

昨年の春ごろも食欲がなく、もう年だからしょうがないなと覚悟していたところ、また食べだして元気になっていた。

今はなるべく通って母に食事をさせている。

行っても、寒い、暑い、痛い(極度の痛がり)、寝る、、、、
ぐらいしか言わない。
食べたくないときは首を振る。

痛がりということも理由に、インフルエンザの注射は毎年パスさせてもらっているが、インフルエンザにかかったことはない。

今年の新年は、埼玉に来る予定がなかった姉一家だが、母の衰弱が激しいので、と言ったところ、来ることになった。

24日の日曜日、たまたま姉の娘一家が埼玉のアウトレットモールまで新潟から買い物に来る(!?)ということでその車に大人4人、小学生2人の計6人が乗り、やってきた。

母に食べさせるため、柔らかいものを、と、大根と里芋を煮ておいたのを、母のところに行く前にお茶と共に出したところ、食べるわ食べるわ・・・
ついでにご近所からいただいた、ポンカン、ザボン、久米島の友からいただいたドラゴンフルーツも。

私と夫の生活ではご飯が余った、焚き過ぎだ、とケンカになるのだが、見事なまでの食いっぷり。食べ盛りとはこんなものか、とはるか昔を思いやった。

とにかく、それら全部平らげて、母のところに出発!

母の状態によっては外に連れ出すのは無理かと思ったが、案外落ち着いていたので和風のファミレスまで一緒に。

こちらも案外食べた。途中、何回か席を立とうとしたのをごまかしごまかし、3分の1ぐらいは食べた。上出来だ。

その2日後、施設に行ったら、なんとスプーンを持ってご飯を食べていた。
最近ではお昼に行っても、寝ているときが多い。
食べさせなければならない人が何人もいるので、スタッフは大変、順番だ。
だから、私が行ってから起こして移動させ、それから食べさせる。

途中立ってベッドに行ってしまうことも多し。
でも、大丈夫、今のベッドは電動だから簡単に起こせる。
起こした姿勢で、ベッドで続きを食べさせる。


やはり、食べるとエネルギーが出て、自分でも食べようという気分になるのだろうか?
この調子でもう少し、食べてほしいものだ。

しかし、どっちも髪が真っ白だから、母のところでみんなと一緒のテーブルで食事をさせていると私が入所者のようで、まったく違和感がない(^_-)-☆
実際に母のご飯を6:4ぐらいで私の方が食べていたりする。
残すのはもったいないからね。

写真は和食レストランで。